とむやんの氣まぐれ雑想記

〈探幸王〉を目指して、さまざまな想いを綴ります☆

「D」の補足。


昨日書いた、〈言葉〉について。

ABCのための「D」 - とむやんの氣まぐれ雑想記

 

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言い足りない、書き切れない部分があったので、ちょこっと補足。

しかも、このタイミングでちょうどいい(?)事例があった。


今日(2017.2.8)のニュース。
南スーダンのPKOに参加する陸上自衛隊の日報で、「戦闘」が報告されていた問題。

稲田朋美防衛相は衆院予算委員会で、「戦闘行為」の有無について、こう答弁したという。

「事実行為としての殺傷行為はあったが、憲法9条上の問題になる言葉は使うべきではないことから、武力衝突という言葉を使っている」。

これはつまり、「憲法違反だってわかってるけど、〈言葉〉を選べば問題ないでしょ?」っていうようなこと…?


昨日の記事で、「もっと遊び心を発揮して、新しい言葉をつくってもいい」と書いた。
言葉遣いなどの間違いに対して、そんなに怒らなくても、というようなことも書いた。

けれど、政治家のこういう発言は全然別ものだと言いたい。
「遊び心」じゃなく、言葉を「もてあそび」、市民をバカにしている。
「間違い」などではなく、明らかに意図的にはぐらかそうとしている。

それとも、本当にわかっていないのか?
そうだとしたら、もう〈言葉〉の問題云々ではなくなる。

漢字の読み間違いは、まあいい。
けれど、権力をもつものの〈言葉〉遣いは、「乱れ」程度で表現できるものじゃない。

いわゆる「若者言葉」には眉をひそめるクセに、「政治家言葉(造語だけど)」の姑息な手段は見て見ぬふりをする。
それとも、こちらも本当にわかっていないのかな?

日本語の乱れを真剣に危惧するなら、批判すべき相手をちゃんと考えた方がいいとぼくは思うけど。

そして、そういう大人のあり方を、子どもというのはよく見ているものだ。
まさに、「人の振り見て我が振り直せ」と、刃が自分に返ってくる。


ぼくが言いたかったのは。

例えば新年の挨拶に「あけおめ」と言われても、「あけましておめでとうございます」と返す。

もしかしたら、子どもたちには言い直させるかもしれないなぁ。
でも、基本は相手に「言い方がなっとらん」とは言わないでおこう。
そういうことを言う人がダメだ、と言うわけじゃない、むしろそれはある意味ありがたい存在なんだろうと思う。
(ちなみに、ぼく個人は別に「あけおめ」はキライじゃない)


「言葉」は大切にしたい。
けれど、その想いを人に押し付けるのは、やり方としてあまりうまくないかな、って。
個人的にはそう思う。

言葉遣いのステキな人がいたら、そんな風になりたいと、そっちの連鎖を起こしたい。
若いときなんかは反発もしたくなるし、簡単に変わるわけじゃないけど。


ひとつ、たぶん重要なことを書き忘れていた。
「遊び」ってのはある意味、「命懸け」なんだと思う。
言葉で「遊ぶ」ってことは、伝える相手に、そして「言葉」そのものに、敬意をもてるかどうか。

こんなことに「命懸け」だなんて、それこそ〈言葉〉を軽んじてると思う人もいるだろう。
そうかもしれない。
ただ、それに関してはあくまでも自分自身の問題だ。
ぼくが「命懸け」をどう定義しているのか、そしてどう行動するのか。


権力者は、〈言葉〉ひとつで人の命や国の行く末を左右しかねない。
そういう意識と覚悟は、やはりもっていてもらいたい。

だから、言葉が上滑りしたような答弁ばかりの国会は、うんざりする。
でもだからこそ、そこから目をそむけたくはない。

言うまでもなく、「言葉は刃物と同じ」。
便利な道具にもなるし、殺傷能力のある武器にもなる。
結局のところ、使い手のあり方が問われる。

と書いてみたものの、かえってわかりにくくなってしまった…。
刃物を使わない人からしてみたら、「怖い」印象ばかりが強調されてしまうだろうな。

肥後守で鉛筆を削らなくなった現代、同じように〈言葉〉もだいぶ追いやられているのかもしれない。
それをどう取り戻すのか。



とまあ、補足のはずなのに、ますます収拾がつかなくなってしまった。
それだけ簡単な、単純な問題じゃないってことではある。

とにかく、こんなことを念頭に置きつつ、「ABCのためのD」で言葉ひとつひとつに再注目していけたらと思っている。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん

ABCのための「D」


今回、新しいカテゴリーを追加してみました。
「ABCのためのD」。

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このブログを書いていて、もしくは【ABC】というブックカフェを主催してみて。

ブックカフェ「ABC」☆ - とむやんの氣まぐれ雑想記

普段当たり前に使っている単語が、人によって認識が全然違っていたりする。
もしくはやけにネガティブに捉えられていたり、解釈が曖昧だったり。


最近、語源や成り立ちに興味があって、よく調べるようにしている。
また、不当な扱い(?)をされている言葉に光を当ててみるのがおもしろかったり。
(↓以前、「雑」という言葉の「面目一新」するべく(大袈裟かな?)書いた記事)

雑?!エンターテインメント☆ - とむやんの氣まぐれ雑想記


そもそも、普段当たり前のように使われている熟語などでも、明治の頃につくられた「和製漢語」や「新漢語」といわれるものが結構ある。
正直言うと、「誤訳でしょう」と言いたくなるようなものもあるし。

そのことを別に、否定しているわけじゃない。
ただ単に、いっそのこと創作的な要素も含めて、再定義してもいいんじゃないかと。

そして、それがいくつも集まったら、「辞書」っぽくしてみたらどうだろう?
つまり、「D」はdictionaryのこと。

そんな思い付きを、ちょっとずつ形にしていけたらと思う。



そういえば、この「辞書」という言葉もどういう意味なのか。
「辞」は、元々は「辭」という漢字。
「糸に上下から手をかけ、乱れないようにする」象形と、「入れ墨をするための針→罪人を責める」象形から成り立っているそう。

それが「詞」という漢字と音が同じで、「辞」も同じ意味をもつようになったとか。
あれ、なんかオチがあまりにもあっけない…。


でも、そうやって見てみると、音の響きというのはやはり重要な要素。
おせち料理とか縁起ものだって、駄洒落的な語呂合わせも多いし。

たまに、漢字の書き替えを「氣に入らない」という人がいるけど。
実は昔からあったことだし、個人的にはそんな目くじら立てなくてもいいかな、と。
(例えば、「上機嫌」を「上氣元」や「上喜元」と書くなど)

むしろ、もっと遊び心を発揮して、新しい言葉をつくってもいい。
そうやって言葉は、かえって生き生きとしてくるんじゃないだろうか。

「言葉はいきもの」なんて言い方もよく耳にする。
これまた「間違いを正当化するな」って怒る人がいたりして、まあいいけどさ…。

昔、天声人語茨木のり子さんの「日本語」という詩が紹介され、別の随筆の言葉も引用されたことがあるらしい。

「いやな日本語を叩きつぶせば、美しい日本語が蘇るというものでもないだろう」

 

「正しい」と思うことを自分は貫く、それはいいことなんだろう。
自分は「いい」と思うものに、ただひたすらに光を当てていけたらと思う。

だけど、「悪い」と思うものを「切除」や「排除」してしまえばいいというのは、何か違う氣がする。
前回の記事にもつながる部分だけど、そこを「叩き潰す」ことって、実はそれ自体を抹殺しかねないこと、だったり。

そして、「人に向けた刃は自分に返ってくる」というけれど。
本当にこれは世の常だなぁと、そう思っているから。



ところで、今月もまた【ABC】を開催予定です。
滋賀県栗東市のぼくの自宅アパートで、こじんまりと。
ヴァレンタインデーの2月14日、10時30分ごろから。
テーマは、「甘くて、ちょっぴりほろ苦い」。
いつも通り、ゆるい感じで楽しくお喋りができたらと思います。

《滋賀・栗東》オルタナティヴ ブック カフェ 【ABC】


新しいカテゴリーの「ABCのためのD」も、またこれからぼちぼち書いていこうと思いますので、よろしくお願いします。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん

鬼も内。


今日(2017.2.5)は嬉しいことに、なかなか会えない友人が家に寄っていってくれた。
一時間ほどだったけど、心躍るひとときだった。

またしばらく会えないだろうけれど。
「そこにいてくれる」ことの喜び、そしてありがたさ。

そういうことを、ついつい「当たり前」に思ってしまいがちだ。
「一期一会」、大切にしたいとは思いつつ。

いただいた中国紅茶を飲みながら、そんなことを考える。

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さて、昨日(2017.2.4)は立春でしたね。

その前日が節分、と思っていたけど。
調べてみたら、2025年からは節分は2月2日になるんだと知って、ビックリ。
(2021年になる可能性もあるという)

まあ、それはともかく。
一昨日はいろいろあって豆まきができず、昨日の夜に子どもたちと豆まきをしました。

その際、ウチでは「福は内、鬼も内」の掛け声で豆まきをすることにしています。



以前から、妖怪のことや鬼のことにはとても興味があって。

鬼は特に、昔話などでも「お馴染み」の存在。
それだけに、ステロタイプステレオタイプ)にはめられていることも多い。

見た目は怖い(それもイメージ先行なのかもしれない)けど、案外いい奴かもしれないのに。
外見で判断されるとか、全然「他人事じゃないよ」って思ってしまう。
だから、ついつい鬼や妖怪の肩をもちたくなったりする。


実際、先ほどのように「鬼は外」と言わないところも各地に点在する。
理由はさまざまだけど、やっぱり鬼だって悪い奴ばかりじゃないんだ、たぶん。

例えば、5月の第3日曜日には「青鬼祭」というのがあって。
学僧の朗澄律師(りょうそうりっし)が、「死後は鬼の姿となって石山寺の聖教を守る」と誓って亡くなり、金色の鬼の姿であらわれたのだとか。
そんな風に、いい鬼(という言い方もどうかとは思うけど)もいるわけで。

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(↑写真は昨年の様子、青鬼が団扇を優しく手渡してくれます(笑))


鬼とは本来違うけど、例えば男鹿のナマハゲや能登のアマメハギなどは、むしろ災厄を祓ってくれる存在。
見た目はほとんど同じ(実際には会ったとこはないけど)なのに、扱いがまるで逆。


そうそう、京都で節分祭と言えばやはり吉田神社の「追儺式(鬼やらい神事)」。
ぼくも滋賀に越してから、比較的近いのが嬉しくて、何度か行ったりした。


追儺(ついな)とは、節分の豆まきの元になったとされる宮中の年中行事。

疫鬼を追い払うのは、「方相氏(ほうそうし)」という呪師。
矛と盾をもって、四つ目の面をつけている、正直鬼より怖ろしい姿。

怖ろしいものに対抗するには、それ以上に怖い恰好が必須なのかもしれない。
けれど、その異形の姿が裏目に出たのか、いつしか方相氏が「鬼」とされてしまう。

世間というのは、いい悪いに関係なく、「出る杭」を嫌う。
結局、そうやって切り捨てて「平穏」を取り繕おうとするのは、昔から変わらないのかもしれない。
その辺のことはまた改めて掘り下げて考えてみたい。



さて、節分の話に戻ろう。

あれこれと考えてみればみるほど、何かを排除して自分たちは「平穏無事」でいようとするなんて、ずいぶん身勝手なんじゃないか。
氣もちとしてはわからないでもないけど、それで「福」が招けるとは思えないなぁ。


とまあ、まとまりのない文章になってしまったけど。
また改めて、この辺のことを整理して考えてみようと思う。

そして、本当に「祓うべきもの」は何なのか、それもまた別の機会に。

追記
そんなことを昨年の今頃、あれこれと考えていて。
それをベースのひとつにして、できたのがオリジナル曲の『まつろわぬもの』。

歌ができました♪ - とむやんの氣まぐれ雑想記



                    せれんでぃっぽ☆とむやん

久々に守山。


早いもので、もう2月。

昨日(2017.2.1)は午後、守山駅周辺へ行ってました。

ひとつは、駅西口すぐのセルバ1階にある、「コラボサロン・ラボ」さんへ。
この日は【ヒト+市〜hitoto-ichi〜】が開催されていて。

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お目当ては、「金森商店」さんのお菓子。
いつも人氣なので早く行かないとと思いつつ、やはり出るのが遅かった。
それでもクッキー2種類、買えました♪

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(ココアクッキーとロシアンクッキー、アールグレイ紅茶と美味しくいただきました)

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「地域の女性(主婦)が活躍できるワークショップサロン(レンタルサロン)」ということでしたが、男性でもふらっと行けてよかった(笑)
「コラボサロン・ラボ」の方にチカ守山のパブリックスペースを案内してもらったり、なかなか濃い時間でした☆
今後つながれて何かできたら~と盛り上がったので、新たな展開があるかも?

「金森商店」さんともいろいろお喋りできて、「文章楽しみにしてます」と言ってくれた~♪
とても嬉しいので、もうちょっと宣伝しておこうw

今回は買わなかったけど、「金森商店」さんといえば「とび太くんビスケット」。
このブログを始めたときにも、ちょこっと紹介しましたが。

コーヒーブレイク☆ - とむやんの氣まぐれ雑想記


これ、お土産にしたら絶対喜ばれるよね~、折れないように氣をつけないとだけど。
「金森商店」さんは絶賛育児中なので、ぼちぼちペースにはなるみたいです、fbでチェックしてみてください。

そうそう、出店者は同じではないかもしれませんが。
【ヒト+市〜hitoto-ichi〜】第2回目は3月10日[金]開催だそうです。
アトリエ出店者も募集しているみたい、氣になる方は要チェック☆



もうひとつは、今度は駅東口。

Le lavege(ルラバージュ)さんというレンタルスペースで、CAFE'-TASSE(カフェタッセ)さんが2月の水・木に限定のカフェをやっているということで。
無農薬栽培の珈琲を自家焙煎されていて、とても美味しい♪

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(今回はエチオピアの珈琲とガトーショコラをチョイス)

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この期間、風水整理収納士の方がいらして、なんと15分500円で見てくださるとのこと。
(いらっしゃらない日もあるそうです)
ぼくもまた、家の間取り図もって行きたいと思っています。


ステキなお二方といろいろお話して、あっという間に時間が過ぎていく。
駅前とは思えない、いつもこんなカフェがあったらいいのにと思っちゃう。

2月の水・木、10時~17時のオープン、氣になる方は是非是非☆



時間にしたら、2時間弱しかいられなかったけど。
守山駅まで自転車で20分弱だった、道を選ぶとかなり近いなぁ。

今度また、他もいろいろ巡ってみたいと思います♪


                    せれんでぃっぽ☆とむやん

旧暦新年の抱負。


今日(2017.1.28)は新月、旧暦の元日。
あけましておめでとうございます。

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(↑写真はあかね軒さんの「はなびらもち」、食べたのは昨日ですが…)


新暦の新年のブログでもちょっと書いたのですが。
今年は、「常に変化して、新しい自分であること」を抱負にしています。

調和の回復。 - とむやんの氣まぐれ雑想記


滋賀に来てから、そして特に最近はいろいろなことを思い付いては試していました。
それを今年は、もっと加速度的にやっていけたらと思います。


以前UPした、「妄想プロジェクト」。

マジでステキ 12 project☆ - とむやんの氣まぐれ雑想記


ネーミングがイマイチだったかなとか思いつつ。
12個も並べたけれど、発展的にやれていないことが多いなぁ。

半年以上経って、当然変わってきたこともあるし。
せっかくだからこの節目に見直して、ますます楽しくやっていきたいな。



まずは、「双談笑会(そうだんしようかい)」のこと。
長くなりそうなので、詳細は次回にするけれど。

ずっと自分のやりたいことって何だろうと思っていて。

いろいろなところで司会をさせてもらったり、演奏させてもらったり。
文章もあれこれ書くようになって、それでブログも始めてみたり。

今はちょっと停滞中のインターネットラジオも、ブックカフェも。

最近は「口から(先に)生まれた」と揶揄されたりもするけれど(笑)
以前はそんなに喋りたい方じゃなかった。

それが今はいろいろな人と喋りたいし、それ以上に話が聴きたい。


たぶん、それを自分なりに形にしたいと思った。
それが、「双談笑会(そうだんしようかい)」なんだと思う。

ニーズがあるのか全然わからないけど、自分にとってのライフワークにしたいと思う。
そう思いながらもなかなかスタートできずにいた。

というわけで、詳細は次回。
(これだけだと何が何だかわからないと思いますが…)


そう忘れちゃいけない、今年はいわゆる「朝型」にシフトしたいのです。
明日も早いし、この辺で今日は寝ることにします☆


                    せれんでぃっぽ☆とむやん

セルフ・エフィカシー☆


昨日(2017.1.26)は家で、「どんぐり倶楽部スタートの会」がありました。

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(↑「どんぐり倶楽部」を教えてくれて、そして今回の会のレクチャーをしてくださったゆみこさんが焼いてくれたクグロフ型のケーキ♪)


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「どんぐり倶楽部」とは…、ぼくもまだよくわかっていないので説明できません…。
妻のブログに今回のことが書かれているので、そちらをご覧ください。

まなくらブログ

(↑今見たら、全文が表示されない、なぜなんだろ…?)


実際見てもらわないと、正直わかりにくいかもしれない。
今までの常識をひっくり返してしまう学習法、と言っていいと思う。

例えば、漢字書き取りや算数の計算などが特にそうだけど、繰り返しや反復こそが大事だとされている。
ところが、そこに変化を取り入れた学習や練習の方が効果をより高めるということも、最近は実験などでわかってきている。

「どんぐり倶楽部」には問題集があって、それが一般的に考える問題数からしたら、圧倒的に「少ない」。
けれど、そのことによって「考える力」を高め、そしてそれは「楽しく生きるため」のことだという。

「どんぐり倶楽部」のサイトに、憲章があって。
1.子どもたちの力を信じる。
2.無理なく無駄なく効率的な学習指導をする。
3.〈考える力〉を身につけさせる。

この辺のこと、自分が最近考えていたこととリンクしていて、余計におもしろい。



今までの時代って、「経験則」や「常識」というのが重要視されてきた。
前回書いたけど、これって何かしらの〈過去〉の積み重ねでしかなくて、新しいことをするには実は弱いんじゃないか。

そもそも、「経験してナンボ」っていう風潮が、世間にはまだまだ根強い。
けれど、これからの時代は特に「無駄な経験はしなくていい」。
そんな風にぼくは思っている。

その辺の説明がうまくできるかわからないけど。
失敗を怖れるあまり、「必要な失敗」ができないまま「無駄な失敗」ばかり繰り返している、そんな感じか。
見当違いなことばかりしていても、それって有効な経験には成り得ないんじゃないか。

むしろ、その無駄な経験が新しいことへの挑戦を妨げていたりする。
その悪循環に陥った人は、何に対しても「ど~せ無理」が口癖になっていく。
せっかくの経験が、やらないための言い訳にしか役立っていない。


ノーベル文学賞の一件で改めて注目されているボブ・ディラン
彼はデビューアルバムの録音に際して、ほとんど歌っていなかった曲をセレクトしたという。
普通なら、いつもの得意としている曲ばかりを選ぶだろう。
彼はどうも、「常に新しいことに挑む」ことを自分に課しているんじゃないか。
そしてだからこそ、ボブ・ディランは決して古くはならない。


今回たまたま、「セルフ・エフィカシー」という言葉を知った。
単なる「自信」とはちょっと違う、それは前述の通り〈過去〉の「経験則」でしかなかったりする。
それは「失敗」することによって、それをどう捉えるかに関わらず、積み立てが一氣に壊れかねない。
「失敗」に対する許容が狭くなり、怖れの方が強くなってしまう。

それに対して、「セルフ・エフィカシー」という未知のものに対する「何とかなる」感があれば、とにかくやってみようする。
そこに根拠はない、けれどうまくいく見込みがもてるし、失敗しても軌道修正すればいいと開き直れる。
結果、行動の分母が増えることによって、達成の分子が増えていく。

セルフ・エフィカシー」というのは心理学用語で、ぼくにはちゃんと理解できているかはわからない。
あくまでも、これはぼくの解釈であり、それを表すのにいい言葉だなと思ったので使ってみた。


ボブ・ディランは、セルフ・エフィカシーが高いだけでなく、それを高める意識が強かったんだと思う、自覚があるかないかはわからないけど。

ぼくが敬愛する岡本太郎の『自分の中に毒を持て』は、まさにそんな時代を先取りしていたすばらしい本だと思う。
結局、それは先取りなんかじゃなく、いつだって本質なのだろうけど。

ともかく、「セルフ・エフィカシー」は、これからの〈教育【education】〉を考える上で重要になってくるだろうと思う。
みんな幼いときにはもっていたものなのだし、それを引き出して生かす。

「どんぐり倶楽部」は、その点からも非常にいい学習法なんじゃないかな。
「どんぐり倶楽部の会」はまたやる予定みたいなので、興味ある方は是非☆



久々に長い文章、お読みいただきありがとうございました。
今、書きたいことが山ほどあるので、ちょっとスッキリしたかな。

ちなみに、明日は新月の日、旧暦の新年が始まりますね。
新暦の新年と旧暦の新年のこの期間が、自分には何だかちょっとおもしろい。
ちょっとロスタイム的な感じ、かな。

新暦の年末までにやろうと思っていたことも、なんだかんだでできない。
それを今度は旧暦の年末までにやろうと。
そう言いながら、毎年のように結局やらなかったり…(笑)

けれど、「区切り」があるのはいいことだと思います。

バタバタのまま旧暦の大晦日を迎えていますが、もう一度氣もちを新たに。
これからもよろしくお願いします。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん

粘土団子をばらまくように。


前回書いたように、一昨日(2017.1.23)は cafe salon STILLROOMへ。

「この時間帯にカフェにいます」と宣言して、来たい人が任意で集まるという。
そんなちょっとした思い付きのアイデアを、早速形にしてみました。
まだこれといったネーミングが考え付かないので、何だかキレのない説明だけど。

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結果から言えば、予報通り雪が降った影響もあって、思っていた形にはできなかった。

けれど、なぜか「7並べ」をしたり、映画の話や手みやげの本で盛り上がったり、ウクレレ演奏をライブ配信してもらったり。
それはそれで、楽しくてあたたかい時間だったな☆

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もちろん、天候のせいにはしない、そこから「次」をどう捉えていくのか。

「【個別的】くらしとせいじカフェ」も、「わたし誌」づくりも、次はもう少し準備や段取りを考えてみたい。
「ちょっと一曲弾いてみますか」(ちすずさんが名付けてくれた)は、「こたつライブ」実現に向けて、いいイメージができたように思う。

そして、今回のFacebookでの告知が、思っていた以上の反響をいただいた。
それがとっても嬉しかった。
正直、何も反応ないんじゃないかという、そんな懸念もやっぱりちょっとあったし。

来てくださった方、リアクションくださった方、ありがとうございました♡

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(↑ちすずさんが撮ってくれた写真、ちょっと加工しました)



最近、〈夢〉ってどうやって描くのがいいんだろう?とあれこれ考える。
その一方で、〈夢〉というものを過大評価というか、いろいろ詰め過ぎじゃないかとも思う。

結局、〈夢〉は通過点でしかなくて、モチベーションを高めるためにはとても有効。
けれど、〈夢〉がなくても実は全然困らない。

その辺のことはまた改めて考えていくとして。
今回はその〈夢〉のカケラ、〈アイデア〉について。


今回の、かなり自主的&個人的イベント(と呼んでいいのかもわからない)は、ちすずさんとアイデアをあれこれ出し合ってみたことがきっかけになった。

大抵の場合、一個一個の〈アイデア〉をすぐに評価してしまいがち。
「こんなのどう?」と言ってみても、すぐに却下されてしまったり、そうなると次が続かなかったり。

ちすずさんと喋っていると、次から次へと展開して、どんどん膨らんでいく。
前回も書いたけど、「そのときはお互い、嚙み合うような合わないような、どんどん脱線もしていく」から、一見すると収拾がつかないんじゃないかと思う。
どちらかというと、テニスや卓球のラリーよりも、紅白の玉入れに近いかも。

けれど、どうやらそれがいいみたいだ。


イデアは「小さな種」みたいなものかもしれない。
ぼくは畑仕事をほとんどやったことがないので、例えが微妙かもしれないけど。

「自然農法」の提唱者、福岡正信さんの「粘土団子」というのを聞いたことがある。
粘土に複数の種子を混ぜて、団子にして畑にまくというもの。
これが、砂漠の緑化などにも効果的だという。

まかれた団子の中から、その時期や環境に適した種子が育つ。
ひとつひとつの発芽率だとか、どれが最適だとか、人が判断しない。
「自然」に委ねるわけだ。

畑のことに関しては前述の通り、ぼくはわからない。
けれど、〈アイデア〉に関しては、今回のことは粘土団子に近い氣がする。

思い付いたことを団子にして、そこからじわじわと出てくるものに手をかけていく。

〈アイデア〉に関しては、種となるそれはできるだけ「ありきたり」でない方がいい。
たぶん、「経験則」に頼っていても、それは誰かの「過去」でしかない。
だから、大抵の場合新しくなし、おもしろくもない。

その意味でも、「粘土団子」方式は有効なんだと思う。
そこのジャッジも、委ねられるから。


そうやって、育った〈アイデア〉を収穫していくと、氣付くと〈夢〉になっていたり、〈夢〉が見えてきたリすることもある。
また違う描き方もあるけど、その場合でもこの積み重ねは同じなんじゃないかな。

毎回、どんどん「更新」していく、それが楽しい。
さて、次はどんなことをどんな風にやろうかな♪


                    せれんでぃっぽ☆とむやん