とむやんの氣まぐれ雑想記

〈探幸王〉を目指して、さまざまな想いを綴ります☆

明日明後日の、告知いろいろ。


先週の金曜日、喉が痛いなと思ってたら。
土曜日の夜に熱が出て、日・月とずっと寝ていました。
ようやく回復してきたけど、まだ油断できない感じ。

今週は予定をいろいろ入れていたので、意外にみっちり。
どれもゆるい企画ではあるのですが。

寝込んでて、あまり告知できていませんでしたので、一氣に書き出します。



2017.3.16 am
まず、明日の午前中は「どんぐりシェア会」。
どんぐり倶楽部については、妻のブログに少し書かれています↓

どんぐり倶楽部スタートの会|まなくらブログ


ぼくもちょこっとだけ顔出す予定。
10時から12時、参加費は500えん。
自宅アパート1Fにて(滋賀県栗東市川辺)。



2017.3.16 pm
午後は「オルタナティヴ・ブックカフェ【ABC】」を開催します。
自宅アパート2F(滋賀県栗東市川辺)。

13時から16時の間、好きな時間に来てもらえればと思います。
出入り自由、〈カフェ〉の要素を強調した形です。

ぼくが今紹介したい本があって、それに関連した本の販売もします。
(一番紹介したい本は、販売用がないのですが…)

本はもちろん、買っても買わなくてもOK。
自分のオススメの本を一冊もってきて、ゆるく本の紹介や本を通じての話をする、いつもの流れでももちろん大歓迎。
今回はテーマを決めましたが、脱線もご自由に☆

テーマは、「弱点満点!」です。

ドネーション制〈ドリンクつき〉
(そのときの直感、お氣もちで。お金でもお金じゃなくても)

ブックカフェ【ABC】については、過去記事をご覧ください↓

ブックカフェ「ABC」☆ - とむやんの氣まぐれ雑想記

 

《滋賀・栗東》オルタナティヴ ブック カフェ




2017.3.17 pm
金曜日の午後、「【個別的】くらしとせいじカフェ」をまたやります。

【個別的】くらしとせいじカフェ☆ - とむやんの氣まぐれ雑想記


場所はcafe salon STILLROOM内をちょこっとお借りして(滋賀県栗東市安養寺)。
14時頃から16時頃までの間。

ドネーション制、そのときの直感、お氣もちで(お金でもお金じゃなくても)。
カフェ通常営業中ですので、要ワンオーダーでお願いします。



2017.3.17 pm
そしてその後、夕方16時からはウクレレサロン。
場所は同じく、cafe salon STILLROOM(滋賀県栗東市安養寺)。

料金は2000えんでドリンクとおやつが付きます。
前半はミニ発表会、後半は課題曲をみんなで弾きます。

参加はちょっと…という方も、16:00〜17:00にカフェ利用で来れば、見学ができます。
(その場合は要ワンオーダーでお願いします)

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ざっと書きましたが、ひとつひとつ説明不足かもしれません。
氣になる方は、ブログやfbへのコメント等々、是非お氣軽にご連絡ください。

あとはもう直感で、びびっときたら、来てみてください☆


                    せれんでぃっぽ☆とむやん

卒業。

今週のお題「卒業」


↑「今週」、となっているけど、実は先週のお題。
しかも、ちょっと脱線した感じになるかもですが。


昨年2016年は、いろいろなことから「卒業」しました。
実際にはやめていないにしても、自分の氣もち的には区切りが付いた(付けた)ことが結構ありました。

そのときはやめない選択をするにしても、なあなあで続けてしまうのは、個人的にはあまりよろしくない。
世間的には、「継続してこそ」という風潮がありますけどね。

自分で続けたい、続けられるようにと考えられるなら、それはきっと意味のあること。
でも、人から「続けた方がいいよ」と言われれば言われるほど、やめたくなる天邪鬼な性格なもので。

いずれにしても、自分が今の感覚として「やりたいのかやめたいのか」、確かめるのは重要だと思っていて。

すべての事象は移り変わっていって、氣もちもまた移り変わるもの。


ある団体に所属していたのですが、自分の氣もちややりたいことと決定的にズレてしまったので、抜けさせてもらいました。
会の方は「当初からこの会は変わっていない、なぜやめてしまうのかわからない」と。

あえて答えるなら、年月が経っても「変わらなかったから」こそ、自分には釣り合わなくなってしまった。
だから、どちらかに落ち度があるわけではないし、仕方のないことだと思っています。
恋愛でも、氣もちの冷めてしまったものを責めてみても、埒が明かないのと似ている。

その旨を伝えたつもりだけど、うまく言えなかったのかもしれない。
残念ながら、わかってもらえなかった様子。
それも含めて、もう仕方のないことなんだろうなと。

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(↑今回も、写真は特に本文とは関係ありません、たぶん)



何となく、ものごとには「期限」というのがあるんじゃないかと思っています。

昔、小学生の頃によく遊んでいた友だちがいて。
中学生になって、それぞれ違う学校に行ったから、会う機会もなくなって。
あの頃はそういうのが何だか「軽薄なんじゃないか?」とか思っちゃったりして。

ふと、電話をしてみたんだと思います(記憶がもうだいぶ薄い)。

なんか当然、相手の反応もトーンが低い。
ちょっと傷付いた感もあったけど、それ以上に「これでいいんだ、離れた縁はほっといてもよかったんだ」って、妙に納得できて清々しかったというか。

ご縁って、無理につなぎとめるとか、できないんだなぁって。
とは思いつつ、その後も同じような痛い目(?)も、数多くあったけど(笑)



今年は「チームで動く」というのも、テーマのひとつ。
それは「狎れ合い(なれあい)」とは違う、あくまでもチームは「個の集合体」であるということ。

だから、目指すものが変われば、チームも当然流動的になる。
それでいいんだと、最近は特にそう思います。


「今」という瞬間に、偶然的に集まったメンバーというのは、不思議とある種の〈正しさ〉を感じたりして。
その場合の〈正しさ〉は、人によるジャッジを超えている、本当の〈正しさ〉。

自分がいるべきでない、やるべきでないことを「やめる」ようになってから、そういう場面が確実に増えてきていると感じています。


自分は、自分のことにだけ責任をもてばいい、ということ。
「やらされている感」で動いていると、余計な〈カルマ(業)〉をつくり出すことになってしまうのだとか。

また、他人への干渉や心配なども、やはり新しい〈カルマ(業)〉を生んでしまう。
〈カルマ(業)〉は悪いわけではないけど、わざわざ宿題を増やしても仕方がない。
(と、ぼくは捉えてますが)


「卒」は、「死/death」を表す漢字。
元々の意味から離れるかもだけど、「卒業」ってのは「〈カルマ(業)〉を解消」していくことなんだって、そんな風に捉えてみる。

本当の自分の人生を引き受け、取り組んでいったら、いずれ死が訪れる。
いつか死ぬ日は来るのだから、そのときは大きな「卒業」を迎えられるように、日々自分を貫いていきたい。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん

「氣」、使い過ぎ?


前回書いたように、3月3日は自宅で【ABC】を開催しました。

こんなゆるいイベントでも、来てくれる人がいて、本当に嬉しい。
ありがとうございました☆



そのときに喋ったこと、ちょっと付け足して書き残しておこうと思います。
「氣遣い/氣を使う」ということ。

ところで、上の二つ、漢字が違うのだけどお氣付きでしょうか?
厳密に言えば、〈氣を遣う〉は間違いなんだそう。

それでふと思ったのだけど、〈氣遣い〉と〈氣を使う〉は若干ニュアンスも違うんじゃないかな、と。
(ちなみに、「氣」を旧字体にしているのはいつものことなので、スルーで)

本来どちらも、「相手のことを思いやる」意味合いのはず。

けれど、〈氣を使う〉となると、神経をすり減らしている感じがある。
なぜだろう?と考えると、どうやら「自分の意にそぐわない」ことを「やらされている感」が含まれているんじゃないだろうか。

例えば、〈空氣を読む〉といったことも、本来は大切な感覚だったのでは?と思う。
なのに、いつしか自発的な部分よりも、「暗黙の強制」に押されて「氣を使わざるを得ない」状態になったりする。
そうなると、しんどくなるのは当然のこと。

「風を読む」場合は、「風に流される」ってことじゃない。
どう流れているかを知った上で、どっちへ進むのか舵を取る。


キーになってくるのは、やはり「人からどう見られるか」ってこと。
人の評価を氣にすることがイコール、〈氣を使う〉ことになってしまっている。
自己保身的で、空回りしている感じ。

対して、〈氣遣い〉というのは「できる範囲で自発的にする」、という感じ。
それなら、あまり氣疲れしなくて済むんじゃないかと思うのだけど。



ポリティカル・コレクトネス【political correctness】という言葉がある。
日本語では「政治的妥当性」などと訳される。

職業・性別・文化・人種・民族・宗教・ハンディキャップ・性別などなど。
それらの違いによる偏見や差別を防ぐため、中立的な表現や用語を使おうということ。

この「PC」自体は、本来とてもいい動きだったのだと思う。
けれど、やはり過度に反応してしまうケースが多く、「言葉狩り」だとの批判もある。


さて、ここで言いたいのは、いつものことだけど、「二元論」的議論じゃない。
それがいいとか悪いとかの問題じゃなく、あくまでもバランスの問題。

社会全体が過剰に反応し過ぎて、アメリカでも氣疲れしている人が増えているらしい。
そしてそれがどうも、「トランプ旋風」の原動力にもなっているとか。

言うまでもなく、暴言を許していいわけじゃない。
そのために、自発的に言い換えようというのが、「PC」の意図だったはず。

それなのに、「もうウンザリ」した人たちが逆方向に急旋回してしまう、その氣もちはわからないでもない。

ある種の〈正しさ〉というのは、どうも窮屈さを覚える。
押し付けられた〈正しさ〉に従って動くと、結局は自発性が削がれてしまう。
(〈正しさ〉をどう定義するかは、非常にむずかしいところ)


日本での「PC」は、職業名の言い換えなどで特に、馴染みがあるだろう。
保父/保母」が「保育士」に、「家内」や「主人」は使うべきではない(「妻や夫、パートナーやつれあいはOKだそう)など。

こういうことは大事なことだけど、場合によっては「言い換えさえしておけばいい」ということになり、問題がすり替えられてしまいかねない。
言い方に氣を付ける以上に、そのことに意識を向けられたらいいんだろうな。


最後にもうひとつだけ。
人にお土産などを渡すときの、「つまらないものですが」という言い方、今ではもう「NG!」なんだそう。

「つまらないものを贈るなんて失礼な」って、本氣でそんな風に思うかな?
確かに、自分を低くすることで相手を立てるという「謙遜」のあり方はどうかと思うし、時代遅れということでいいとは思う。

ただ、「恩着せがましく」ないように、相手に余計な氣遣いをさせまいとする、そういうのってそんなに悪い〈氣遣い〉じゃないって思ったりする。

何となく、〈氣を使う〉ことがしんどくなってきて、〈氣遣い〉まで億劫になってしまう、今はそんな傾向もあるのかも。
現状で、みんなもう充分過ぎるほど〈氣遣い〉しているはず、なんだけどなぁ。

誰かが変に「がんばっちゃう」と、結局みんな「氣が抜けない」。
実はそういうのが一番、周りが〈氣を使う〉んだよね。

しかも、そういう人に限って「氣遣いができないヤツだ」とか、「アイツにはやたら氣を使う」とか、人の悪評を流す。
そういうただの「やっかみ」とか「妬み嫉み」とかで、人のことをとやかく言うと、自分の首が余計に締まるのにね。


そんなこんなで、まとまりそうでまとまらなかったけど(笑)
今日のところは、この辺で。


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(↑あかね軒の桜餅、関西はやはり道明寺ですね)


                    せれんでぃっぽ☆とむやん

活字ブームを起こそうか。


先日(2017.2.27)、近江八幡ティースペース茶楽のイベントへ行ってきた。
京都の個性的な書店「ガケ書房」を経て、現在は「ホホホ座」の店主の山下賢二さん。
「読書ブームをつくる」というタイトルで、会場は満杯。

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山下さんの著書『ガケ書房の頃』の話なども交えた二時間は、案の定あっという間。

なぜ「読書ブーム」なのか、そしてそれをどう起こすのか。
前半は山下さんの想い、後半は参加者の意見も聞きながらのトーク

いろいろ興味深いお話が聞けたのだけど、ここではその「読書ブーム」についてだけ書いておこう。

山下さんが言う、「読書はお勉強とは違う」というのは、特に腑に落ちた。
「楽しみたいだけ、読書は娯楽だと思っている」「カフェで本を読むのが至福、リッチな時間」「本を読んでいる姿を見せる、みんなが公共で読む」などなど。

自分も何となくはしていたことだけど、影響力のある人のこういう話はやはりおもしろいし、とても参考になる。
「カフェで本を読む」、ぼくもこれが娯楽のダントツ一位だなぁ。

そういうブームやウェイヴはとても響くものがある。
そしてどうせなら、乗るだけではなく、ぼくも起こす方でいきたい。


「活字」という単語、よくよく見れば何ともおもしろい。
「活字」とはそもそも、活版印刷に使う凸型の字型のこと。
そこからその印刷物や文字も「活字」と呼ぶ。

「活」は、その字型を頻繁に使う様を表していたらしい。
そこから飛躍させて、文字が「活き活きと」しているイメージを、ぼくは浮かべる。

活字には「手書き」は含まれないのだろうけど、そこはあえてごっちゃにしたい。
そして、ぼくは括りを大きくして、「活字ブーム」を起こせたらと、ふと思う。



1月2月はバタバタで、「わたし誌」をなかなかつくれずにいた。
今回は1月2月合併号という形で、一応2月中に印刷。

わたし誌。 - とむやんの氣まぐれ雑想記
(「わたし誌」については、こちら↑)

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この日茶楽では、彦根の「半月舎」(この日出店でいらしていた)の御子柴さんや、ひこねウモレボン市でお隣だった方とも出会い、「わたし誌」をお渡しした。

また別の機会に、データも載せようと思っていますが。
もしほしい方がいらっしゃいましたら、お会いしたときに声かけてください☆


そうそう、茶楽に行ったのは結構久々。
不思議なことに、行き始めると立て続けになったりする。

翌日の28日も茶楽、「あまいろだより」の編集会議があった。

ステキなカフェで会議をするというのは、とてもいいんじゃないかと思う。
楽しくてちょっとはしゃぎ過ぎたかもしれないけど。

週替わりのランチプレートもチャイも美味しかった♡

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(↑この週のメインはポーク&ビーンズ、副菜はキッシュ、菜花と白カブの塩麹和え、平春雨のチャプチェ、ごはんとスープとお茶も付いて、かなりお得☆)


「あまいろだより」も「活字」、しかも結構文字数多いかも。
ぱっと見で怯む人もいるのかもしれない、でも内容濃いしおもしろいはずなので、読んでみてほしい。


そういや、このブログも最近長めなことが多い。
それでも読んでくれて、リアクションいただくことも増えてきていて、ほんとに嬉しい。


さて、最後は告知。

このブログでもう何度も書いているブックカフェ【ABC】。
「活字ブーム」を起こす目的もあって始めたようなもの、これからはそこをもっと意識してみたい。

そして、ここ何回かの【ABC】はちょっと「不発」なので、今度は趣向を変えてやってみようと思います。


オルタナティヴ ブック カフェ
ALTERNATIVE BOOK CAFE〉
〜非主流を楽しむための【ABC】〜

ゆるゆると「本」のこと、そこから脱線して日々のこと。
あれこれとおしゃべりをする、「オルタナティヴ ブック カフェ【ABC】」。

オススメの本を一冊、もってきてください。
13時から16時の間、好きな時間に来てもらえればと思います。
出入り自由、カフェの要素を強調した形です。

ぼくに、もしくはそこにいる人たちに、ゆるく本の紹介や本を通じての話をしてもらえたら嬉しいです。
そこから話が発展していくのかいかないのか、それも一興。
ご要望があれば、ぼくもいろいろ本紹介します。

《日時》
2017年3月3日[金]13時から16時の間
《場所》
せれんでぃっぽ☆[滋賀県栗東市/岸田家自宅アパート]
《参加費》
ドネーション制〈ドリンクつき〉
(そのときの直感、お氣もちで。お金でもお金じゃなくても)

お問い合わせ・申し込みは
serendippo.ritto☆gmail.com(☆→@)
もしくは、↓fbイベントページの参加ボタンをお願いします☆

《滋賀・栗東》オルタナティヴ ブック カフェ


※子連れももちろん大歓迎。
 ただし、アパートの部屋が狭いので入れない場合もあるかもしれません。
 また、駐車スペースにも限りがあります、ご了承ください。



                    せれんでぃっぽ☆とむやん

win-win


半月ほど前だったか、たまたまこんな記事が目に留まった。

なぜ「win-win」と言いながら近づく人間にロクな奴がいないのか - まぐまぐニュース!


この記事の、「提案する側から言い出すのはおかしい」、というのはよくわかる。
ただ、「自分と相手しか見えていないから」というのは、個人的にはちょっと「弱い」かなと思った。

端的に言えば、「双方」どころか、結局「自分」しか見えてないから、じゃないかな。
「ロクな奴がいない」って言うぐらいだから、そっちの方がしっくりくる。
(この記事に対して批判したいわけではない、あくまでも)


すごく単純に言えば、「三方よし」というのはとても優れた考え方だと、改めて思う。
「売り手よし、買い手よし、世間よし」という近江商人の心得は、滋賀に来て知った。

ここで重要なのは、あくまでも「心得」だということ。
これは自分が心掛けていることであって、相手がどう思うかは問題じゃない。

自分のことばかり考えてても商人として成功しないよ、ということだろう。
それは経済が「経世済民〈世を經(おさ)め、民を濟(すく)う〉」の意味だったことを考えても、至極当然だと言える。

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(↑写真はSTILLROOMのハニーラテ、本文とは関係ありません…)


ビジネスなどの世界に限らず、こういうことは多い。

例えば、「我欲をなくしたい」という人に限って、妙に「利己的」だったり。
「自分はいいから」と遠慮するようでいて、そのくせ人を押し退けて前に出てみたり。

自己犠牲的なことを言う人ほど、後になって「なんで私ばっかり」って言い出したり。
結局それは、自分がしたいことじゃなくて、自分が人からしてほしいことなんだよね。
常に視点が「自己中心」でしかない。

プロポーズの言葉として、「あなたを幸せにします」っていうのも、これに似ている。
それなら、映画『釣りバカ日誌』の有名なセリフの方が、信ぴょう性がある氣がする。

「ぼくはあなたを幸せにする自信なんかありません。でも、ぼくが幸せになる自信はあります!」

なんか、これって一見とても自己チューっぽく感じるかもしれない。
でも、どうも自分のことを言わない方が、実はかえって自分のことしか考えられない、そういう傾向が強いみたい。
逆説的だなぁ。



それって何なんだろうと、ここ最近考えている。

自分にもまだまだそういう部分があるし、改善したいと思っているから。
そして、「win-win」という考え方がダメなんじゃなくて、ちゃんと優れた点を踏まえて実行できたらいいんじゃないかな。


例えば、「議論」。

日本人は「議論」が苦手だとよく言われている。
確かに、「事なかれ主義」的な傾向が強く、そもそも自分の主張を積極的にしようとしない。

それはそれでどうかとは思うのだけど、一方で「だからこそ議論を」というのも、何か違うなぁと、個人的には思う。
いや、それはそれでいいんだけど、自分がそう思えないのは別のところに理由がある。

というのは、そういう「議論したがる人」って、実は「議論」ができない人が多い。
少なくとも、ぼくの実感としては、そう。

そういう人は、まず大抵「人の話を聞こうとしない」し、「違う意見を受け入れようとしない」。

「議論」って、ぼくの捉え方だと、まずお互いの主張を出し合う。
そこに相違点があるのかとか、納得できる点を見つけたりとか、そうやって意見を交換するものなんじゃないかと思う。

その先に、違う点に関してどちらがより理に適ってるとか、辻褄の合わない点を指摘したりとか。
場合によっては、その考え方は間違ってるとか、こっちが正しいとか。

そのどこまでを「議論」の範疇のするのかは、人によってさまざまだろう。

ただ、「ディスカッション〈discussion〉」の語源を調べていくと、「打ち砕く」というのが出てくる。
それが本当に元になってるのかちょっとわからないけど、何となく納得がいく。

言葉の違いというのは、重箱の隅をつつくようにはしたくないけど、それでもやっぱり重要だなと思う。
なので、「議論」よりも「対話」を、ぼくは言葉として選びたい。
(対話についても、また改めて書こうと思います)

話を戻そう。

「議論をしたがる人」って、結局のところ「自分の意見を聞いてほしい」だけだったりする。

「対話」の感覚があれば、「相手の意見を聞くこと」にこそ、そこに違いがあればなおのこと、おもしろいと感じるものだろう。
(もちろん、「議論」という言葉を使うことが問題ではないし、ちゃんとそこを超えて使っている方もいる)

美輪明宏さんの言葉に、「自分に思いやりが足りない人ほど相手に思いやりを求める」というのがあるそうだ。
それは、「思いやり」に限らず、この「議論」に関してもそうだし、他の言葉を当てはめることもできるだろう。



相手を操作することはできないし、できたとしてもしない方がいい。
操作ではないけど、変えるのは自分自身だけでいい。

相手を自分の「思い通り」にしようと、氣付かないままに要求してしまっていることがある。
それが上記の「ロクな奴がいない」にもつながるし、「思いやりが足りない人」にもつながる、そんな風に思う。

「心得」は、自分がワクワクするから勝手にやることであり、それが相手にも喜ばれればなおいい、ってこと。
win-win」も、概念として理解した人なら、生き方そのものがそうなっていくだろう。
だから、言葉としても安易に使う必要がなくなる。



長くなってしまったが、最後にひとつだけ。
ぼくがステキだなと思った「win-win」的なエピソードを紹介して終わろうと思う。

友人のちゃたくんと、彦根のウモレボン市に出店したときのこと。

出没、スロウウォーカーズ! - とむやんの氣まぐれ雑想記


(そういえば、そのときのことが「しがトコ」でも紹介されていて、ぼくらも載せてもらっています↓)

神社に本好きが集う!年に一度の古本フリマ「ひこねウモレボン市」イベントレポート! - しがトコ


場所は護国神社の境内。

ぼくとちゃたくんは、それぞれの手もちの古本を並べて出店した。
ちゃたくんはその横で、似顔絵描きもする。

前半は友人知人も来てお喋りしたり、交代で他のブースを見て回ったり。
会場全体もにぎわっていて、観光でたまたま来たという年配の方もちらほらいる。

後半になって少し落ち着いてきた頃、ぼちぼちと似顔絵のお客さんが来る。

やはり観光バスで来たという、年配の男性が似顔絵を描いてもらっている。
ちゃたくんは、年配の人ほど描くのが嬉しくなると言う。
しわのひとつひとつを丁寧に色鉛筆で重ねていく、その人の年月を確かめるように。

その男性は笑うでもなく、特に会話も弾むわけでもなく、ただ座っているという感じ。

ところが、完成した絵をちゃたくんが見せると、顔をほころばせた。
それまでが、傍から見てちょっと表情が読めない感じだっただけに、正直ぼくは意外だった。

男性がお金を渡し、ちゃたくんが似顔絵を渡す。
双方ともに喜びがじわじわとあふれ出ていて、見ていたこちらもじんわりとあたたかくなった。

これが本当の「win-win」なんだろう、ぼくが心掛けたいのはこういうことなんだ。
細かく定義する必要もない、ただあの日の実感を羅針盤のように、そっちへ向かおう。

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                    せれんでぃっぽ☆とむやん

テンペと赤こんにゃくと。


このところ、がっつり書くことが多かったので、たまには息抜きを。


先週、久々にショップマドレへ。

妻に頼まれた種麹と、手づくり生テンペの入手が、今回のミッション。

そう言えば、以前このブログでマドレを紹介したとき、「手づくり生テンペのことはまたの機会に」と書いて以来、テンペから遠ざかってた…。

マジでステキ 12 project☆ - とむやんの氣まぐれ雑想記



インドネシアの大豆発酵食品である、テンペ。
マドレの生テンペは本当に美味しくて、ウチの子どもたちも大好き。

キシダ家はなんちゃってベジタリアンなので、基本肉や魚は調理しません。
最近は友人がつくる自家燻製ベーコンなどを買って調理する機会が増えましたが。

テンペは素揚げしたりタレに絡めるとますます美味しいです。
でも今回は簡単調理にしました、それでも充分美味しかった♪


それと、滋賀に来て出会った「赤こんにゃく」。
滋賀の人たちにはもう当たり前の存在なんでしょうけど、最初本当に驚いたなぁ。

テンペ同様、赤こんにゃくもまた、キシダ家では「ご馳走」です。


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テンペは、豆もやしと水菜を使って炒めものに。
テンペは切ったものをフライパンで焼いて、醬油で下味付けておいて。
すりおろしたニンニクと食材を入れて、塩と醤油とお酒で味付け。
最後にすり胡麻も入れて、葛でとろみを付けて。

赤こんにゃくは、カブの葉と煮びたし
刻んだカブの葉とショウガ、少し茹でた赤こんにゃくをあわせて、蒸し煮にします。
こちらも塩と醤油で味付け、お酢も少し使ったかな。


料理はいつも目分量なので、細かくはわかりませんが。
どちらも大好評でした、もし参考になれば。


昨年から、「手づくり生テンペ」の「勝手に普及活動」でもしようかと秘かに目論んでいたのですが。
今年こそは、「テンペを食べる会」とか、何か企画したいなぁ。


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(↑マドレと言えば、忘れちゃいけないのが米粉のおやつ☆)


                    せれんでぃっぽ☆とむやん

失恋状態ってなんなんだ?


ひと月以上前だけど、友人の家での【ABC】に参加してきた。
(【ABC】については、こちら↓)

ブックカフェ「ABC」☆ - とむやんの氣まぐれ雑想記


オルタナティヴ・ブック・カフェ【ABC】」なのに、最後までほとんど「本」が登場しないという、まさかの展開。
参加者が少人数で顔見知り同士だったからか、最初からアクセル全開な感じだし。
まあ、それはそれでかなりおもしろかった。

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参加してくれた友人が放った、「オレは常に《失恋状態》」という言葉。
これが全員に、小魚の骨が喉に刺さったように、残る。

しかも、当の本人はそれ以上うまく言葉で表せないという。
だから、各々が思い浮かべるイメージが、どこが同じでどこが違うのかも定かでない。

けれど、かえってそれがまた興味深い。

判然としないのに、それでも「わかるなぁ」と思える何かがある。
そして、それをもう少しクリアにしたくて、今日もまたあれこれ考えている。



《失恋状態》とは、なかなか「言い得て妙」だ。
これは単純に、「恋愛」に関することに限らない(はずだ)。

そもそも、「恋愛」というものの境界線が、実ははっきりしないのではないか。
例えば、一目惚れで買ったギターを大切にする感情は、恋愛のそれと絶対的に違うとは言い切れない氣がする。

だからこそ、「仕事と私、どっちが大事なの?」なんて、何だか古いドラマに登場しそうなセリフが存在するんじゃないのか?なんて、ふと思ったり。
それは単に「混同してるだけ」との反論もあるだろうが、やはり境がわかるようでわからないものなんだろう。

そう言えば、「一目惚れ」だって「絶対信じない」という人もいる。
それをれっきとした「恋愛」だと信じる人との間に、どうしても「壁」がある。
つまり、恋愛の境界線は人それぞれ、共通する「正解」なんてない、と言える。


そう考えると、《失恋状態》とは単なる比喩ではない、ということに氣付く。
対象が、友人であったり肉親であったり、本だったり仕事だったりもするだろう。
相手が人とも限らず、目に見えるものとも限らない。

そんな風に考えると、ますますおもしろくなるけれど、どんどんわからなくもなる。



さて、一度立ち戻ってみよう。

《失恋状態》って、要は「想いが果たされない、やるせなさ」かな、と定義してみる。
じゃあ、その「想い」って?
それをここで書くと長くなるので(実際書いていたら収集つかなくなったので、二つに分けた)、続きものにしてみる。


それで、これもふと思い付いたことがあって、それだけ書き残して今回はとりあえず終わりにしよう。


逆に、「想いが果たされる」とはどういうことなのか?
その点、恋愛ならわかりやすい、ように見える。

相手も、自分と同じような「想い」をもっていてくれたなら、それは失恋にはならないはず。
もっとも、伝えなければ《失恋状態》にもならない代わりに、「両想い」にもならない。

じゃあ、その「両想い」ってなんなんだ?
異性が相手の話なら、実際の細かいすれ違いは置いておくとして、「お互いが好意を寄せていて、そのことが確認できている」状態なんだろうと思う。
お互いが「何となく好きでいてくれているんだろうな」という「両想い」もあるのだろうけど、それだって何かしらの表現行為がないと、なりたちにくい。

特に女性は、それを確認したがるものだ。
それもそうだろう、当然「氣変わり」することはあるわけだし、疑い出せばどんどん不安になってくる。

けれど、その「氣変わり」は当然自分にもあることを忘れてはいけない。
ところが、その自分に対する確認が、案外なかったりする。


自分がどれだけの「想い」をもっていたのか。
例えば、あんなに好きだったのに、振り返ってみれば自分でも不思議なくらい、なぜだったかわからない、なんてことがよくある。
相手がどう想ってくれるか以上に、自分の想いの変化に自分が追い付かないとき。
それって実は、結構手痛い《失恋》なんじゃないか、と思えてくる。

その「想い」だけが、自分のコントロール下にあるはずのものなのに、そこが揺らいじゃうと、次に何かするときに二の足を踏んでしまう。



そもそも、このときの【ABC】は、「さびしさからはじめよう」をテーマにしていた。

《失恋状態》を「想いが果たされない、やるせなさ」と定義してみたけど。
ここまでくれば、実は対象が問題なのではなくて、自分自身の問題なんだと氣付くはずだ。
つまり、自分の中のさびしさや孤独に向き合い、それとうまく付き合うことができなければ、いつまでも自分に裏切られることになる。
それが究極的に言えば、《失恋状態》なんだろうと、ぼくには感じられた。

対象を通して、結局自分自身を見つめ直したりしていく。
もしそこを起点としなければ、他人の評価でしか動けない、そんな風になりかねない。
そうなれば、着る服のテイストや好みの音楽を相手の趣味に合わせてコロコロ変えるようになってしまったりして。
影響されて心からそれが好きになったのなら問題はないだろうけど、ただ氣に入られようとするだけなら、もうその時点で自分自身への裏切りが始まっているとも言える。


《失恋状態》と表現した友人は、「オレはこんなもんじゃない、もっとすごいんだ」という想いがどこかにあるんじゃないか?
実際、その不完全燃焼っぽさが漂っているし、傍から見ても「そうだよ、まだまだすごい可能性が掘れば出てくるよ」と思う。
彼に会ったぼくの周りの人の多くが、実際そんなようなことを誰もが口にする。

実は今日、その友人の誕生日なのだ。
彼はこれから、ますます花開くだろうし、もうそのスタートを切っているのは感じている。

今回の記事が、彼への何かしらのエールになれば、それがぼくなりの誕生日プレゼントになるのかなとも思うし、まあそれはどちらでもいいことだ。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん