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今、いい機会なので「教育勅語」に関連したこと、自分の考えを書き記しておきたい。
先月の国会で、「教育勅語の精神は取り戻すべきだと考えている」というような発言があった。
実際、昨年あたりにぼくの周辺でも、「いいことが書いてある」的な話があって、とにかくビックリした。
「教育勅語」の何が問題かは、言うまでもないこと、と思っていた。
それは慢心というものだろう。
高橋源一郎さんが「教育勅語」を現代語訳して、ツイッターで紹介したという。
そのことが先月末に見た新聞にも載っていた。
高橋源一郎さんがおっしゃるように、「議論のきっかけ」が増えるのはいいことだと思う。
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さて、以下はぼくの意見。
今回「騒ぎ」になったことは、かえってよかったと思っている。
それに、案外「教育勅語」はよくないという論調も目立って、少し安心もした。
そういう中で、もうすでに何度も書かれていると思うけど。
「万一危急の大事が起こったならば、大義に基づいて勇気をふるい一身をささげて皇室国家のためにつくせ」(「旧」文部省による通釈)
あれこれと書かれている徳目も、結局はここに集約される。
「忠良な臣民であれ」、と。
その一点で、「教育勅語」が廃止や失効となったことの理由は、もう充分な氣もするのだけど。
ここではあえて、違うところを突いてみたい。
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あれこれと書かれた徳目について。
「いいところがある」という、それ自体からしてぼくには「違和感」しかない。
真っ先に書かれた、「親孝行」について。
「親孝行しましょう」なんて、いいことが書いてあるじゃないかと、言う人がいる。
別に、「親孝行がしたい」というのであれば、それはそれでどうぞというだけの話。
けれど、奨励するとなると(実際には強要に近いと思うけど)、黙っておけない。
「孝」とは、儒教の徳目として重要視されていたらしい。
その「孝」について孔子は、「健康でいることが孝行」と言っているらしい。
世間が思う「孝行」とは、だいぶずれているんじゃないか?
子どもができて、自分が親というものになったとき。
願うのは、子どもたちが幸せでいてくれることだ、とつくづく思う。
もちろん、親として言うことを聞かせようとしてしまうことはしょっちゅうだし、それで怒ることもある。
それでも、こっちの狭い了見など、軽く超えてくれたらいい。
そう思ったら、自分が心から幸せでいること、それこそがご先祖さまが喜ぶことだと氣付いた。
そういう話は、ライブなどでも前々から何度もしているのだけど。
そもそも、子どもが産まれてきてくれたこと、嬉しそうに笑っている姿を見ると、もう「孝行」なんてとっくに「前払い」されているって感じる。
それ以上、何を望むというのだろう?
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それ以外の徳目についても、もう言うまでもない。
はっきり言って、大したことなんてひとつも書かれていない、と言っておこう。
「夫婦は仲睦まじく」とか「友だちとは信じあって」とか、そんな条件付けをいちいちされたくない。
それを自発的に実行することはとてもいいことかもしれないけど。
だからこそ、こんな「正しさを押し付けるような」教えなんて、どう考えても「時代錯誤」でしかない。
人に優劣を付けて、見下している、ただそれだけのこと。
だから、まして「日本や日本人は他の民族より優れている」とか、そんなこと言ったり考えてるのって、本当にくだらない。
ついこないだ(という言い方がいいかどうか)まで、敵方の家系の女や子どもなどまで「根絶やし」にしていたんだから。
それは当時の限界、今はそこからかなり「進歩」しているはず。
本当の意味で「人に寄り添った」格言や教えは、もっといっぱいある。
間違いは間違いだったと認め、そこから多くを学び取る方がいい。
日本人がすごいって言いたいんなら、そのくらいのこと、言ってほしいけどな。
せれんでぃっぽ☆とむやん