とむやんの氣まぐれ雑想記

〈探幸王〉を目指して、さまざまな想いを綴ります☆

十年一昔。


十年一昔(じゅうねんひとむかし)、というけれど。

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今日は6月6日、長男の誕生日。
あれから10年が経つとは、歳月の流れよりも、ただただ信じられない感じがする。

一年前の今日も、ブログを書いたのだけど。
あのときとはまたちょっと、心境が微妙に違う氣がする。

長男の誕生日に思うこと。 - とむやんの氣まぐれ雑想記



長男のときは、妻がまだ東京の教員をしていた頃だったので。
昼間などは、ぼくがいつも一緒にいて、「一対一」という構図が多かった。

楽しい思い出もたくさんあるし、申し訳なかったなと思うこともたくさんある。

そうでなくても、最初の子というのは、よくも悪くもチカラが入ってしまう。
今がいいのかどうかはわからないけれど、余計なチカラはだいぶ抜けてきたように思う。

10年という月日の、そのときは「今現在」に振り回されているだけかもしれなくても、「小さな積み重ね」ができていくのだろう。
それを変に大切にするでもなく、かと言って無視することもできない。

ともかく、「正解」を知りたいわけじゃないってこと。

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長男は小学校4年生、だけど学校には行っていない。
一年生のときからほとんど行かなくなり、今は放課後に少しだけ時間をつくってもらったりしている。

最初の頃は妻もぼくも、長男を学校に行かせようと無理強いしてしまった。
今振り返って、それは間違っていたとつくづく思う。

長男も、「あの頃は行きたくないことをうまく言えなくて、それがつらかった」というようなことを、最近になって言っている。

ぼくも、そうじゃないことを薄々わかっていながらも、でも「ただの怠け」なんじゃないかと思ってしまっていた。
今なら言える、それがたとえ「怠け」だったとしても、イヤイヤやることに何の意味がある?と。

二年生になって、担任の先生が変わって、初めは熱心に「復帰」できるように毎日来ていただいた。
けれど、親の方はもう「明らめて」いたし、その担任の先生もゆっくりと関係性をつくっていってくれた。
おかげで、彼の「行きたくない」という氣もちを受け止めてくれて、別の形でサポートしてくれたりして、親としても本当にありがたかった。

今は妻が「まなぶ くらす」という形で、ホームスクーリングを行っている。
(この辺のことは、また改めて書きたい)

まなぶ くらす




こういう話をすると、何と言うかちょっと「嫌がられる」ことがある。
実際、学校に行かなくなった当初、何人かに「親が行かせたくない」って思ってるからじゃないの?と言われたりもした。

子どもや親が「学校に行かない」という選択をしたからと言って、それは「学校に行っている」子や家庭への批判ではない。
もし「批判」だと感じられるとしたら、それは自分の中にその種があるからだと思う。

そういう個々の選択を、ただの「身勝手」と捉えるとすれば、社会として「人権」という意識が低いのではないか、と言わざるを得ない。

イヤなのにやらなければいけない、好きではないことにも「果敢に挑戦」すべきだ、そういう価値観の押し付けは、残念ながらむしろ逆効果だと思う。

繰り返すけれど、これは誰かに対しての批判ではない。
ただ、自分や自分の子の選択を尊重してほしい、それだけのこと。

それを尊重したからといって、その他の人の選択が阻まれるとしても、それは別の選択をした人のせいじゃない。


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長男が2歳になったばかりの頃、初めて滋賀を訪れたときの写真↑
このときはまだ、滋賀に住むことになるとは、思ってもみなかった。



書き始めたら、なぜかちょっと重たい内容になってしまった。
ついでなので、もう少し書いてみたい。


反町隆史の「POISON」という曲に、こんな歌詞があった。
「言いたいことも言えないこんな世の中じゃ」

言いたいことをすぐに言えるなら、それはとてもいいことだと思う。
後になって言うのは、ちょっと「ズルい」と思うときも、確かにある。

だけど、誰だって経験があると思うけど、その場で言い出せないことなんていっぱいある。

だから、「そのときに言える/聞ける」というシステムを構築することはとても大切なことだと思う。
それがないのに、「今になって言うな」というのは、強者の一方的な論理でしかない。


昨日は滋賀大学経済学部の公開授業で、タルマーリーの渡邉格(わたなべいたる)さんの話を聞いてきた。

「行動してから考えてきた」という格さんは、「頭の思い込みのウソを、身体で暴く」と言っていた。
まさにそれが、今日書いたことにもつながる。


子どもと関わると特に、そういう感覚に切り替わりやすい。
「親になる」という経験をさせてもらって、本当にありがたいと思う。

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                    せれんでぃっぽ☆とむやん

「わたし誌」づくり、一緒にしませんか?


氣付けば、もう6月。

今年に入って、おもしろいことがますます加速度的に膨らんでいます。
本当に月日の経つのが早く感じる。


さて、このブログで何度か書いている「わたし誌」。

わたし誌。 - とむやんの氣まぐれ雑想記


ちょっと前の記事で、「今まだ3月+4月分ができていない、もう5月後半ですけどね…」と書きました。

最初は張り切って毎月発行と思ってたけど、それも結局2号まで。
3号は苦肉の策で、1+2月の合併号としました。

もう「ふた月に一回でいいかな」と思ったものの、今は4号と5号が停滞中。
それぞれ書くことも決まっていて、一部分は書き始めているのですが。

ちょっとまとまった時間と、勢いが必要。



そんなわけで、思い付き企画。
一緒に「わたし誌」をつくりませんか~?

ぼくのを手伝ってくださいと、というのではありません。
興味あるけど、どんな感じでつくるの?とか、いろいろ情報交換したりとか。

もちろん、名前は「わたし誌」でも、別の名前でもOK!
要は、名刺代わりになる何かを、企画したり実際に書いたり、してみませんか?

その日に完成しなくても、原案づくりだけでもおもしろいはず。

そのまとまった時間を利用して、ぼくも停滞中の4号5号を完成させようという目論見です。

場所は、ぼくの自宅アパート《滋賀・栗東》。
2017年6月8日[木]の10時から14時頃まで。
(その時間帯出入り自由、好きなときに来て好きなときに帰るシステムです)

参加費はドリンク代として500えん(珈琲 or 紅茶)。
お昼にカレーをつくる予定なので(たぶん多めに)、それを食べてもらうか、もち込みで。

アパート2階は暑いかもしれないので、団扇や扇子があればおもちください。
その他文房具や紙などもご持参ください。


とまあ、そんなところでしょうか。
「わたし誌」みたいに、定期的に発行する形でなくても、2017年版をつくってみるとか、そういうのもいいかなと思います。
そこはむしろ、人それぞれのあり方を模索したり、アイデア交換できたら。

氣になった方は、とりあえず是非ご連絡ください☆
部屋は広くないので、人数が多くなったら締め切るかもしれません。

まあ、人数制限するほど参加者が集まったら、ぼくもビックリですけど(笑)

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↑写真は、5+6月用の「あんぱん」の絵。
こんなゆるい絵でも、描いていると楽しい♪


                    せれんでぃっぽ☆とむやん

ゲームという「沼」。

今週のお題「私の沼」

「なかなか抜け出せそうにない、ハマっていること(=沼)」
「かつてハマり、ようやく抜け出した沼」、ということで。

今回も、「今週」にちょっと間に合わずの投稿。



先日、友人宅にお邪魔したときのこと。

その友人夫婦には高校生の息子さんがいて、彼となぜかテレビゲームの話になり、盛り上がった。

いや、正確に言うと、盛り上がったのはぼくひとりだったかもしれない(笑)
ゲームをやらない、もしくはほとんどやったことのない友人夫婦は、それでもおもしろがってはくれたが。
25も年下の友人と、ファミコンの話をするのは、妙にエキサイティングだった。


実は何を隠そう、ぼくは相当ゲームにのめり込んでいた。
青春を棒に振ったんじゃないかと思うほどで、ちょっと後悔してたりもする。

まあ、そんなことはいい。

彼と話したことで、スイッチが入ってしまった。
せっかくなので、ぼくが好きだったゲームを思い出してみようと思う。

ゲームに興味のない人には、「なんのこっちゃ」だとは思うけど…。
たかがゲームだと、侮れないものもあったりする。



◇「魔界塔士Sa・Ga
 スクウェア(現在はスクウェア・エニックス
 ゲームボーイ
 ロールプレイングゲーム
ゲームをやり始めてすぐに出会ってしまったソフト。
音楽もとにかくよくて、今でもたまに頭の中で流れるほど。


◇「ゼルダの伝説」シリーズ
 任天堂
 アクションRPG
言わずと知れた、超名作。
ディスクシステムの一作目も好きだけど、やはり最初にやったスーパーファミコンの「神々のトライフォース」は思い入れが強い。
最初の雨のシーンが、当時のぼくには結構衝撃だったなぁ。


◇「ドラゴンクエスト」シリーズ
 エニックススクウェア・エニックス
 RPG
もう説明するまでもないでしょう。
ファミコンの一作目の、主人公は常に前向き(カニ歩き状態)なところも含めて、やっぱり一番好きかも。
一番やり込んだのは、Ⅲの「そして伝説へ…」と、Ⅳの「導かれし者たち」かなぁ。
「なかまに なりたそうに こちらをみている!」のⅤも印象深いのだけど、クリアした記憶がない…。

◇「ファイナルファンタジー」シリーズ
 スクウェアスクウェア・エニックス
 RPG
これもまた説明不要な、個人的には一番好きなシリーズかも。
Ⅲ、Ⅳ、Ⅴが好きで、音楽もとにかくいい。
特に、IVのアレンジヴァージョン、「ケルティック・ムーン」はゲーム好きじゃなくてもオススメです。


◇「アクトレイザー
 エニックス(現在はスクウェア・エニックス
 スーパーファミコン
 アクション+シミュレーションゲーム
アクションモードとクリエイションモードがあって、その融合が飽きさせないつくりだった。
アクションモードに入るときの演出(ぐるぐる回るやつ)が、当時は結構感動的だったなぁ。
音楽もよくて、そこはちょっと伝説のような逸話があったりします。


◇「ダンジョンマスター
 ビクター音楽産業
 スーパーファミコン
 リアルタイム3DダンジョンRPG
アメリカのゲームの移植版。
ダンジョン(地下迷宮)を進むと、モンスターもリアルタイムに動いてきます。
ケルトンとかが近づくと、カシャーカシャーと聞こえてくる。
行動しているとお腹が空いたり、倒したモンスターの肉が食べれたり。
当時としてはかなり画期的、革命的だったはず、その後似た作品がいくつか出ました。
そうそう、たまに流れる音楽が、結構クオリティーが高い。
それと、武器をわざわざ置いて、「ときのこえ」を上げたくなる。
あぁ、このゲームは話が止まりません(笑)


◇「スナッチャー」/「ポリスノーツ
 コナミ
 アドベンチャーゲーム
もうストーリーはほとんど憶えていないが、映画に入り込んだような感覚で、とても好きだった。
コマンドを選んでストーリーを進めるが、謎解きやシューティングのシーンもあった。
小島プロダクションとしては「メタルギア」シリーズが有名で、「メタルギアソリッド」も上げておきたいところなのだけど、実はクリアーできていない…。


◇「ゼノギアス
 スクウェア(現在はスクウェア・エニックス
 プレイステーション
 新世代サイバネティックRPG
トーリーが結構よかった氣がするのだけど、これももうすっかり忘れてる。
あまり有名ではないけど、隠れた名作。


◇「サーカディア」
 アルヴィオン
 プレイステーション
 アドベンチャープラス
これも内容は完全に忘れているけど、ストーリーがいいと思ったのは憶えている。


◇「アナザーマインド」
 スクウェア(現在はスクウェア・エニックス
 プレイステーション
 ダイアローグ・アドベンチャー
実写作品で、対話文をつくってやりとりができるという異色作。
結構どっぷりハマった氣がする。


他にも、まだいろいろあるのですが。
ウィッシュルーム
「ゴースト・トリック」
「スペースチャンネル5」
e.t.c.…

キリがないし、忘れているタイトルもまだまだありそうだなぁ。
オススメできないけど、思い出深いものも入れたら、収集が付かないでしょう。


ちなみに、ぼくはその「沼地」から抜けるのはかなり苦労したけれど。

その若い友人は、「ゲームよりリアルの方が楽しいこといっぱいある」ことを、もう経験的に知っている人なので。
まあ、どっぷりハマって抜け出せないことはないんじゃないか、と思っている。

いずれにしても、ゲームはほどほどがいいですね。

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                    せれんでぃっぽ☆とむやん

人に伝わる文章を書くための、あれこれ。


先週の金曜日(2017.5.26)は、「月のはじまりマルシェ」へ☆
ちゃたくんとのコラボ、SLOW WALKERsでの出店。

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マルシェのことを書く前に、いきなりちょっと脱線。
というより、今回はこっちが本題かな。


前々回の「月のはじまりマルシェ」。
友人が、「ブログ見てるよ」と言ってくれて、いろいろお喋りしたときのこと。

彼女が「どうして人に伝わる文章を書けるの?」と、言ってくれた。

そもそも、ぼくの文章がどれほど伝わっているのか、自分としてはわからない。
けれど、彼女は「私には伝わってくるよ」というような、嬉しいことを言ってくれる。

もしそうだとするなら、「伝えようとがんばるのをやめてから」かな、って。
逆説的な答えだけど、ぼくはそう答えた。

それに、そもそも伝えたいから書いてるのか?というのもある。
そこを氣にしなくなってからの方が、不思議と反響的なものが大きくなった。


そしてもうひとつ、日々の暮らしの中で思ったことをできるだけ口に出してみる。

これもまた、「伝えるため」に始めたわけではないのだけど。
実はそういう習慣づけが、関係しているのかもしれない、と思い当たった。

例えば、カフェを出るときに「美味しかったです」と伝える。
友人に、「会えて嬉しいよ」と言ってみる、とか。

ムリして言うんじゃなく、ただ氣恥ずかしかったりで、なかなか言えないでいること。
些細なことかもしれないけど、それを声に出してみる。

元々、ぼくはかなり引っ込み思案だったので、とっさのときなど何も言えないことがよくあった。
挨拶やお礼を言おうとしているのに、思うように声が出なかったり。

実際に言うことは、そんなに大した言葉じゃない、かもしれない。
だけど、癖や習慣にしてしまうえば、ひとつひとつは大したことでなくても、積み重なりが「層」になっていく。

「とっさのときに言葉が出ない」という習慣から、「ことあるごとに言葉を発する」という習慣に切り替えた、と言えばいいだろうか。

〈習慣〉とは、「習うより慣れよ」というよりも、「繰り返しで慣れていくこと」という感じの方が自分にしっくりくる。
(「習」という漢字には、「繰り返し」という意味合いがある)



それを踏まえて、逆のことも考えてみようと思う。

もし、自分の「本音」に氣付かず、普段からあまり向き合おうとしなかったら?
実際、自分の「本音」が何なのか、わからなくなっている人も多いように思う。

そしてもし、本音よりも「建前」ばかり言う人が周りに多かったとしたら?
自分も含めて、ますます「人の本音」というものがわからなくなるのでは?

「建前」ならいいけど、自分を誤魔化すための「ウソ」が常態化しているとしたら。

よく、「ウソ」が上手な人は、自分さえも「騙してしまう」という。
「ウソ」がいけないというよりも、それが常態化して、「人の本音」というものにアクセスができなくなるというのは、実はかなりの問題なのではないか。


たとえば、いわゆる「添加物」も、結局は食べる人のためを思ってのことではない。
自分たちの都合のため、と言っていい。

もちろん、それが両者にとってのメリットも、まったくないわけではない。
「添加物」というものが、「絶対的な悪」だなどと、ここでぼくは言うつもりもない。

ただ、そういう論理ばかり信じ込んでいると、ますます自分の「本音」が行方不明になってしまう。
それこそが大問題じゃないのか?と、ここで問いたい。

単純に「添加物」が身体にいいかどうかという問題だけではない。
悪意ではないにしても、相手により喜んでもらおうという意味合いとは、もう全然違ってしまっている。
それなのに、「あなたのことを思って」とか、そもそもそこに意識が向かないようにとか、本音をひた隠しにしているに過ぎない。

今の政権がそれを積極的にやっているのだから、誰もが「無関係」ではいられない話なのだけど。
「無関心」でいられたとしても、身体に「添加物」が蓄積されていくように、結局は何かしらを「引き受け」なくてはいけない。

「添加物」は別に平氣だと思う人でも、カロリーというものを氣にするかもしれない。
アレルギーのある人なら成分表を見るのは当たり前のことになるだろうし、好き嫌いの多い人も何が入っているか氣にするだろう。

要は、「何を食べされられているのか、わからない状態」なんて、誰だってイヤなはずなのに。
無関心でいたり、「ウソ」を鵜呑みにするというのは、その「わからない状態」なのだけど、それさえももう「なかった」ことにしてしまう。


そうやって、そういう「建前的な論理」に触れる機会を増やせば増やすほど、「本当に願うこと」から遠ざかってしまう。
何しろ、自分の本音がわからなくなるのだから、「本当に願うこと」が何なのかもわかりっこない。

相手を出し抜いたり騙したりしなくても、本音にちゃんと氣付ければ、願いというのは叶うものだとぼくは思っている。

そして、伝えたいと思うことも、極々自然に伝わるんじゃないだろうか。
(そこは、ぼくもまだまだ精進しているところ)



その点、「満月マルシェ」にしても、「月のはじまりマルシェ」にしても。
こういう雰囲氣のいい場、一緒につくりあげていく感覚の中にいると、本音と言うものが出やすくなる。

自然と笑顔に溢れ、挨拶や感謝が飛び交う。
食べものに関しても、そういう不安感や猜疑心からではなく、「好奇心」からもっと知りたいと思うようになる。

関心のスイッチが入り、心も身体もどんどん開放的になっていく。


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「月のはじまりマルシェ」は特にそうだと思うけど、その〈場〉と、そこに集まる〈人〉に会いに行くのが、一番の目的だったりする。
幸せな氣もちが連鎖する中で、「願いが叶う」ってことを実感できたりもする。

新月の日というのは、そもそも「願いごと」に打って付けの日。


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今回、ちゃたくんが出していたのは、フレンチトースト☆
ドーナツも改良を重ねて、ますます美味しくなっている。
(↓隣のさつまいもパイは、あるぴたさんで買ったもの)

 

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今回もマイアミ浜まで、自転車。

お客さんで来ていた方から、「野洲川で見かけました~」と。
まあ確かに、目立つよな(笑)

朝夕は肌寒いくらいだったけど、日中は暑過ぎず寒過ぎずで、とても氣もちがよかった。

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こういうときの相楽くんのかき氷って、身体に染みる。

お昼はキムさんのカレー(Kim'nCurry)。

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そうそう、まだブログには書いていなかったかもしれない。
今、「満月マルシェ」に関する本を、ちゃたくんたちとつくっています。

夏頃完成の予定、また改めて紹介したいと思います。


その流れで、ハレノヒカメラさんと最近ご縁がつながりました。

ハレノヒカメラ〜滋賀県で活動する小さな移動写真館〜


ハレノヒカメラさんは、「滋賀県を中心に活動する、小さな移動写真館」。
マルシェなどに出店されたり、ワークショップなどもされているそうです。

写真がステキなのはもちろんだけど、フォトグラファーのまなみさんがとってもステキなので、お願いして写真を撮らせてもらいました♪

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楽しいことがいっぱいの、「月のはじまりマルシェ」。


実は近々お引っ越しする、という方がいて。

1月の満月マルシェでお話して、そのとき「わたし誌」のことも喋ったりして。
(そのときのこと、ちょこっと書いてます↓)

歌えば響く。 - とむやんの氣まぐれ雑想記

つながったご縁なのに、また離れてしまうのは寂しいなぁと、今でも思ったりする。

けれど、たとえばタンポポの種が遠くへ飛んでいくように、お別れというのにもちゃんと意味があると、ぼくは信じている。
そして、「また遊びに来ます」というのは社交辞令じゃなく、いつかまた会えると本氣で思っている。

いろいろな意味で、ご縁はまだつながっているから。

寂しくないと言ってしまえば、それは「ウソ」かもしれない。
けれど、また会えるのを楽しみにしてるというのは、本音であり願いでもある。


「人に伝わる文章を書くための~」なんてタイトル、ちょっと煽り過ぎかもしれない。
ここまで読んで、なんだとガッカリした方も、もしかしたらいるかもしれない。

それでもぼくは、ちょっとした〈習慣〉によって、毎日が楽しいことだらけになった。
それをただ、独り善がりかもと思いつつも、あまり氣にせずに文章を書いてきた。

もし、伝えたいことがあるとしたら、それは「人生ってこんなにすばらしいよ」ってことなのかもしれない。
かといって、肩に力の入った前のめり状態かと言えば、そんなことはない。

それはちょっとした「氣のもちよう」だけで、ガラリと変わってしまうってこと。

それを信じるか、ちょっとは氣になって実験的にやってみるか、それはもちろんあなたの自由。
けれど、昔の自分がそうだったように、もしこういう話をきっかけに違う生き方にもチャレンジしてみようと思う人がいたなら、それはとても嬉しい。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん

Let 'Em Eat Cake


受動喫煙の防止策を非公開で議論した自民党厚生労働部会で、たばこの煙に苦しむがん患者の立場を訴える議員の発言に、「(がん患者は)働かなければいいんだよ」というヤジがあった、というニュースを見ました。

ヤジを言った自民党大西英男衆院議員は失言と認め、謝罪。
ただし、「喫煙可能な店で、無理して働かなくていいのではないか、との趣旨だった」と釈明、発言の撤回はしなかったという。



先に断っておくけれど、これについて「かばう」つもりはまったくありません。
けれど、こういう失言をきちんと追及できていないのは、個人的にとても残念です。

かと言って、こういうときに「疑ってかかれ」というのも、それはそれでしんどい。
真に受けるでもなく、鵜呑みにするでもなく、「話半分」ぐらいの感覚でいいんじゃないか、と以前書いたことにも関連しそうです。

話半分。 - とむやんの氣まぐれ雑想記


こういうとき、逆に決めつけて断罪するような方法では、かえってのらりくらりと「逃げられて」しまう。
なので、もうひとつ「相手の上手(うわて)に行く」ことを、地道にやっていけたらいいんじゃないか?と考えています。

残念ながら、日本の大手マスコミの人たちは、その辺のことに関心がないようです。
それとももしかして、あえてやってるいるんじゃないかって、穿った見方すらしてしまいます。



さて、最初のニュースのことに話を戻します。

この発言を受けて、がん患者の団体が反発をしたと言います。
「がん患者は働かなくていい」という風に捉えて、昨年成立したという改正がん対策基本法に逆行すると受け止められている、というのですが。

大西議員の釈明を見ると、一応「話半分」でも聞く耳をもってみると、その受け止め方はちょっと言葉の表面だけを捉え過ぎかなと思います。

つまり、「がん患者は働くな」と言っているわけではなく、「何もわざわざ喫煙可能なところを選んで働くことはないだろう」ということのようです。

でも、ちょっと待って。
それはそれで、実は結構問題ある発言だと、ぼくは思います。

それって、マリー・アントワネットの「パンがないなら、お菓子を食べればいいじゃない」発言に似たものを感じるのです。

ひとつ補足しておくと、この発言はマリー・アントワネットのものではないのだそう。
ちなみに、この台詞はジャン=ジャック・ルソーの自伝的な『告白』に、「たいへんに身分の高い女性」の言葉として紹介されたことが典拠となっているようで。
もしくは、「ルソーの考えたアネクドート(小咄)だ」との説もあるみたいです。

いずれにしても、「いかに庶民感覚とズレているか」を表している言葉としては、とてもわかりやすいと思います。

もし、本氣で「喫煙可能な店で、無理して働かなくていいのではないか」と考えての発言だとしても、それはそれで問題ありです。
それはがん患者に限らず、庶民がどういう労働実態なのか、もしくはなぜ今「受動喫煙の防止策」を話し合わなければならないのかが、全然わかっていないのですから。

「鬼の首を取ったかのよう」に追い詰めたり、論破してスッキリしたくなるのはわかるけど、それでは問題は本当の意味で解決しない。
その辺のことをただ叱責するのではなく、質問等を通してつまびらかにする、そういう手法をもっと学んでいきたいものです。


そういえば、「刑事コロンボ」ってそういう感じじゃなかったかな?

冴えない見た目、ユーモアを交えた駆け引き。
そうやって相手を油断させて、焦らせて最後には自滅させていく。

帰るかと見せかけて、「もう1つだけお聞きしたいことがあるんですが…」と、相手をイライラさせるシーンは、特に印象的ですよね。


結局「印象操作」に終始してしまうのは、本当につまらないことだと思います。
それでは残念ながら、太刀打ちできない。


そうそう、江戸時代中期に米不足が深刻化したとき、北町奉行の曲淵景漸(まがりぶちかげつぐ)が、「昔は米がないときは犬を食った」「町人は米を食わずに麦を食え」と放言、江戸市中での大規模な「打ちこわし」に発展したという話があるそうです。

ところが、これもまた発言の真偽は不明、風説が流布したものではないかとの説が有力なようで。

真偽不明な点はどうかと思うのですけど、今とは全然違って、町人は「ちゃんと」不満が爆発したんですね。
もちろん、「打ちこわし」という手法がいい、と言っているのではありませんよ。

弱者の立場を無視した、もしくは寄り添うことのできない論理での「放言」が至るところで聞かれる昨今、それにどう対処していくのか。
これからもいろいろ考えて、書いてみたいと思います。


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↑写真は先日、久々に行ったcafeネンリンで撮らせてもらったもの。

先述の「お菓子を食べれば」発言の「お菓子」は、「ブリオッシュ」を指していたらしいです。
リング型のドーナツは、19世紀中頃に登場したとされているので、どっちにしてもマリー・アントワネットとは関係がありません(笑)


                    せれんでぃっぽ☆とむやん

〈個活〉のススメ。


先日書いた、「ちくちくスイーツの会」、行ってきました☆

「ちくちくスイーツの会」。 - とむやんの氣まぐれ雑想記


とにかくおもしろかった♪

話も、最初にテーマに掲げていた〈モテ〉にとどまらず、くだらないことを大真面目に、いっぱい喋っていっぱい笑った一日でした。
ウクレレのセッションタイムもあったり、幸せな珈琲ブレイクがあったり。

話の内容も含め、また改めて書くつもりでいます。



その「ちくちくスイーツの会」で、初めましての方に1月+2月の「わたし誌」を渡しました。
(今まだ3月+4月分ができていない、もう5月後半ですけどね…)

わたし誌。 - とむやんの氣まぐれ雑想記


そしたら、「ブログ読んで、知ってます」と、嬉しいお言葉♪
こういう地道な楽しみは、見返り的なことを求めてはいなくても、それでも反応があるとやはり嬉しくなるものです。



「ちくちくスイーツの会」の次の日の日曜日(昨日、2017.5.21)。
アトリエイチイチを主催する友人が、「月イチスケッチの日」という企画を始めたので、行ってきました。

ichi◯ichi/Blog


ぼくは珈琲のセットとウクレレをもって、場所は琵琶湖畔の緑地公園。

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ただみんなで集まって、スケッチしたいときに各々スケッチをするだけ。
でも、それだけだからこそ、その友人が告知を出したときの反応がすごかった。

みんなスケッチというものをしてみたい、ということもあるのでしょう。
そしてそれ以上に、そういうゆるい会こそ、みんなが求めているものでもある、そんな氣がしています。

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結局集まったのは、大人子ども合わせて21人。
集まるべくして集まった会というのは、なんて居心地がいいんだろう。
(ぼくも一枚だけ描きました)

「ちくちくスイーツの会」もまさにその感じだったし、その主催側である友人3人が「月イチスケッチの日」にも来ていたのもまたおもしろい。

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いろいろな点でつながっている、人と人だけでなく、何か大きな流れ。
それぞれが一応完結している短編、でも一冊を通してリンクしている部分がたくさん見つけられる小説、そんな印象。

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そういえば、「ちくちくスイーツの会」主催の友人は、文字通り「ちくちく」の続きをしてました。
その感じがまた、よかった☆


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あれをしちゃいけない、これをしなきゃダメ、そういう制約や強制が何かと多いご時世だからこそ、こういう会が必要とされているんじゃないかな。
普段は抑圧されがちな、本当にやりたいことだったり、自分の本音だったり。

子どもって結構、そういうオトナの姿を見ているんだと思います。
すぐにそれを察知して、ますますやりたいようにやる。

ウチの長男は、バーベキューしに来ていたご家族の子どもと、虫捕りしたり野球したりして。
大人の描く絵に影響受けて描く子がいたり、マイペースに自分の世界観で描く子がいたり。

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言うまでもなく、多様性って自然と生まれてくるもの。
人がこねくり回し過ぎてしまうと、わざとらしくなって、おもしろくなくなってしまう。

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それぞれの描いた作品を木の下に並べて、青空展覧会。
いい感じにバラバラで、統一感がないっていうのもまたいいな、って。

変に「毛色の違う」、はみ出すものを嫌う風潮があるだけに、尚更そんなことを思ってしまうのかも?



誰の言葉だったかな、「変革は辺境から起こる」んだそうです。
この場合の「辺境」を、どう定義するのかな。

ぼくは、「変革は〈個活〉から始まる」と言いたい。
「個」というのもまた、「辺境」と近いニュアンスをぼくは感じるので。

〈個活〉とはもちろんぼくが勝手につくった造語で、要はひとりで好き勝手に楽しくやっていること、と言えばいいのかな。
かと言って、特に変革を起こそうとしているわけではなく、誰に頼まれたわけでも、マーケティングの結果でもない。
拡大路線でもないし、隠れてコソコソやるわけでもない。

「ちくちくスイーツの会」もそういう感じ、「月イチスケッチの日」も、そう。

「月イチスケッチの日」主催のあーちゃんと喋ったとき、「誰も来なくても、たぶんひとりでもスケッチしに行くと思う」と言っていて。
一方で、「でも、自分ひとりで描きに来たら、きっとここまで集中できなかった」と。

だから、「場」や「機会」は提供する、あとは受け取る側の自由意思に任せる、委ねる。
どちらの会も、真似して違う人が違う会をやってくれたら、それもまたおもしろい、というスタンスだったり。
コピーレフト」的な感覚と言っていいだろうか、ぼくの「わたし誌」もそんなつもりでいたりします。



もう一例だけ。

ぼくの敬愛する「ナナイロつーしん」発行人のななっちゃんが、「ナナイロつーしん映画部」というブログを、今年の3月から始めました。

ナナイロつーしん映画部 – @和室上映会


彼女はときには映画館で、ときには「和室上映会」で、一日に何本も映画を観たりしているそうで。
つまり、基本ひとりっきりの上映会。

ブログをちょっと見ただけでもわかるように、ジャンルなどにあまり偏りがなく(本人的にはあるのかもしれない)、幅広いのが魅力だなと思います。
正直、自分では絶対選ばないだろうなと思う映画もあって、でも彼女がオススメしているなら観てみたい。

この「ナナイロつーしん映画部」もまた、反響が大きいようです。


そうそう、もうひとつだけ。
ぼくが以前、「【個別的】くらしとせいじカフェ」と称して開いた会も、妙に反響がありました。

【個別的】くらしとせいじカフェ☆ - とむやんの氣まぐれ雑想記


まあ、よくよく考えてみると、ぼくが今やっていることの半分以上が、〈個活〉なんですけどね。

ぼくが勝手に「師匠」だと思っているみうらじゅんさんは、まさに〈個活〉の達人だと言えるでしょう。


これから、ますます〈個活〉がおもしろくなるんじゃないかな、期待も込めつつ。



最後に、おまけ。
「月イチスケッチの日」、ブログ仲間のたろちゃんが似顔絵を描いてくれました♪

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これをさらっと描いてしまうたろちゃん、すごいなぁと改めて。
しかも、いい感じで美化してくれてますね(笑)

そして、たろちゃんの長男くんも、ささっと似顔絵を描いてくれたのです。

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自分でも、これは似てると思う。
いや、いい意味で似てる似てないを超えている。

こういうのは、本当に嬉しいものですね、ありがとう♪


                    せれんでぃっぽ☆とむやん

〈普通〉の人。


ぼくは〈普通〉の人にはなりたくない。
たぶん、なりたくてもなれないだろうし、今までもそうだった。

なんて言ったら、「〈普通〉って何なの?」と、あなたは首を傾げるかもしれない。
もしそうなら、それはいい傾向だ、と個人的には思う。

そう、そもそも〈普通〉なんて「ない」、幻想なんじゃないかと、ぼくも思う。
けれど一方で、たとえそれが幻想だとしても、漠然としてはいても、世の中には確実に〈普通〉という基準がある。

そして、その〈普通〉は「高嶺の花」ではない。
〈普通〉の人が〈普通〉の暮らしをする、それは「権利」に近い感覚すらもっているんじゃないか。

最近は、「すぐ権利だ権利だと言う」と批判する人がいるが、ぼくはそう思わない。
けれど、もし〈普通〉が「権利」として当たり前、と思っているとすれば、それは思い違いだと言いたい。

例えば、いわゆる途上国の人々を考えれば、〈普通〉が実はかなり贅沢なんじゃないか、と思えてきたりしないだろうか?


けれど、現代の日本において、〈普通〉は簡単に手に入りそうにも思える。
できるだけ波風を立てず、メンドウを避け、不条理だと思ってもガマンして、その代わり陰口やお酒に逃げたりして。

そうやって必死で追い求めても、それでも〈普通〉はなかなか手に入らないのか。
それとももう手にしているのに、イメージした〈普通〉と違うからと、いつまでも探し続けているのだろうか。

〈普通〉でいたいと思う人は、そのことを検証しようとはしない。
だから、〈普通〉とは何ぞや、もしくは共通認識としての〈普通〉とは?という定義付けを、ここではあえてしないでおく。



高校の国語の時間に、先生が質問をしても、誰ひとりとして手を挙げなかった。
黙ってうつむき加減で、教科書を見つめているばかりだ。

ぼくはその先生(男性)が好きだったし、授業もおもしろかったので、せっせと手を挙げた。
今でも憶えているのは、「戦争はなぜいけないのか?」という質問。
このときも、教室にはぼくしかいないのかと思うくらい、周りは静かだった。

GO VOTE☆ - とむやんの氣まぐれ雑想記



たぶん、こういうときは「黙って無関心を装う」のが得策で、それを繰り返していれば、本当に無関心に「なれる」のだろう。
それこそ、〈普通〉の人の〈普通〉の生き方。

そうやって、ことあるごとに「ぼくは〈普通〉には生きられない」ということを、受け入れていったような氣がする。

昔はそれが「コンプレックス」だったときもあって。
まるで「貧乏くじ」を引いた氣分だった。


でも今、つくづく思う。
〈普通〉なんてぼくにはつまらない。
ぼくは〈普通〉の人になりたくないし、なりたくてもなれないだろう。

なんてラッキーなんだ。



ところが、そうも言っていられなくなってきた。
〈普通〉でない人は、社会からはじき出される、そんな時代が再びやってくる氣配。
それはまるで、行き過ぎた潔癖症みたいだ。

潔癖症を悪く言っているわけじゃない。
ただ、それが強迫観念的に、すべての「菌」をワルモノと思い込んでしまうような、それは「潔癖症」ともまた違うのかもしれないけど。

いずれにしても、〈普通〉の人であろうとする今までの暗黙の了解さえ、これからは通用しなくなる。

いや、そもそも通用していたときがあったのだろうか?
まあいい、どっちにしても以前よりも簡単に、〈普通〉というものがその手からサラサラとこぼれ落ちていくだろう。

これからは、自分の主張ひとつしただけでも、〈普通〉の人ではいられなくなる。
全然、大袈裟な話じゃない。

「〈普通〉であることを証明する」なんて、たぶんできない。
〈普通〉が何なのか、誰にもわからないのだから。
それなのに、「〈普通〉でないレッテルを貼る」のは、なんとたやすいのだろう。

印象操作なんて、いくらでもできる時代。
〈普通〉の人が、〈普通〉の生活を守るために、簡単に「人を売る」だろう。
本当に、それは全然杞憂なんかじゃない。


今日、「最近また強くなった、学校行事に積極的なパパに対する周囲からの不審なまなざし」という記事を読んだ。
結びに、「本当世知辛い世の中ですよ!」とあるのだが、「世知辛い」なんて生易しいもんじゃない。

「ピンクの靴を履いている中年男性は珍しい」というだけで職質されるなんて、世も末だと思う。


そして今日、近くの小さなコミュニティセンターの印刷機を使わせてもらったのだが。
受け付けで、「どんな内容ですか?」と聞かれ、内容をチェックされた。
今まで何度も使わせてもらっているが、こんなことは初めてだし、何の権限があるというのだ?

はっきりとした「犯罪者」という人がいると仮定して。
じゃあ、その人が目立つピンクの靴を履いているだろうか?
10数枚の印刷をしに、わざわざ地域のコミュニティセンターに行くだろうか?

そんなことで犯罪が抑止できると考えているのなら、相当にピントがズレている。
犯罪防止以外の理由があるんだとしても、プライバシー侵害だと思う。

もし、印刷するものが政府に批判的なものだったら、印刷を止められただろうか?
もしくは、こっそり通報されたりしたのかもしれない。

残念ながらこれからますます、そういうことが頻繁に起こってくる。
その先は、冤罪ばかりが増えていき、本当の悪行は見逃されていくわけだ。

それが冤罪かどうかなんて、チェックさえされなくなる。


例えば、隣人が氣に入らなかったら、何かの疑いで通報すればいい。
ひとりの市民が「嫌疑」をかけられたとき、それを払拭するのは意外とむずかしい。

政治家など、権力のある人にとっては「嫌疑」など揉み消すことも簡単なのだろう。
だから、もしかしたら本氣でわかっていないのかもしれない。

メディアやその視聴者などは、もう「無罪の推定」など消滅してしまったかのようだ。
「容疑者」を、犯罪者扱いしてしまう傾向がますます強くなる。
もし、晴れて無実が証明されても、メディアは取り上げないし、周囲の偏見は消えることはない。

「メディア・リンチ」や「インターネット・リンチ」と呼ばれるものが、当たり前のようになってしまった。
どんなに〈普通〉に徹していても、「嫌疑」がかけられた時点で、ひとりの市民の〈普通〉なんてあっけなく潰される。

悪意のある「正義」の横行、と呼んだらいいのだろうか?
そういう「私的制裁」が、いつの間にか「解禁」されたかのようだ。



何だか、今日の文章は「ただ不安を煽っている」と捉える人もいるかもしれない。
もしこれがただの杞憂なら、単なる被害妄想だと言うなら、それはそれでいい。
そして杞憂だと思いたい人にとっては、無視したいことかもしれない。

けれどいつか、「こんなはずじゃなかった」と、ぼくは言いたくない。

だからこそ、ただ不安になるのではなく、変えていこうとすればいい。
逆に言えば、変えていきたいと思っているから、こんなことを長々と書いている。


さっきfbで、「国連プライバシー権に関する特別報告者が、共謀罪テロ等準備罪)に関する法案はプライバシーや表現の自由を制約するおそれがあると懸念を示す書簡を安倍首相宛てに送付した」という記事を見た。

市民ひとりひとりの意識が、とても重要になってくる。


今回も勢いに任せて書いたので、全然まとまらなかった。
最後に、ノーム・チョムスキーの言葉を引用して、終わりにしようと思う。

【お望みなら、好きなだけファンタジーにふけることができます。しかし、選択するのはあなたです。】(映画『チョムスキー 9.11』公式カタログ/p55)



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                    せれんでぃっぽ☆とむやん