とむやんの氣まぐれ雑想記

〈探幸王〉を目指して、さまざまな想いを綴ります☆

改めて、「【個別的】くらしとせいじカフェ」のこと。


前前前回、ちょこっと告知しましたが。
今日(2017.6.21)はcafe salon STILLROOMで、「【個別的】くらしとせいじカフェ」をやらせてもらいました☆

「理想」をもとめて。 - とむやんの氣まぐれ雑想記


結論から言うと、とてもいい会になりました、ありがとうございます♪
とても深い話から、いい意味でふざけた話まで。
オーナーのちすずさんも含めて、次々と出てくるから本当におもしろい。

今日感じたことや喋ったとこなどは、反芻してまたいろいろな形で考えていけたらと思っています。

いずれにしても、こういうお喋りのできる場があるのって、やっぱりいいなぁと改めて感じました。
そこにわざわざ来てくださる方がいて、いい刺激をたくさんいただいて。
(ちなみに、お菓子等もドネーションとしていただいたりしました、感謝☆)



なぜ、「【個別的】くらしとせいじカフェ」をやるのか。
この機会に、今一度書き留めておきたいと思いました。

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まず、今回はこんなもの↑を用意しました。

五つの缶(五缶)に、それぞれの感情を表す言葉をロゴ風にして、貼ってあります。
「違和缶」「安心缶」「期待缶」「危機缶」「不信缶」。
(小さく書かれている英語は、あっているかどうか自信ありません)

本当はシールなどにして貼る予定なのですが、間に合わず。
いずれにしても、今日は使うまでもなかったのですが。


以前も書きましたが、元々「くらしとせいじカフェ」というものがあります。

【個別的】くらしとせいじカフェ☆ - とむやんの氣まぐれ雑想記


それがとても好きで、でももし自分なりにやるなら、どうするだろう?と。
もっと小さい会にして、街のあちこちで2~3人単位で日常的にやっていたら、ますますおもしろいんじゃないか。

【個別的】と付け足すのはちょっとした洒落のつもりだったけど、案外本質とも合致するのかも。

そんな経緯なので、元祖の「くらしとせいじカフェ」を否定的に見ているわけではもちろんありません。
それだけではフォローできない部分を、もっと各々個人がやってみたら?という発想。
そこで共有したりしたことを、また元祖の集まりなどでフィードバックしたらいい。

たくさんのさまざまな人と出会える「元祖」に行きたい人もいるし、【個別的】のようなこじんまりとした集まりなら行けるかも、という人もいるでしょう。

入り口がひとつではなく、ちょっと裏口的な、お勝手口のようなところもあったらいいな、という感じでしょうか。

だから、「普段は政治のことなんて、考えたことないんです」という人や、「集まりで自分のことを話したりするのは苦手で」という人にこそ、来てほしいなと思って。

そのためには、何か話しやすい仕組みができないかな?と、当初から考えていました。



もうひとつ。

そういう政治的な話って、「感情論ではダメ」みたいなことがよく言われるんです。
でも、「感情」って大事だし、そこから考えることってすごく意味があるはず。
それが、「くらしとせいじ」という見方になれば、なおのこと。

そう思ったので、「感」を「缶」に掛けてみました。
(「缶」にあわせて、自動販売機のようなものも作成中ですが、こちらは全然間に合わなかった)

「世間で騒がれている問題、よくわからないんですけど、でも〈違和感〉はあるんです」とか。
「こないだ行ったイベントでこんなことがあって、まだまだ捨てたもんじゃない、未来に対する〈期待感〉が湧きました」とか。

そういうことなら「一人称」で話もしやすいんじゃないか。

その人の意見だったり感覚をベースに、「主体的」に考えたり喋ったりできる。
そして、人の意見を聞いて、「そういう考え方もあるね」と視野を拡げていく。

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言葉にすると、どうしてもむずかしくややこしくしてしまいがちなのだけど。

世間話も政治の話も、ちょっと深刻な現実の話も、ごちゃまぜにあれこれ言いあえる、そんな場にしたい。
ゴシップや愚痴がダメだとは言わないけど、少なくとも自分にとっては、それでは満足ができない。

一方で、議論的なことも重要ではあるからこそ、他愛のないお喋りができる空間/時間って必要だなって思います。

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今日は夏至
夜8時頃からちょっとだけですが、「キャンドルナイト」をしました。

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そう言えば、「キャンドルナイト」も久しぶりだし、ブログに書いたこともなかったなぁ。

写真はちょっとわかりづらいですが、フェアトレードの蜜蝋キャンドルを、カメさんの台に乗せてます。
(キャンドルがそれ用のものではないので、無理矢理感はありますが…)

今日はちすずさんが、『モモ』に出てくるカメのカシオペイアの話をしていたので。
キャンドルを探していたら、このカメさんが出てきて、何かちょっと因縁めいたものを感じました☆


                    せれんでぃっぽ☆とむやん

〈依怙贔屓〉社会。

トピック「共謀罪」について



共謀罪」の趣旨を盛り込んだ改正組織犯罪処罰法の成立について。
安倍晋三首相は今月15日、「国会審議を踏まえ、国民の生命、財産を守るため適切に、効果的に運用していきたい」と述べたそうだ。

ここで言う、「国民」とは誰のことなんだろう?

共謀罪」に反対しない人というのは、自分がその「国民」に間違いなく含まれていると、信じているのだろう。
ある日突然、その「枠」からはみ出してしまうなんて、想像すらしないはずだ。

でも、ここ最近の安倍政権を見ていて、「身内に甘い」と感じないだろうか?
つまり、やたらと〈依怙贔屓〉をするってこと。
(「えこひいき」って、こういう漢字なのかぁと、敢えて使ってみる)


たとえば、安倍政権や与党の方々が、自分の上司だったらと考えてみたらどうだろう?

〈依怙贔屓〉をする先生や上司って、昔からいたし、当然嫌われていた。
けれど、自分が「依怙贔屓される側」だとしたら、もしかしたらまったく氣にならないのかもしれない。

そういう人は、自分が〈依怙贔屓〉から「除外」されるという苦い経験はないのだろうか?
もしかしたら、常に〈依怙贔屓〉されるように、「がんばって」るのかもしれない。


マスコミもネット住民も、与党などにはどうも「甘い」。
逆に、野党に関してやけに辛口で、そのことにさえ自分で氣付くこともできない。

それもまた、〈依怙贔屓〉なのだということに。


そしてそれって、いわゆる〈ダブルスタンダード〉ってやつじゃないのかな。

つまり、〈依怙贔屓〉社会を目指したいのだろうか。
ぼくにはそう思えてならない。



内心の自由が脅かされるとの懸念に対し、「犯罪成立要件は明確で厳格になっており、恣意的に運用されることはない。懸念は当たらない」と、官房長官が答えていた。

〈恣意的〉とは、思い付きや自分勝手ではない、ということ。

今後、「不当な検挙」などがあったとしても、「恣意的な運用ではない」「その指摘は当たらない」と答えるだろうことは、火を見るよりも明らかだ。

「恣意的な運用ではない」というのは、奇しくも「内心の自由」の〈ダブルスタンダード〉を表してくれている。
つまり、「身内」や「お友だち」には「恣意的ではない」といい、排除したい相手に対しては、「意識的な行為」だと断定する。

〈恣意的〉かどうかなんて、どっちにしても証明がむずかしいのだ。
「内心」って、「はい、どうぞ」と言って、見せられるものではないのだから。

もしくは、そこを見せられるとしても、結果「プライバシー」にまでドカドカと踏み込まれてしまう。

本当に、そういう社会で暮らしたいの?



かつて、この国が戦争へとひた走る、その流れに抵抗した人もたくさんいた。
そして、その人たちは徹底的に「弾圧」された。

一方で、国や戦争を賛美していれば、一応「依怙贔屓される側」でいられた。
だから、抗うよりも懐柔されることを選んだ人も多かった。

その人たちを責めることは、簡単かもしれない。
でも、今この状況になってみれば、その段になってから責めてみても、遅いかもしれないと思う。


共謀罪」は「現代の治安維持法」だとの指摘は、決して「思い違い」などではない。
前回も書いたけど、時代背景が変わろうが、人の辿る歴史というのは似通ってしまうところがある。

だからこそ、そこから学んで、「同じ轍」を踏まないことが重要なのではないのか。
その「轍」は、「この道しかない」というその「道」に、くっきりと跡がついているように思える。

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ぼくは〈依怙贔屓〉社会なんて、まっぴらごめんだ。
横暴でめちゃくちゃな〈依怙贔屓〉政権を交代させ、「共謀罪」法を廃止したい。

その上で、次世代にはもっとワクワクする社会を、「お返し」したいと思う。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん

晴れたら琵琶湖でウクレレ弾いて。

今週のお題「晴れたらやりたいこと」



いろいろ書きたいことがあり過ぎて、下書きばかりが溜まっていく。
今回はお題をやって、ちょっと弾みをつけよう、なんてことを考えたりして。


それにしても、梅雨入りしたというのに、雨が降らない。
それはそれで、ちょっと心配になる。


今日(2017.6.16)は、cafe salon STILLROOMでウクレレサロン。

最近は毎回のように見学に来てくれる人がいて、それがまたとても嬉しい。
(カフェの通常営業時間からスタートしているので、その時間に来れば見学ができる)

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以前は「ウクレレレッスン」という形でやることが多かったのだけど。
今も要望があればやるけれど、「サロン」という形態の方がよりいいなと思っている。

前半は発表の時間にしていて、それがぼくにとっても楽しみで。
ウクレレを練習する上で、人の演奏を聴くというのは結構重要だったりもする。

もうひとつ、日野の向町cafeでやらせてもらっている、「ウクレレ!みんなでウクレレ♩」も、同じような形態に変わってきた。
場所もメンバーも違うので、もちろん雰囲氣もまた違うのだけど、それがおもしろい。

(次の「ウクレレ!みんなでウクレレ♩」は6月25日[日]の10時から)




以前から、「ウクレレピクニック」を滋賀でやりたいな~と思っていた。
ウクレレピクニック」という名称は、横浜の赤レンガ倉庫イベント広場で大々的にやっているので、別の名前を考えた方がいいのかもしれないけど。

「ピクニック」というものを、もっと日常的にしたいなぁとも思っている。
そして、琵琶湖畔でみんなでウクレレ片手に集まったら、楽しいだろうなぁ。

今やっているウクレレサロンの延長上で、こじんまりとやりたい。


以前、京都を拠点に音楽活動されているロビン・ロイドさん主催の、「カリンバピクニック」というのに参加したことがある。
鴨川の通称「三角こうえん」に、好きな時間に来て自由にカリンバを弾く、というイベント。

いい感じのゆるさで、とても楽しかった。
あんな感じで、できたらいいなと夢想している。


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(↑写真の日付を見たら、2012年だった)

その「カリンバピクニック」のチラシには、「雨が降っても、川に流されない限りはそこにいるよ」とロビンさんの言葉が書かれていた。
さすがに、ウクレレで雨の日はやらないかなぁとは思うけど、そのスタンス自体がとても好きだな。


晴れたら、というか。
晴れの日に、「びわウクレレピクニック」をやりたい。

お題の趣旨とは、ちょっと違うかもだけど。



さて、昨日も書いたけど、もう一度告知。

日曜日(2017.6.18)は10時から16時まで、小さなマーケットTreeがあります。
場所は栗東市安養寺にある、cafe salon STILLROOM。

ぼくはちゃたくんと、SLOW WALKERsでの出店。
ぼくは今回コーヒーではなく、冷たいドリンクを出す予定。
ちゃたくんは絶品フレンチトーストとドーナツ♡

ウクレレももっていくので、ご要望があれば弾きます。


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                    せれんでぃっぽ☆とむやん

「理想」をもとめて。


一昨日(2017.6.13)は、友人宅で開催の「くらしとせいじカフェ」へ。
京都大学人文科学研究所の藤原辰史先生による、食堂付属大学第5講座でした。

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「食堂付属大学」とは、「大学に食堂が付属している」のではなく、「食堂に大学が付属していてもいいんじゃないか」という、藤原先生のちょっとした言葉遊びから。

でも、「食堂を起点として、そこに大学の講義がある」というのは、実はかなり本質を突いていると思います。


5回目となる今回のテーマは、「ナチスの食と農の政策」。
「ちょっとお堅い話」と先生は仰っていたけれど、今回もとてもわかりやすかった。

そのうち、あまいろチャンネルでラジオとして聴けるようになると思うので、氣になる方はそちらをチェックしてみてください☆
(今までの2~4は、すでにUPされています)

あまいろチャンネル ――声をつなぐ市民ラジオ - YouTube




そんなわけで、今回細かいことは書きませんが。
お話を聞いて、心掛けていたいと思ったことだけ、ちょっと書いておきます。


ひとつは、「委縮しない」ということ。

言論が統制されていくと、自主規制的になったり、変に「空気を読む」など、これからますますそういったことが懸念されます。

日本音楽著作権協会JASRAC)は、「音楽教室からの著作権料徴収を正式発表」したり、「美容室などにBGM利用の著作権手続きを求める法的措置を実施」したとのこと。

また、朝日新聞共謀罪特集に、「二次創作漫画、委縮?」というのがありました。
共謀罪テロ等準備罪)」は「著作権法違反にも適用され、パロディー漫画などは特に萎縮するのではないかという懸念」が広がっているそうです。

そういう流れを見ていると、全然他人ごとではない。
正直、委縮したくなる氣もちもわかります。

共謀罪」が参院本会議で成立する前から、もうすでにこうした動きがある。

日本のマスコミは、すでに「自主検閲」や「自主規制」で骨抜き状態。
だからといって、「共謀罪」法の成立が影響ない、わけがない。

ジャーナリスト個人や、市民ひとりひとりは、こうした「圧力」によってじわじわと委縮させられていきかねない。

先日は、内部告発者を守秘義務違反で処分する可能性があると、文部科学省副大臣が発言したりもしています。
「私が確認していないものは行政文書じゃない」と言い、それが行政文書なら「処分する」というわけ。

他にも、スマイリー・キクチさんのことや、再注目されている「横浜事件」のことなど、考えてみるべきことはたくさんあります。
(『横浜事件を生きて』という映画があるそうです)


委縮すれば、それはまさに相手の思うツボ。
もう多くの人が言っていることですが、今が正念場でしょう。

委縮させるために、市民をますます「分断」していくことが考えられます。
こういうときこそ、「対話」を大事にしていきたい。


そしてもうひとつは、「次の時代を見据えて、備える」ということ。

藤原先生が仰った言葉そのままを憶えていないので、これも自分なりに解釈します。

結局、現政権を支えているのは「まだマシ」という感覚なんじゃないかなぁ。
それのどこが「マシ」なんだ?と思ったりもするけれど、それを否定してみても反発されるだけ。

以前、ブログで紹介した、ぼくが今年つくった歌があって。

うみうた。 - とむやんの氣まぐれ雑想記


その歌詞に、こんな一節を入れました。

 わたしは、えがく
 何度でも 愛を込めて
 美しく 強く
 理想をもとめる

これはまさに、次の世代に託したい未来のことを思って書いたもの。
「マシ」な世界などではなく、「理想」的なものにしたい。

その「理想」とはどんなものなのか、そこはきっとそれぞれあるはずだから。
多くの人と「対話」して、深めていけたらいいなぁと思っています。



今回の「共謀罪」法成立の流れは、民主主義を踏みにじる行為。
憲法や民主主義を、そして市民を蔑ろにしたらタダでは済まないよ?と示すことも大事なのではと思います。


共謀罪」について、「今とは時代背景が違う、戦前の治安維持法と比較して不安を煽るのは間違いだ」という意見も見受けられます。

他のことでも言えることですが、不安を煽っているのは、「共謀罪」に反対している人たちではありません。
審議をまともにしないで、担当大臣でさえ内容を把握できていないことこそが、不安そのものなはずです。

「印象操作だ」という印象操作に、振り回されている場合じゃない。



書きたいことが山のようにあって、でもなかなか追い付きません。
とりあえず、最後は告知をして、今回は終わりたいと思います。


ちょっとした思い付きも、今回で3度目。

以前、このブログでも書いたけど、「【個別的】くらしとせいじカフェ」をまたやります。
要はその時間に来たい人に来てもらって、お喋りしませんか?という、ゆるい呼びかけです。

【個別的】くらしとせいじカフェ☆ - とむやんの氣まぐれ雑想記


6月21日[水]、滋賀県栗東市のcafe salon STILLROOMにて。
14時頃から終了の17時頃まで、すみっこにいさせてもらおうと思います。


ドネーション制、そのときの直感、お氣もちで(お金でもお金じゃなくても)。
カフェ通常営業中ですので、別途要ワンオーダーでお願いします。

誰も来ない時間帯は、名刺代わりに毎月つくっている「わたし誌」づくりをしている予定です。
ウクレレももっていくので、店内の邪魔にならなければ、オリジナルソングを歌ったりもするかも。

まったく個人的な、実験的なものなので、どう展開するのか今回もまったく読めません。
その時間帯だと行かれないので他の時間に等々、不明な点とかもじゃんじゃんお聞きください。

なお、ゲリラ的にやってもいいのですが、今回も了承いただいています。
webcal://www.facebook.com/ical/u.php?uid=100002428517351&key=AQDZqhp2BXcnLCIX

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ちなみに、STILLROOMは今週もお世話になります。

明日(2017.6.16)は16時から、ウクレレサロン。
日曜日(2017.6.18)は10時から16時まで、小さなマーケットTreeがあります。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん

十年一昔。


十年一昔(じゅうねんひとむかし)、というけれど。

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今日は6月6日、長男の誕生日。
あれから10年が経つとは、歳月の流れよりも、ただただ信じられない感じがする。

一年前の今日も、ブログを書いたのだけど。
あのときとはまたちょっと、心境が微妙に違う氣がする。

長男の誕生日に思うこと。 - とむやんの氣まぐれ雑想記



長男のときは、妻がまだ東京の教員をしていた頃だったので。
昼間などは、ぼくがいつも一緒にいて、「一対一」という構図が多かった。

楽しい思い出もたくさんあるし、申し訳なかったなと思うこともたくさんある。

そうでなくても、最初の子というのは、よくも悪くもチカラが入ってしまう。
今がいいのかどうかはわからないけれど、余計なチカラはだいぶ抜けてきたように思う。

10年という月日の、そのときは「今現在」に振り回されているだけかもしれなくても、「小さな積み重ね」ができていくのだろう。
それを変に大切にするでもなく、かと言って無視することもできない。

ともかく、「正解」を知りたいわけじゃないってこと。

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長男は小学校4年生、だけど学校には行っていない。
一年生のときからほとんど行かなくなり、今は放課後に少しだけ時間をつくってもらったりしている。

最初の頃は妻もぼくも、長男を学校に行かせようと無理強いしてしまった。
今振り返って、それは間違っていたとつくづく思う。

長男も、「あの頃は行きたくないことをうまく言えなくて、それがつらかった」というようなことを、最近になって言っている。

ぼくも、そうじゃないことを薄々わかっていながらも、でも「ただの怠け」なんじゃないかと思ってしまっていた。
今なら言える、それがたとえ「怠け」だったとしても、イヤイヤやることに何の意味がある?と。

二年生になって、担任の先生が変わって、初めは熱心に「復帰」できるように毎日来ていただいた。
けれど、親の方はもう「明らめて」いたし、その担任の先生もゆっくりと関係性をつくっていってくれた。
おかげで、彼の「行きたくない」という氣もちを受け止めてくれて、別の形でサポートしてくれたりして、親としても本当にありがたかった。

今は妻が「まなぶ くらす」という形で、ホームスクーリングを行っている。
(この辺のことは、また改めて書きたい)

まなぶ くらす




こういう話をすると、何と言うかちょっと「嫌がられる」ことがある。
実際、学校に行かなくなった当初、何人かに「親が行かせたくない」って思ってるからじゃないの?と言われたりもした。

子どもや親が「学校に行かない」という選択をしたからと言って、それは「学校に行っている」子や家庭への批判ではない。
もし「批判」だと感じられるとしたら、それは自分の中にその種があるからだと思う。

そういう個々の選択を、ただの「身勝手」と捉えるとすれば、社会として「人権」という意識が低いのではないか、と言わざるを得ない。

イヤなのにやらなければいけない、好きではないことにも「果敢に挑戦」すべきだ、そういう価値観の押し付けは、残念ながらむしろ逆効果だと思う。

繰り返すけれど、これは誰かに対しての批判ではない。
ただ、自分や自分の子の選択を尊重してほしい、それだけのこと。

それを尊重したからといって、その他の人の選択が阻まれるとしても、それは別の選択をした人のせいじゃない。


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長男が2歳になったばかりの頃、初めて滋賀を訪れたときの写真↑
このときはまだ、滋賀に住むことになるとは、思ってもみなかった。



書き始めたら、なぜかちょっと重たい内容になってしまった。
ついでなので、もう少し書いてみたい。


反町隆史の「POISON」という曲に、こんな歌詞があった。
「言いたいことも言えないこんな世の中じゃ」

言いたいことをすぐに言えるなら、それはとてもいいことだと思う。
後になって言うのは、ちょっと「ズルい」と思うときも、確かにある。

だけど、誰だって経験があると思うけど、その場で言い出せないことなんていっぱいある。

だから、「そのときに言える/聞ける」というシステムを構築することはとても大切なことだと思う。
それがないのに、「今になって言うな」というのは、強者の一方的な論理でしかない。


昨日は滋賀大学経済学部の公開授業で、タルマーリーの渡邉格(わたなべいたる)さんの話を聞いてきた。

「行動してから考えてきた」という格さんは、「頭の思い込みのウソを、身体で暴く」と言っていた。
まさにそれが、今日書いたことにもつながる。


子どもと関わると特に、そういう感覚に切り替わりやすい。
「親になる」という経験をさせてもらって、本当にありがたいと思う。

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                    せれんでぃっぽ☆とむやん

「わたし誌」づくり、一緒にしませんか?


氣付けば、もう6月。

今年に入って、おもしろいことがますます加速度的に膨らんでいます。
本当に月日の経つのが早く感じる。


さて、このブログで何度か書いている「わたし誌」。

わたし誌。 - とむやんの氣まぐれ雑想記


ちょっと前の記事で、「今まだ3月+4月分ができていない、もう5月後半ですけどね…」と書きました。

最初は張り切って毎月発行と思ってたけど、それも結局2号まで。
3号は苦肉の策で、1+2月の合併号としました。

もう「ふた月に一回でいいかな」と思ったものの、今は4号と5号が停滞中。
それぞれ書くことも決まっていて、一部分は書き始めているのですが。

ちょっとまとまった時間と、勢いが必要。



そんなわけで、思い付き企画。
一緒に「わたし誌」をつくりませんか~?

ぼくのを手伝ってくださいと、というのではありません。
興味あるけど、どんな感じでつくるの?とか、いろいろ情報交換したりとか。

もちろん、名前は「わたし誌」でも、別の名前でもOK!
要は、名刺代わりになる何かを、企画したり実際に書いたり、してみませんか?

その日に完成しなくても、原案づくりだけでもおもしろいはず。

そのまとまった時間を利用して、ぼくも停滞中の4号5号を完成させようという目論見です。

場所は、ぼくの自宅アパート《滋賀・栗東》。
2017年6月8日[木]の10時から14時頃まで。
(その時間帯出入り自由、好きなときに来て好きなときに帰るシステムです)

参加費はドリンク代として500えん(珈琲 or 紅茶)。
お昼にカレーをつくる予定なので(たぶん多めに)、それを食べてもらうか、もち込みで。

アパート2階は暑いかもしれないので、団扇や扇子があればおもちください。
その他文房具や紙などもご持参ください。


とまあ、そんなところでしょうか。
「わたし誌」みたいに、定期的に発行する形でなくても、2017年版をつくってみるとか、そういうのもいいかなと思います。
そこはむしろ、人それぞれのあり方を模索したり、アイデア交換できたら。

氣になった方は、とりあえず是非ご連絡ください☆
部屋は広くないので、人数が多くなったら締め切るかもしれません。

まあ、人数制限するほど参加者が集まったら、ぼくもビックリですけど(笑)

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↑写真は、5+6月用の「あんぱん」の絵。
こんなゆるい絵でも、描いていると楽しい♪


                    せれんでぃっぽ☆とむやん

ゲームという「沼」。

今週のお題「私の沼」

「なかなか抜け出せそうにない、ハマっていること(=沼)」
「かつてハマり、ようやく抜け出した沼」、ということで。

今回も、「今週」にちょっと間に合わずの投稿。



先日、友人宅にお邪魔したときのこと。

その友人夫婦には高校生の息子さんがいて、彼となぜかテレビゲームの話になり、盛り上がった。

いや、正確に言うと、盛り上がったのはぼくひとりだったかもしれない(笑)
ゲームをやらない、もしくはほとんどやったことのない友人夫婦は、それでもおもしろがってはくれたが。
25も年下の友人と、ファミコンの話をするのは、妙にエキサイティングだった。


実は何を隠そう、ぼくは相当ゲームにのめり込んでいた。
青春を棒に振ったんじゃないかと思うほどで、ちょっと後悔してたりもする。

まあ、そんなことはいい。

彼と話したことで、スイッチが入ってしまった。
せっかくなので、ぼくが好きだったゲームを思い出してみようと思う。

ゲームに興味のない人には、「なんのこっちゃ」だとは思うけど…。
たかがゲームだと、侮れないものもあったりする。



◇「魔界塔士Sa・Ga
 スクウェア(現在はスクウェア・エニックス
 ゲームボーイ
 ロールプレイングゲーム
ゲームをやり始めてすぐに出会ってしまったソフト。
音楽もとにかくよくて、今でもたまに頭の中で流れるほど。


◇「ゼルダの伝説」シリーズ
 任天堂
 アクションRPG
言わずと知れた、超名作。
ディスクシステムの一作目も好きだけど、やはり最初にやったスーパーファミコンの「神々のトライフォース」は思い入れが強い。
最初の雨のシーンが、当時のぼくには結構衝撃だったなぁ。


◇「ドラゴンクエスト」シリーズ
 エニックススクウェア・エニックス
 RPG
もう説明するまでもないでしょう。
ファミコンの一作目の、主人公は常に前向き(カニ歩き状態)なところも含めて、やっぱり一番好きかも。
一番やり込んだのは、Ⅲの「そして伝説へ…」と、Ⅳの「導かれし者たち」かなぁ。
「なかまに なりたそうに こちらをみている!」のⅤも印象深いのだけど、クリアした記憶がない…。

◇「ファイナルファンタジー」シリーズ
 スクウェアスクウェア・エニックス
 RPG
これもまた説明不要な、個人的には一番好きなシリーズかも。
Ⅲ、Ⅳ、Ⅴが好きで、音楽もとにかくいい。
特に、IVのアレンジヴァージョン、「ケルティック・ムーン」はゲーム好きじゃなくてもオススメです。


◇「アクトレイザー
 エニックス(現在はスクウェア・エニックス
 スーパーファミコン
 アクション+シミュレーションゲーム
アクションモードとクリエイションモードがあって、その融合が飽きさせないつくりだった。
アクションモードに入るときの演出(ぐるぐる回るやつ)が、当時は結構感動的だったなぁ。
音楽もよくて、そこはちょっと伝説のような逸話があったりします。


◇「ダンジョンマスター
 ビクター音楽産業
 スーパーファミコン
 リアルタイム3DダンジョンRPG
アメリカのゲームの移植版。
ダンジョン(地下迷宮)を進むと、モンスターもリアルタイムに動いてきます。
ケルトンとかが近づくと、カシャーカシャーと聞こえてくる。
行動しているとお腹が空いたり、倒したモンスターの肉が食べれたり。
当時としてはかなり画期的、革命的だったはず、その後似た作品がいくつか出ました。
そうそう、たまに流れる音楽が、結構クオリティーが高い。
それと、武器をわざわざ置いて、「ときのこえ」を上げたくなる。
あぁ、このゲームは話が止まりません(笑)


◇「スナッチャー」/「ポリスノーツ
 コナミ
 アドベンチャーゲーム
もうストーリーはほとんど憶えていないが、映画に入り込んだような感覚で、とても好きだった。
コマンドを選んでストーリーを進めるが、謎解きやシューティングのシーンもあった。
小島プロダクションとしては「メタルギア」シリーズが有名で、「メタルギアソリッド」も上げておきたいところなのだけど、実はクリアーできていない…。


◇「ゼノギアス
 スクウェア(現在はスクウェア・エニックス
 プレイステーション
 新世代サイバネティックRPG
トーリーが結構よかった氣がするのだけど、これももうすっかり忘れてる。
あまり有名ではないけど、隠れた名作。


◇「サーカディア」
 アルヴィオン
 プレイステーション
 アドベンチャープラス
これも内容は完全に忘れているけど、ストーリーがいいと思ったのは憶えている。


◇「アナザーマインド」
 スクウェア(現在はスクウェア・エニックス
 プレイステーション
 ダイアローグ・アドベンチャー
実写作品で、対話文をつくってやりとりができるという異色作。
結構どっぷりハマった氣がする。


他にも、まだいろいろあるのですが。
ウィッシュルーム
「ゴースト・トリック」
「スペースチャンネル5」
e.t.c.…

キリがないし、忘れているタイトルもまだまだありそうだなぁ。
オススメできないけど、思い出深いものも入れたら、収集が付かないでしょう。


ちなみに、ぼくはその「沼地」から抜けるのはかなり苦労したけれど。

その若い友人は、「ゲームよりリアルの方が楽しいこといっぱいある」ことを、もう経験的に知っている人なので。
まあ、どっぷりハマって抜け出せないことはないんじゃないか、と思っている。

いずれにしても、ゲームはほどほどがいいですね。

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                    せれんでぃっぽ☆とむやん