とむやんの氣まぐれ雑想記

〈探幸王〉を目指して、さまざまな想いを綴ります☆

がんばっても克服できないこと。


はぁ、もう限界。

特に2週間前は、「身も心もボロボロ」って感じでした。

おかげさまで先週、向町カフェでのライブイベントを終えることができて。
その後、余韻に浸る暇はなかったけど、今はとにかくちょっと落ち着きました。


とは言え、今日(2019.4.29)は愚痴と弱音のオンパレードになるかもしれません。



引っ越しをして、もうすぐ3ヶ月。
新学期を迎えて、慣れないことが一氣に押し寄せてきて。


滋賀での生活に慣れ親しんでいたから、自分でもすっかり忘れていたのですが。

新しい環境に置かれての、人とのコミュニケーションが、ぼくは本当に苦手です。
「苦手」と言うか、「がんばったら克服できる」ものではないのだと思います。
少なくとも、短期間ではムリ。


これまで、ライブや司会なんかをしていたので、「ウソでしょ?」と言われます。
でも、小学生の頃はクラスでの発表さえできなかったときもありました。

だから自分でも、どうしてできるようになったのか、不思議に思ったりもします。
今はステージとかで喋ったり歌ったりしても、そんなには緊張しません。

まあ、1000人規模とかになったら、また全然違うのかもしれませんけど。


だけど一方で、ちょっとしたことができなかったりします。
たとえば、「道に迷ったときに人に尋ねる」とかも、すごく苦手。



ちゃんと診断を受けたことはないのですが。
ぼくは、「自閉症スペクトラム」やその二次的障害があるようです。

そのこと自体は、自覚的であったつもりでした。
でも、冒頭に書いたように、すっかり失念していたのです。

もう大丈夫、と思い込んでいました。


思い返せば、滋賀に移り住んでからの2~3年は、実は結構しんどかった。
それを忘れていた、というよりは、忘れようとしていたのかもしれません。

実際、「大丈夫になった」のだって、自分の力ではなかったのだろうと思います。
たくさんの助けがあったおかげだということ、そんな大切なことを忘れるなんて。


先日、東京大学入学式の上野千鶴子さんによる祝辞を読みました。
賛否両論、いろいろ話題になりましたが、ぼくは以下の部分が特に印象に残りました。


 【あなたたちはがんばれば報われる、と思ってここまで来たはずです。】
 【ですが(中略)、がんばってもそれが公正に報われない社会があなたたちを待って  います。】

 【そしてがんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの
 努力の成果ではなく、環境のおかげだったことを忘れないようにしてください。】
 【これまであなたたちの周囲の環境が、あなたたちを励まし、背中を押し、手を持っ
 てひきあげ、やりとげたことを評価してほめてくれたからこそです。】

平成31年度東京大学学部入学式 祝辞 | 東京大学



ほんと、そうだなぁとつくづく思いました。
そう、まさにそのことを忘れていたんだなぁ。

「ここまでよくがんばってきたね」と、自分に言ってあげることも大事かもしれない。
だけど、上野千鶴子さんの仰るように、【あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください】ってこと。

「自分が努力してきたからだ」という傲慢さ、それは〈ひとり勝ち〉の論理。
人を見下すか、自分を卑下するか、対等なコミュニケーションからどんどんかけ離れてしまうのかも。

自分の「克服できないこと」から目をそむけていれば、いつの間にか「人のできないこと」を貶めて見てしまう。
【自分の弱さを認め、支え合って生きる】ことの大事さを、今改めて感じています。


そういうことに氣付かされても、2週間前には全然余裕がなくて。
「ライブまであと1週間」なのに、練習ができていない。

氣もち的には、かなり追い詰められていました。



もうひとつ、この時期に読んで共感し、救われた記事があります。
鴻上尚史さんの、「ほがらか人生相談」。

「友人に絶交されました…」 鴻上尚史が指摘する原因“無意識の優越感”とは (1/7) 〈dot.〉|AERA dot. (アエラドット)


鴻上さんの人生相談、いつもすごく的確なんですよね。
的を得ているだけでなく、視点がとても優しい。
(余談ですが、「的を得る」は誤用ではない、というのが最近の通説だそう)

鴻上さんが「39歳でロンドンの演劇学校に留学」されたときのこと。

今のぼくは、言葉の通じない外国にいるわけではありません。
でも、感覚的にはかなり近いものがあるんじゃないか、と。
『Englishman in New York』の歌詞、「I'm an alien, I'm a legal alien」って氣分。


たとえば悲しみや痛み、どれだけ苦しいか、などなど。
そういったそれぞれの人の経験は数値化できるものではないし、簡単に比較することもできません。

だから、〈共感〉は諸刃の剣みたいなところがあって。
一方は「それ、すごくよくわかる」、一方は「そんな簡単にわかられてたまるか」。


ぼくにはたぶん、前述のようなハンデキャップがあります。
だからって、「人よりも大変」と言いたいわけではないのです。

でもときどき、自分は将棋でいうところの「角落ち or 飛車落ち」で世渡りをしているんじゃないか、って本氣で思ったりします。
普段の生活では、パッと見そういうことってわからないですから。

でもでも、それを言ったら他者だって同じこと。

鴻上さんの留学中の経験も、すごくわかる氣もするし。
それに比べたら自分なんか全然甘いんじゃないか、とも思います。

そういうことを言い出すと、ややこしいですね。
「誰々よりマシ」とか、相対的に捉えることがそもそもの間違いなんでしょうけど。


「無意識の優越感」。
自分も加害的にそういうことあったかもなぁと、今回改めて振り返ったりしました。

「自分だけが大変なわけじゃない」というのは救いになったりもする。
なのに、それを人に向けてしまうと、途端に攻撃的なものになってしまう。


言いたいことがだいぶ交錯して、着地点がわからなくなっていますが。

鴻上さんはこの相談で、「対等な人間関係」に敏感になることで、新たな出会いがあるはず、とアドバイスしています。

また改めて書くつもりですが、向町カフェでのイベントではみんなから温かく迎えてもらえて、すごく嬉しかった。
そういうときこそ謙虚に、「対等な人間関係」を意識したいもの。

「無意識の優越感」がベースの「居心地のよさ」では、いずれ関係性が崩れてしまう。

一方で、新しい環境での数々の出会いでは、「優越感」をもつことはむずかしい。
だからこそ、「対等な人間関係」を模索するいい機会、でもあるのかもしれません。

もうひとつ。
対等であるためには、自分軸がグラグラでは成り立ちません。

かと言って、ガッチリし過ぎて人の意見も聞き入れないのも問題ですけど。
まあ、それって実は自分軸が確立していないからこそ、なんでしょうね。

【自分の弱さを認める】というのも、自分軸になること。
弱さを否定して克服しようとすればするほど、自分軸はガチガチで脆くなる。


『Englishman in New York』には、「Be Yourself no matter what they say」という歌詞があります。
人に何を言われても、自分は自分。

そういう感覚が揺らいでいたから、このところすごくしんどかった。


あれこれ書いてみて、自分軸が取り戻せたり新しくできた部分もあったり。
おかげで、だいぶ楽になりました。


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写真は本文とは関係ありません。
家の近くの観音寺にあった、鬼瓦。


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そうそう、「鬼」つながりで。

先日、末っ子が図書館で借りた本がとてもおもしろくて。
シゲタサヤカさんの『オニじゃないよ おにぎりだよ』。

このオニたち、もしかしたら「対等な人間関係」のヒントになるかも。
何となく、関連のある話につなげたところで、今回はこの辺で。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん

観音寺と井手町の桜。

今週のお題「桜」



さあ、4月に入りましたね。
今日(2019.4.1)のブログは、今週のお題「桜」


滋賀にもたくさん、桜がキレイなスポットがありますが。
京田辺周辺にも結構あるみたいで、楽しみにしています。

昨日は、近所の観音寺までみんなで散歩しました。

まずは、その近くの「普賢寺ふれあいの駅」へ。
地元野菜や加工品などを売る、いわゆる「道の駅」。

そこにも桜が咲いていました。
河津桜、なのかな?

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買いものをしてから、観音寺へ。

観音寺の前には、この時期に合わせて菜の花がいっぱい植えられています。

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菜の花は満開、残念ながら桜はまだ3分咲きくらいでした。


3月30日から4月7日まで、スタンプラリーが開催されていたり。
期間中は花見ウォークがあったり、菜の花を無料で摘み取れたり。

スタンプラリーは子どもたちと参加、ふれあいの駅と観音寺で2つ押してきました。

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桜が満開の頃には、菜の花は終わっちゃってるかなぁ。

スタンプラリーの他のスポットを見ると、市内の桜の名所がわかります。
できたら全部廻ってみよう、と思っているのですが。

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この日は風が強くて、結構寒かった。
それでも比較的、たくさんの人でにぎわっていました。


足元にはツクシ、空にはイワツバメ
春だなぁという感じです。

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さて、桜の名所をもうひとつ。
京田辺ではなく、お隣の井手町

まだ行ったことがなかったのですが、マップを見たらそんなに遠くない。
今日、自転車でちょこっと行ってきました。

最寄り駅の三山木駅(JRと近鉄の2つがある)、その脇を通ってひたすら東へ。
橋を渡ると、早速桜が見えてきました。

「玉川の桜並木」、こちらも4月7日まで「井手町さくらまつり」が開催中。
模擬店が出ていたり、夜のライトアップもあるんだそう。

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桜は5分咲きという感じでしたが、空がどんよりとしていたのが残念。
堤の両側に桜が並んでいて、満開になるとさらに綺麗でしょうね。


井手町は失礼ながら、ちょっと地味な印象。
わるく言っているのではなく、そういう方が個人的には好きです。

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商店街と言うには廃れている雰囲氣ではありましたが、ぽつぽつと魚屋さんや肉屋さんがあったり。

今回はあまり時間がなくて、用事だけ済ませて帰りました。
帰り際には雨も降り出してきたので、いろいろ探索するのはまたの機会にするとして。


桜の他に、お目当てが2つあって。

ひとつは、「むすび家ide」というコミュニティスペース。

京都産業大学の学生さんたちが町おこしの活動拠点として、古民家をリノベーションしたのだとか。

そこは、これまでも寺子屋や講座などが開かれていたそうです。
そしてこの春、「むすび家カフェ」を新たにオープン。

井手町で採れた野菜などを使ったメニューを提供しているとのことですが。
今日のところは、珈琲だけいただいてきました。

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次はご飯も食べてみたいし、これからも注目してみたいと思っています。


もうひとつは、大西商店というお店。
たまたまInstagramで見つけたのですが、自然食品の取り扱いもしているということで。

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近くにあまりオーガニックのものを買えるところがないので、これは嬉しい。
京田辺には「なないろの空」さんがあるのですが、今春休み中だったりするし。

品揃えもそれぞれ微妙に違うし、何より寺田本家のお酒や酒粕などの取り扱いがあるのです。

冷めても美味しい珈琲の淹れ方?! - とむやんの氣まぐれ雑想記
(ちょうど、ちょっと前の記事で寺田本家のことを書きました)

井手町、なかなか侮れません。



家の近くの観音寺と、井手町と。
他にもまだいろいろあるのですが、ぼくもまだ見ていないので、2ヶ所だけご紹介。

このブログを見てくださっている人は、滋賀の方が多いかと思います。
なので、これを見てわざわざこっち方面に桜を見に来ることはないかもしれませんが。

もし、京田辺周辺に桜見に行こうかな、という方がいらっしゃいましたら。
ぼくたちの家にも是非寄ってください。
実はまだ引っ越しの片付けが途中だったりして、人をお呼びする状況ではないのかもですが。

ただ、来週以降は子どもの学校がはじまるし、今月はバタバタになりそうなので。
もし、行こうかなという場合にはメッセージ等ください。
(住所等もそのときお知らせします)

大したおもてなしはできないかもしれませんが、珈琲は淹れますよ。

ちなみに、4月5日はハクハク茶小屋へ珈琲淹れに行くので不在です。

COME BACK とむやん’sしゃべごもり in ハクハク茶小屋


あと、4月7日は次の日からの準備などで忙しくなりそう。
この日はあまり時間が取れないかもしれません。


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(↑これは井手町の桜)

直前のお誘い(?)ですが、タイミング合えば是非。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん

〈マイボイコット〉のススメ。


最近もあれこれ考えてはいるのですが。
うまくまとまらず、なかなか書けないでいます。

なんだかいろいろと、この国の状況はかなりひどいことになっていると感じています。
そのひとつひとつを検証する間もないくらい、次から次と問題が出てくる。


こういうときこそ、もっと〈BOYCOTT〉を!と思います。
以前にも、ちょこっとだけ書いたことがありました。

身体のストライキ。 - とむやんの氣まぐれ雑想記



今日(2019.3.30)も、ジョージ・クルーニーブルネイの9つのホテルをボイコットしようと呼びかけている、というニュースを見ました。
ブルネイでは、同性愛者などに鞭打ちや石打ちの処刑など、4月3日から施行される新刑法には非人道的な刑罰が含まれていて、問題視されているのだそう。

最近では、スウェーデンのグレタ・トゥーンベリさんが学校をボイコットして、国会前で座り込み、温暖化対策を訴えたことが大きな話題となりました。


けれど、日本ではまだまだ馴染みのない〈BOYCOTT〉。
何となく、〈ネガティブ〉なイメージが強いのかなぁ。

ぼくがボイコットに注目するようになったのは、環境運動家の辻信一さんの影響。
2007年の情熱大陸で、辻さんは「Bボイコット・Bブッシュ・Bビーフキャンペーンを、ひとりで勝手にやっている」みたいなことを、明るく言っていて。
それがすごく印象に残って、真似しようと思ったのでした。

そういえば、「キャンドルナイト」もボイコット運動の発展形。

ちなみに、今日は「EARTH HOUR(アースアワー)」という、世界中の人々が同じ時刻に消灯することで、地球温暖化防止と環境保全の意思を示すプロジェクトがあって。

EARTH HOUR(アースアワー) 2019 青い地球を、未来へつなぐ60分|WWFジャパン


20:30から1時間、ぼくも参加してみました。

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ハーブティーを淹れて、キャンドルを灯して。
それぞれ、20:30を迎えた地域から消灯していくので、消灯リレーが地球をぐるっと一周する、という。

こういうことも、「1時間くらいやったところで変わらない」とイチャモンつける人もいるでしょう。
これだけやって満足して、他のことを何もしないとすれば、確かに問題なのかも。

けれど、こういうことを扉として、関心をもつ人が増えるのはいいと思うけどなぁ。



さて、〈BOYCOTT〉がなぜあまり浸透しないのか。

たぶん、批判的だったり否定的だったり、そこが〈ネガティブ〉に感じられるのかな。

みうらじゅんの「マイブーム」みたいに、〈マイボイコット〉とかだったら?
そう考えたら、もっと氣楽にできるんじゃないかな。

ちなみに、〈マイボイコット〉を言い出したのはぼくではありません。
いつもウィットに富んだ発想をする、詩人のアーサー・ビナードさん。


あくまでも自分ひとり勝手にやっているだけ、それでいいと思う。
むしろ、異なる意見を否定したり批判するから、ややこしくなるのでしょう、きっと。

例えば、「ベジタリアン」の場合。
たまに、「肉を食べない」ことにすごく批判的な人がいたりして、ビックリします。

ベジタリアンの人は、「自分が肉類を食べない」と言っているだけ。
「あなたも肉を食べるべきじゃない」と批判しているのではないのです。
まあ、一部には批判的な人もいるのでしょうけど。

相手に呼び掛けたり賛同を求めたりはしても、強要したり否定したりはしない。
〈マイボイコット〉をする上で、とても重要なことだと思います。


ぼくは、そういう〈マイボイコット〉的なこと、自分なりにいろいろやっていて。

テレビは家にないので、基本テレビは見ない。
出かけるときなどはできるだけ水筒をもっていく、自販機は利用しない。
などなど。

音楽でも、「この人(グループ)のは絶対聴かない」と決めているものもあります。
ミュージシャンとして全然カッコいいと思えない主義主張を知って、この人たちの曲は一切聴かない、と。
まあ、不思議と大抵の場合、最初から興味なかったパターンが多いのですけど。

だからって、誰かが「この曲好き」とか「〇〇っていいよね」と言うのを否定したりはしません。
ひっそりと、「自分は聴かない」と心に決めているだけ。

「ぼくはあまり聴かないなぁ」とか、「実はあまり好きじゃないんだよね」ぐらいは言うかもしれません。
でも、その人がどう思うかをこっちの〈正義〉でジャッジしない、押し付けない。

それはぼくからしたら、〈マイボイコット〉の流儀に反する、というのかな。

先ほどのジョージ・クルーニーも、「私たちがボイコットしようと、法を変えるほどの影響力はないかもしれない」というコメントをしていました。
ただ、「人権侵害の手助けをしたいとは思わないよね?」と。


先日、ぼくの家にNHKの集金の方が来ました。

その人は全然イヤな感じじゃなかったんですけど。
「受信料の取り立てが以前より厳しくなりまして」みたいな説明があったので。
そういう態度のNHKに腹が立って、つい「申し訳ないけど、NHKって大嫌いなんです」と言ってしまいました。

まあ、こういうことは普段は言わないようにしています。
集金の人がしつこかったり高圧的だったら別、ですけど。

これについても同じことが言えます。
ぼくは今のNHKのあり方はおかしいと思っているし、もう見たくありません。
いっそ、なくなってしまえばいいと思ったりもします。

だけど、それは集金の人には関係のないこと。

「そもそも、受信するテレビもスマートフォンもないし、PCにもチューナーはない」ということを説明しました。

それで、じゃあNHKを見る人を批判するかというと、それはありません。
批判の対象は、あくまでもNHK(この場合)。

ただ、たまに「NHKにだっていい番組はある」とか、「その中でがんばっている人もいる」とか言う人もいます。
それこそ、こっちの知ったことじゃない。

そういう人がNHKを辞めて、別の放送媒体をつくってくれたらいいのにとは思います。

そう、「いい人」こそどんどん〈マイボイコット〉した方がいい、と思うのです。


元号もそう。
Twitterでも、「元号をボイコットしよう」というような声をよく目にします。
ぼくも元々使わないようにしていましたが、それでも役所などでは押し付けてくる。

今回、転居してからの手続きで市役所に行ったとき、やることが多過ぎてつい、ボイコットするのを忘れました。
やっぱり、正直メンドウなことではあるのです。

だから、「首相の想いの込められた」新元号を拒否しようという流れは、ぼくにとっては「渡りに船」かもしれません。


そうそう、〈マイボイコット〉のいいところはできる範囲でやる/やれるということ。

その代わり即効性はないし、効果も見込めないかもしれません。
でもそれがかえっていいんだ、と思います。

影響力が強い方がある意味キケンだったりするもの。

なので当然、ボイコットをすればすべて解決、というようなものでもありません。
ボイコットをしたという経験から、違う視点から捉えたりできるようになる。
自分自身の変化を楽しむ、そういうスタンスが大事なのかなと思います。


もうひとつ付け加えておくと。
何をボイコットするのか、当たり前だけどそこの見極めがとても大切です。

選挙に行かないというのは、〈ボイコット〉としてはあまりオススメしません。

選挙に行って、「〇〇党には絶対入れない」という〈ボイコット〉をする。
つまり、選びたくない選択肢以外に票を入れればいい、ってことですよね。

そう、〈ボイコット〉を突き詰めると、単に「選ばない」というところから、「対抗馬を選ぶ」に発展するわけで。
ボイコットや不買運動は、積極的に「これを応援したい」というものとセットに考えていくと、どんどん〈ネガティブ〉ではなくなります。


最近知った言葉「There is no alternative(TINA)」とか、「詭弁・強弁」についてもあわせて考えてみたかったのですが、今日は時間切れかな。

また何かの形で書けたらと思います。


あ、最後にもうひとつだけ。

〈ボイコット〉の語源って知ってました?
今回調べたら、なんと人名なんだそう。

しかも、そのボイコット大尉は〈ボイコット〉した側、じゃなくて排斥された側。
まさか、後世にこんなに名前を知られるとは、思ってもみなかったでしょうねぇ。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん

4月のライブのこと、ライブ配信、などなど。


昨日(2019.3.21)は春分の日
そして、満月。

春分の日が満月の日とが重なるのは、19年ぶりだそう。
ということは、2000年もそうだったのですね。
(そのときの春分の日は、3月20日)

昨日ぐらいからツバメの声が聞こえたり、本当に春になったなぁという感じがします。
今日はだいぶ肌寒いですけど。



さて、前々回のお題投稿でも書きました、4月のライブについて。
いよいよイベントの4月21日まで、あと一ヶ月。

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◆平野明子展 ~森のTea Party Special Event~◆
森のTea Party とむやんのUkulele Live

4月21日[sun]
チケット制/お一人さま2000y
(ライブチャージ代/デザートピザとおかし/ドリンク付き)

平野明子展 〜森のtea party special event〜

(↑詳細はfbのイベントページをご覧ください)


ウクレレでいつもお世話になっている、滋賀・日野の向町カフェ。
そこでなんと、ライブをさせてもらうことになりました♪

「ここでライブとかできたらいいな~」と、秘かに思っていたので。
すごく嬉しいなぁ。

この日はスペシャルイベントで、8doriピザともコラボできるのもまた嬉しい。

想い出のピザ。 - とむやんの氣まぐれ雑想記


向町カフェで4月に、平野明子さんの個展が開催されます。
(個展は、4月3日[wed]から4月29日[mon]まで)

平野明子さんの個展は以前、京都のきさら堂でありました。

またまた久々の京都☆ - とむやんの氣まぐれ雑想記


ぼくも行ってきたのですが、カフェの雰囲氣ともマッチしていて、とてもよかった。
「滋賀でも是非開催して」ということで、向町カフェで開催されることになり。

そのイベントでライブを是非と、声を掛けてもらったのです。


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↑昨年10月のSTILLROOMのウクレレサロンにも一部、作品をもってきてくださって。
このリアル感、是非実物を見てほしいです。


平野明子さん、ぼくは「あこさん」と呼ばせてもらってますが。
あこさんはSTILLROOMのウクレレサロンも、向町カフェも来てくださっていて。

ぼくはこれまでにも、ウクレレ教室やウクレレサロンに来てくださった方を、「ライブで共演」という形で人前で歌ってもらったりしていました。
そんなわけで、今回はあこさんにもステージデビューしてもらう予定です。

他にも、いっしょにウクレレ弾ける曲も用意しようと思っていて。
参加型のライブ、ウクレレおもちの方は是非もってきてくださいね。



前々回に告知したように、先週の3月14日にYouTubeライブ配信をしました。
そこでも、4月のイベントの告知などをさせてもらいました。

youtu.be


4月のライブではやらない予定の、オリジナルソングを5曲。
『太陽に問う』
『甘い恋のはなし』
『よりそうる』
『アベコベ⇔シンドローム
『愛を注いで』

アーカイブをUPしたのですが、なぜか一部映像が切れてしまっていました。
今回は字幕も付けてみたので、歌詞なども見ることができます。

やってみて、やっぱり反省と言うか、ヘタなのが露見してしまうというか。
それでも、まずはやってよかったな、と思っています。

ただ、改善すべきところがいっぱいあり過ぎる。

最近はライブで緊張することはほとんどないのですけど、ライブ配信だと勝手が違う。
その点については、何度もやってみて慣れていく、のがいいのでしょうね。

練習不足に関しては、とにかく練習するしかない、という感じですけど。
それだけじゃなく、これを機にまたちょっと新しい風を入れてみようと思って。



先日、久々に「一五一会」を出してみました。

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ヤイリギターとBEGINがつくった新しい楽器。
三線とギターをチャンプルーしたもの、ということらしいです。

夢の新楽器【一五一会 音来】


弦は4本、チューニングは上からGDGD
(オリジナルは、一音下がったFCFC)

これを、まずはブズーキのチューニングGDADにしてみました。
それだけでもおもしろい感じにはなったのですが、ブズーキはあまり資料がない。

なので、マンドリンのチューニングGDAEを試してみています。
下二つはテンションが強くかかるので、いずれ細い弦に変えようと思っていますが。

余談ですが、家にあるウクレレスタンドが一五一会にも使えました☆
これがないと毎回仕舞うのが億劫で、結局出さなくなったりしてしまうんですよね。


一五一会については、また改めて。
練習して、動画も撮ったりしたいと思っています。

でもまずは、ウクレレの練習。
(4月のライブでは、一五一会はもっていかないつもり)

できれば、新しい曲も間に合わせたい。

楽しいイベントになるように精進します。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん

茶漉しで珈琲、淹れてみました☆


前々回に引き続き、今日は「珈琲」のこと。


ステンレスフィルターで珈琲を淹れてみた、と友人がInstagramに投稿していて。

ステンレスメッシュのフィルター、ぼくはまだ使ったことがなくて。
ネルほど手入れが大変じゃないし、ペーパーと違ってゴミは出ないし。
使ってみたいなぁと、前からチェックはしていたんですよね。

でも、これ以上道具を増やすわけにもいかないし。
とは思いつつ、氣になっていろいろと検索したりしていました。

そしたら、「茶漉しが珈琲フィルターになる?!」という話がいくつか出てきて。
確かに、茶漉しは「ステンレスのメッシュ」ではあります。

ちょうど引っ越しの荷物整理で、あまり使っていない茶漉しを見つけて。
タイミングがよかったので、とりあえず試してみることにしました☆


結構汚れていたので、タワシなどでごしごしとキレイにして。

珈琲豆は少し粗目に挽いて。
淹れ方はネルやペーパーのときと同じ、最近の「しっかり蒸らす」方式でやりました。

冷めても美味しい珈琲の淹れ方?! - とむやんの氣まぐれ雑想記

(↑前々回、そのことも少し書きました)


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↑見ての通り、よくある茶漉しです。
写真ではわかりませんが、目は比較的細かい方、かな。


淹れてみて、飲んでみての感想。
ビックリしました、結構美味しい!

正直、ちょっとナメてました。
茶漉しで珈琲淹れられるなら、さまざまなコーヒーウェアの立場は?って。

でもでも、ちゃんと美味しく淹れられたんです。

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↑写りがイマイチなので、わかりづらいですが。
抽出したコーヒーの表面に、油分が浮いています。

あ、「油分が浮いている」って言い方だと、なんだか失敗したみたいですね。
まあ、賛否両論あるようですが、表面のオイルは決して悪いものではないみたい。

豆の鮮度にもよりますが、オイルを濾さないことで味や風味が深まる、らしいです。


それで、もしかしたらいわゆる「ビギナーズラック」?と思ったりもしたので。
次の日は、珈琲豆を変えてチャレンジ。

結論から言うと、あまり美味しくなかった。
あらら、ほんとに「ビギナーズラック」だった…か?

いろいろ原因を考えてみたところ、珈琲豆との相性かな、と。
深煎り/苦味系の豆は、茶漉しドリップには向いていないのかもしれません。


次の日、また珈琲豆を変えて、3度目の挑戦。
前日のものよりは美味しい、でも初日ほどの感動はないなぁ。

少し抽出が早くなっちゃったかなぁと思い、再度チャレンジ。

ちなみに、初日に使ったのは東ティモールの豆。
3日目のは、メキシコの豆。

それぞれもう一度淹れてみたら、やはり東ティモールの方が合っている印象。



ということで。

茶漉しでもちゃんと珈琲を淹れることができました☆
ただし、ペーパーやネルよりもむずかしかったり、安定しなかったり。

そう思うと、やはり「専用」のものって、いろいろ考えられているんでしょうね。


コツや注意した方がいい点を、ぼくなりにまとめてみます。

まず、豆との相性の善し悪しがかなりあること。
深煎りよりも浅煎りの方がよさそうです。

最近流行りの浅い焙煎のものだとどうなんだろう?
それも今度、試してみたいところ。

そして、豆を挽くときは粗目で。
当たり前ですが、細かいと網目を抜けてしまいます。

ただ、どうしても「微粉」が出てしまうので、底に粉が残ります。
「粉っぽい珈琲」って、あまり美味しそうじゃない。

余談ですが、ターキッシュコーヒーなど「濾さない珈琲」もありますよね。
かなり粉っぽいですが、ぼくはあれはあれで結構好きです。

茶漉しドリップに関しては、粉はできるだけ入れない方がいいと思います。
抽出したら沈殿するのを待って、粉が入らないように注ぎます。

その辺はフレンチプレスと同じ感じですね。
(ターキッシュコーヒーも同じ要領ですが、それでも粉っぽさが残る)

それから、ドリップはゆっくり丁寧に。
お湯の通りがいい分、ザーッと注いでしまうと抽出が中途半端になってしまいます。


そんなところかな、かなりザックリですけど。

デメリットとしては。
今回の茶漉し、大きさ的に2人分が限界、でした。

あと、技術的な部分もある程度要求されるかな、と思います。
まずはペーパーやネルでドリップそのものに慣れておきたいもの。
(もちろんそれぞれ、微妙にやり方など違いがあるのですが)

ぼくは5日間、茶漉しで珈琲を淹れてみて。
ちょっと飽きました(笑)

申し訳ないけど、道具としてはやはり「トキメキ度」が低いのが残念なところ。
「茶漉しを使う」というおもしろさで、最初はモチベーション高いんですけどね。


また氣が向いたら、やってみるつもりです。
浅煎りの豆も試してみたいし。

この「茶漉しで珈琲」をInstagramfacebookに投稿したら、結構反響がありました。
もし、試したよ~という方がいらっしゃったら、どんなだったか教えてくださいね。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん

今日のおでん、そして未来予想図。

お題「私の未来予想図」



今日(2019..3.7)は新月
旧暦でいうと二月一日、旧暦新年からもうひと月が経ったんですね。


昨日は買いもの途中、梅(あってるかな?)が咲いているのを見ました。

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3月11日までのお題キャンペーン、「私の未来予想図」ということで。

新月は願いごとをするのにもちょうどいいし。
自分の未来予想、してみようと思います。



と書いておいて、いきなり脱線。

今日、たぶん人生で初めてひとりで「おでん」をつくりました。

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料理をするようになって、15年くらい、だったかな。
でも、おでんを最初から自分ひとりで、っていうのは記憶にない。

昆布とかつお節でだしを取って、大根とジャガイモ(メークイン)を下茹でして。
卵がすっごくきれいにできた、かなり嬉しい。

木灰でつくったコンニャクを入れて、ひじき天を最後に入れて。

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まあ、かなりシンプルだけど。
子どもたちにも好評でした。

次はもっと早くにつくりたいし、「ちくわぶ」も入れたい。
近所の普通のスーパーに売ってて、関西ではなかなかお目にかかれないので。

一度買ってみようと思って、行ったら今日に限ってなかった…。

関東だと自然食品店に国産小麦のものが売ってて、とても美味しいのです。
手づくり、してみるかなぁ。



何はともあれ。

主夫になって一ヶ月。
料理に洗濯、掃除して引っ越しの片付けもまだまだ続いているし。
少しずつ、DIYもやってみています。

「どう?今の生活慣れた?」なんて聞かれることが多いのですが。
なぜか、即答できない自分がいて。

不平不満とかあるわけじゃないし、まあもう少しひとりの時間はほしいですけど(笑)


今日、ふと氣がつきました。

今、毎日びっくりするくらい「新しいこと」の連続なんだな、って。
そりゃ、人生って本来そういうもの、かもしれないけど。

ルーティーンだったり、習慣化だったり。
「慣れ親しむ」ことによって、労力は軽減されていくわけで。

逆に言うと、今は何をするにもまずアタマがフル回転している、そんな感じ。

「常に新しいことに挑戦していく」ことは、以前からブログに書いてきました。

毎日を実験的に遊ぶように暮らす - とむやんの氣まぐれ雑想記

(↑これは一年半くらい前の記事)

そうか、願いが叶っている、と言えなくもない。


ただ、次のことややりたいことを常に意識している部分があって。
「今」について、もしかしたらちょっと〈うわの空〉になっているのかも?

そこは改善点だな、と思いつつも。
おでんづくりにしても、DIYにしても、「新しいこと」はすごく刺激的ではあります。

安心感はあまりない、でも惰性に流されることはない。
わざわざ、「今日は新しいこと、何しようかな」と考える必要もない。

おもしろい状況にいるなと、改めて思いました。



先日、図書館で借りた本。
タイトルに惹かれました、『今日のハチミツ、あしたの私』。

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ちなみに、実は読み始めてから「ちょっとニガテな作品かな…」と思ったんです。

登場人物が、人付き合い的にあまりに「不器用」な人ばかり、というのか。
正直、ちょっと感じのわるい人(特に初対面のとき)が多い印象があったので。

でも、そこをちょっと耐えて(笑)読み進めたら、とてもよかったです。
あっという間に読み終えてしまいました。

「いい人」と「イヤな人」を区別して、切り捨てるような作品ではなかった。
その「メンドウ」な部分にもちゃんと寄り添ってくれるような。
「こんな自分だけど明日もまた生きよう」って思えるような。


で、冒頭はこんな言葉からはじまります。
「もし明日人生が終わるとしたら、」

これ、ぼくはどっかでいつも意識している、もしくは意識しようとしていたりします。
そして同時に、マルティン・ルターの言葉を思い出します。

「たとえ明日世界が滅亡しようとも、今日私はリンゴの木を植える」
Even if I knew that tomorrow the world would go to pieces, I would still plant my apple tree.

それから、最近では映画『水になった村』のことを考えます。

アベコベ感。 - とむやんの氣まぐれ雑想記



ぼくにとっての、「リンゴの木」はなんだろう?

今日の流れで言えば、「今日私はおでんをつくる」かもしれません。
毎日のごはんとそれをつくることは今、特に重要なことだったりします。

その、糧であるごはんと同じくらい、自分にとって大切なのは「歌をつくること」。



さて、やっと本題に戻ってきました。
自分にとっての「未来予想図」、いろいろ考えることはありますが。

せっかく「吟遊ソングライター」と名乗ることにしているのだし。
オリジナルの曲をつくること、そしてそれをライブなどで歌うこと。

2019年の抱負として、以前書きましたが。

学ぶ、遊ぶ、2019年の抱負。 - とむやんの氣まぐれ雑想記

吟遊ソングライターとして本を書く、というのもありました。

一曲一曲にしても、本にしても、できるだけ今までにないようなものにしたい。

今までつくってきた曲も、以前のものの続編的なものもあるし。
まだ完成していませんが、有名曲のオマージュのような歌のアイデアもあります。

それでも、世の中的にも自分的にも新しい部分を追求したい、と思っています。


4月には向町カフェのイベントで、ライブをさせてもらいます。
(詳しくは、また改めて)
それに向けて、新しい曲もつくりたいなと思っていて。

そうそう、4月には選挙もあるし。
(しかも、奇しくもどちらも4月21日)
それに合わせてつくっている歌もあったり。

歌をつくるのは楽しいけれど、ある意味ではしんどかったり。
「新しいことに挑戦する」ということは、氣力もかなり使いますから。

でもでも、だからこそ賭けてみたくなる。


そうそう、「未来予想図」でしたね。

「きっと何年経っても」、そして「もし明日人生が終わるとしても」。
ぼくはまた、新しい曲をつくって歌っていこう、と思っています。

自由で柔軟で、できれば革新的なものをつくり続ける。
それには、完成させるまでの氣力や集中力がもう少し必要、かな。


「新しいことに挑戦する」要素があまりないので、もうひとつ。

来週、YouTubeの「ライブ配信」というのをやってみようかな、と思っています。
本当は、見てもらうにも夜にやった方がいい、とは思うのですが。

自分の部屋は防音がしていないし、スケジュール的にも朝にやろうかと。
たぶんそこまでうるさくはないとは思いつつ、念のため。

今のところ、3月14日[木]10時から、の予定です。
まだ全然準備できていない、間に合うかなぁ。

できれば、その前に別の日に練習で、10分ほどの配信もできたらいいな。

今回の出来にもよりますが。
実際のライブとあわせて、続けていきたいことのひとつです。


予想、というよりは「宣言」という感じ、ではありますが。
今回は思いの外長くなったので、この辺で。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん

POLA×はてなブログ特別お題キャンペーン #私の未来予想図

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冷めても美味しい珈琲の淹れ方?!


今日(2019.3.3)は、珈琲のこと。

Instagramで「詳しいことはブログに書こうかな」と投稿したのが、2月13日。
それからだいぶ経ってしまいましたが。


前回、「今週は全然珈琲を淹れていない」と書いたので。
一昨日は久々に、デカフェ(カフェインレス)をネルドリップで淹れてみました。

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一緒に写っているのは、なんちゃってパンケーキ。
子どもたちのおやつとしてつくりました。

米粉と小麦粉と豆乳ヨーグルトが少し入っていて。
重曹やBPは使っていなくて、分量も適当。

こんな即席おやつでも、子どもたちは喜んでくれるのでありがたいです。


そうそう、珈琲のこと。

ここ最近は1人のときでも、2杯~3杯分淹れるようにしています。
2杯以上の方が安定して淹れやすい、ということもあって。

そして以前は、ちょっと多いかなと思っても、冷めないうちに飲んでいました。



ふと、あるとき閃いて。
そうか、「冷めても美味しい珈琲」の〈研究〉をしてみよう、と。

方法はいたって簡単。
2杯分淹れたら、半分よりちょっと少な目を、取っておいて後で飲む。

それだけです。
(タイトル見て期待させていたら、ごめんなさい)


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余談ですが、フォトグラファーkyonさんがつくってくれた鍋敷き、愛用しています♡
serendippoのタグ付き♪

そういえば、「鍋敷き」でいいのか?なんかもっといい呼び方って、あったっけ?



話は一度、脱線します。

ぼくはよく、斎藤一人さんの本を読みます。
ひとりさんの本を読むようになったきっかけは、寺田本家。

「自然酒五人娘」や「発芽玄米酒むすひ」で知る人ぞ知る酒蔵、寺田本家。
先代の23代目当主寺田啓佐(てらだけいすけ)さんがご存命のとき、少人数でお話を聴く機会があって。
そのときに、斎藤一人さんの話が出てきたのです。

ぼくは元々、いわゆるスピリチュアル系も結構好きだったりするのですが。
だけど、ひとりさんのことは何となく聞いたことがある程度で、正直眉唾だと思っていました(笑)

ひとりさんの本は、人によって好き嫌いがはっきり分かれるだろうなと思います。
なので、誰かにオススメしたことはほとんどありません。

ただ、寺田さんの書かれた『成功する人くさる人』はオススメです。
もちろん、『発酵道』も。


で、斎藤一人さんの話に戻りますが。

その前にひとつだけ。
こういう話がニガテな人も多いと思いますので、そういう方はこの辺までにしておいてくださいね。

ぼくもひとりさん信奉者というわけではなく、いいところを自分なりに取り入れてみている、という話です。
一応、念のため。


さて、つい最近読んだ本に、ひとりさんの〈研究〉のことが書いてありました。
斎藤一人さんは、銀座まるかんの創設者。

で、詳しいことはぼくが説明するのも何なので、概要だけ。
そもそも、その本も今手元にないので、まちがっているかもしれませんが。

ひとりさんの銀座まるかんは、研究者のいない研究所、みたいなことが書かれていて。
じゃあ、どうやって製品を開発するのかというと。

「こういう製品がつくりたい」と思うと、それが出てくる、というんです。
あぁ、やっぱり全然説明ができない(笑)

この話は、ひとりさんの本によく登場するので、氣になる方は読んでみてください。

で、これをぼくなりに取り入れてみよう、ということなんです。


やっと話が本題に戻ってきました。

「冷めても美味しい珈琲」の〈研究〉は、冷めてからも飲んでみる、それだけ。
飲み比べとか、データに落とすとかもしません。

そういう〈研究〉をしよう、と心に決めるだけ。


飲み比べ、ではないけれど、日によって道具を変えてみたりはしています。

引っ越しで出てきた(というかずっと目に付く場所にはあった)カリタ式ドリッパー。

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キレイに掃除して、久々に使ってみています。

カリタ式って、初心者でも上手に淹れられるようにつくりになっているらしいです。
でも逆に言うと、自分で抽出時間を調整したりする人向き、ではない。

安定的にドリップできる構造、ということらしいです。
よくも悪くも、失敗しない、というのかな。

そんなわけでぼくは、カリタ式はある時期から全然使わなくなりました。
失敗も含めて、いろいろ挑戦してみたかったので。

とはいえ、普及率がかなり高いドリッパー。
それだけ性能的にもいいからだ、とも言えますよね。

そのドリッパーで〈研究〉すれば、共通言語としては使いやすいわけで。
まあ、そう目論んでのことではなく、たまたまだったんですけど。



珈琲のことについて、2年くらい前から「香味Labo(こうみらぼ)」と称して、地道に活動してきました。

香味Labo☆ - とむやんの氣まぐれ雑想記


元々は情報の共有や交換ができたらいいな、と思って始めたもの。

ただ珈琲を飲んでもらうだけ、美味しいと言ってもらうだけ、だった氣もします。
(面と向かって「美味しくない」、と言う人はまずいないので)

でも、それはそれでよかったのかも。

その流れの中で、もっと喜んでもらうにはどうしたらいいだろう?と。
そうやって試行錯誤してきた部分もあります。

実際、ぼくは最近になって珈琲の淹れ方を大幅に変えたんです。
ネルドリップでもペーパードリップでも。

どんな淹れ方かは、飲んでもらったときの方がいいので、詳しく書かないでおきます。
タイトルに偽りあり、ですけど。

2つ特徴をあげるなら。
今まで以上に、最初の段階でしっかり「蒸らす」。
そして、濃く抽出したものを「お湯で割る」。

特に「お湯で割る」というのは、今までの常識からはあり得なかったと思います。
珈琲をお湯で割ったのがアメリカン、という都市伝説的な話はよく耳にしますが。


ときにはそんな風に「常識破り」なことを試してみたり。
美味しい珈琲を探求するのって、とても楽しい。

でもヘタをすると、それがいつの間にか「粗探し」になってしまったりすることも。
そういう〈研究〉は、続かないし続けたくないですよね。

「ひとつの正解」を見つけたいわけではない、ので。

「Labo(研究所)」としたのも、元々はあまり深い意味はなかったのですけど。
結果的に今の流れにつながっているようで、おもしろいなぁと思います。

Wikiで見たら、〈研究〉とは「研ぎ澄まし究めること」の意味だとか。


先月、ハクハク茶小屋で開催した「よみごもり」で珈琲を淹れたときも。
「冷めても美味しい珈琲の〈研究〉」の話をしたら、何人かおもしろがってくれて。
最後の一口~二口分くらいを残して、試してくれたりして。

思い込みやお世辞もあるでしょうけど、概ね好評でした☆



近年、珈琲のテイスティングとして、「カッピング」というのがあったりします。
でも、今のぼくには「カッピング」は必要ないな、と思っていて。

それは「カッピング」を否定しているとか、そういうことではなくて。
ぼく自身がそれを楽しめない、楽しめそうにないなら、やらないでいいやと。

珈琲の焙煎をやるようになったら、必然的にその段階に行くかもしれません。

ともかく今は、楽しく美味しく、そこから外れたら意味がないのです。


そうそう、ひとりさんの話の中で、「苦労はしちゃいけないよ」というのがあって。
〈研究〉でも苦労してやると、苦しみが含まれた答えが出てしまう。

これについては、また改めて書きたいと思っています。


いずれにしても、〈研究〉も「一瞬の閃き」が大事。
セレンディピティ」もそういう偶然性の話ですよね。

一見、「失敗」に見える結果から、何を閃くのか、それをどう楽しむのか。
珈琲のことに限らず、最近の自分のテーマは、その辺に集約されるように思います。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん