とむやんの氣まぐれ雑想記

〈探幸王〉を目指して、さまざまな想いを綴ります☆

アマ心。


今日(2019.7.2)は告知から。

7月6日[土]、トラペ座LIVE「うたげの ゆめの 旅の」in 信楽、たまさき家にて。
このライブの前座に、キペルス・パピルスも出演させてもらいます。

トラぺ座ライブ!「うたげの ゆめの 旅の」in信楽

(↑LIVEのイベントページ)

Trapeza | 泥海を 渡りゃんせ。果てどなく 踊りゃんせ。
(↑トラペ座のサイト)



たまさき家は先月、松永希カルテットのLIVEでソロで前座出演&珈琲出店させてもらいました。

今回はキペパピとしての出演。
ちなみに、キペパピとしてステージに立つのは今年初。

しかし、今のところその日は雨予報なんですよね。
雨天の場合、会場がカフェあわいさに変更になります。



先日、滋賀に行く用事があったので、喜多家に泊めてもらいました。

一応補足しておくと。
喜多家夫婦2人とぼくとで、キペルス・パピルスというバンドをやっています。

キペルス・パピルスのこと。 - とむやんの氣まぐれ雑想記


夜練、そして翌日の朝練。
夜は喜多家で、朝は野洲川の土手にある公園の片隅で。

練習していたら、ランニングしていた男性が足を止めました。
曲が終わると、「君たちはアマチュア?」と声を掛けられました。

そこから、いろいろとお話を伺って。
いわゆるフォーク世代で、その方もバンドをやっていたことがあるんだそう。


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余談ですが、練習の後は3人で山本珈琲倶楽部へ。

ランチとコーヒーを楽しんだ後、店内で『愛を注いで』を歌わせてもらいました。
(お店の常連の方が撮ってくださった写真、最後まで聴いてくださいました)

『愛を注いで』という歌は、山本珈琲倶楽部32周年のお祝いとしてつくりました。

32周年おめでとうございます。 - とむやんの氣まぐれ雑想記




さて、今日の本題。

後になってふと、アマチュアとプロの差って何だろう?と思いました。
この問いはありがちと言えばありがち、なのですが。

「アマチュア?」と言われても、ぼくはあまり躊躇なく「はい」と答えました。
ぼくは上手じゃないし自信もあまりないし、でも演奏はいつも「プロの意識」をもっているつもりです。


「アマチュア」という言葉の語源は、「愛する人」を意味するラテン語「amator(アマトール)」。
なので、「愛好家」という和訳がしっくりくるみたいです。

「自分の好きなことをしていく」、これはぼくが常に目指していること。
自分には、「アマチュア」という言い方が性に合っている氣がします。

ガマンして妥協して、っていう生き方はしたくないから。
まず自分を喜ばせる、自分が楽しむ、そういう姿勢がいいなって思うので。


じゃあ、「プロ」とは?「プロの意識」とは?

自分だけじゃなく、多くの人に喜んでもらえるようにすること。
媚びるんじゃなくて、要は自分にも他人にも妥協しない、というようなことかな。

まあ、定義付けはいくらでもできるでしょうけど。


そう言えば、「プロ」と「アマ」を考えるとき、必ず思い出すものがあります。
それは、「レスリング」。

プロレスとアマレス、両者には関連する部分ももちろんありますが。
「プロ」と「アマ」の違いが、内容的にもこんなに違うものって、なかなかなさそう。

マチュアの野球とプロ野球だったら、基本(ルールだとか)は一応ほとんど同じ。


「プロ」の方がより、お客さんを喜ばせようというエンターテインメント性を感じる。
「自分がまず楽しみ、多くの人に喜んでもらえるようにする」のがプロ、という定義もそんなに的外れじゃないんじゃないかな。



でも、世の中的には「アマチュア」を低く見ているなと思うことも多々あります。

それって、アマチュアという言葉の響きが、「甘ちゃん」を連想させるから?
いや、案外冗談じゃなくてほんとにそうかも。


改めて言うことでもないのかもしれませんが。
「プロ」って、アマチュアが経験値積んでジョブチェンジするようなものじゃない。

だから、「プロ」になったからと言って、アマチュア精神をなくすわけじゃないし。
マチュアの心、〈アマ心〉。

何が言いたいのかというと。
たとえこの先、自他ともに認めるような「プロ」になったとしても。
〈アマ心〉はもち続けていたいな、と思います。

愛好家としての側面、案外「プロ」になると忘れがちになるのかもしれません。

好きでやっている、「プロ」になっても変わらないという方もたくさんいるでしょう。
でも、「イヤだけどしかたなく」「生活のため」、そういう「プロ」の方も一定数いるように思います。

それがダメ、ってことではないんです。
だけど、それって「自分を犠牲にして、人を喜ばせることができるか」ってことかな、と。
ぼくは、それではきっといつか「破綻」してしまう、と考えていて。

だから、「自分が楽しいから、人にも喜んでもらえる」という連鎖を起こしたい。

そうそう、もう一度念を押しますけど、「プロ」と「アマ」は相反するものじゃない。
「プロ」よりも「アマ」がいいんだとか、そういう意味ではありません。

「プロ」の心構えをもって、その中にはいつも〈アマ心〉がある。
そういうイメージでしょうか。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん

迷いながらの12年。


今日、6月6日は長男の誕生日。

12歳ということは、ぼくは父親になって12年が経ったということ。
そう考えてみても、全然実感がないですけどね。


まあ、いろいろあるっちゃあるけど、ここまでよく育ってくれたなと思います。
我が子ながら、すごいなと思うことがたくさんある。

父親の方はまだまだ未熟、きっと育て甲斐があるだろうなぁ(笑)


66で11。 - とむやんの氣まぐれ雑想記

(↑昨年はこんなことを書きました)



長いこと、不登校だった長男。
今は学区の小学校に、ほぼ毎日顔を出しています。

教室には行ってなくて、図書室などで過ごしているようです。

学区内だけど結構距離があるので、できれば送り迎えに来てほしいということで。
今のぼくは子ども3人の送り迎えで、あっという間に昼過ぎになる毎日。


でも今週は、とても嬉しいことがありました。

それは、修学旅行に長男が行くと言い、実際行ってきたのです。
伊勢神宮志摩スペイン村、そして鳥羽水族館

動物好きの長男は、水族館なら行く!と。


ただ、ちょっとしたハプニング?があって。
前日の夜に体調があやしくなり、大丈夫かな?と思っていたのですが。
案の定、1日目の夜に熱が出てしまい。

2日目の朝には何とか熱が少し下がって、執念で鳥羽水族館にも行けたのでした。

そんなことがあったものの、基本的にはとても楽しかったみたいで。
しかも、氣の合う友だちもできたそう。


クラスの子たちとはほぼ初めましてで、2日間を過ごす。
行った場所や部屋は、それぞれに班があって一緒に行動。

ぼくだったらこれ、できる氣がしない(笑)

12歳になる直前の、彼の成長をひしひしと感じるできごと。
いや~、ほんとにすごいと思う。


そうそう、弟たちにもちゃんとお土産を買ってきて。
予算内で、自分も買いたいものを買って。

みんなには赤福を買ってきてくれました。

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これもちょっとしたエピソードがあって。

赤福は注文票があって、ほしい人はあらかじめ提出しておくシステムで。
(なので、おこづかい予算とは別)

でもまあ、近鉄京都線の京都駅売店でも売ってるし、別にいらないんじゃない?と。

そう伝えたら、「ぼくが人生初の修学旅行でお土産を買ってくることに意義があるんだ」と長男。
そんなようなことを言われました、確かにごもっとも。

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月並みかもだけど、これまで食べた赤福で一番美味しかったですよ。



そうそう、昨日書いた記事にfbでたくさんコメントをいただきました。
ありがとうございます。

やはり、〈迷い〉と〈決断〉というのは、みんな関心度が高いんだなぁ。

そのコメントを読ませてもらったりしながら、追記したいことが2つ出てきました。
奇しくも、子育てのことともリンクしそうなので。


1つは、書こうかどうしようか迷った(ほらここでも迷ってる)のですが、結局書かなかったこと。

〈決断〉というのは「男性脳」的な発想じゃないかな、って。
男性脳とか女性脳とか、もしくは性別の差異って、昨今特にデリケートな問題。
なので、触れない方がいいかなと思って、昨日はやめたのですが。

でも、主夫として感じるのは、〈決断〉がますますピンと来なくなってるってこと。
そして、そこが昨日書いたことの「肝」でもあるのかな、と思ったのです。

〈決断〉と言ってぼくが真っ先に浮かべるのは、「殿、ご決断を」というイメージ。
それってやっぱり、男性脳的だったり男社会特有のマインドセットと密接なのかも。


もう1つは、実は〈決断〉的なことって、「何も変えないときにこそするもの」なんじゃないか、ってこと。

文章読み返してチェックしたり、いただいたコメントを読んでみて。
〈決断〉という【点】があるというよりも、細く長い【線】がある。

そんな風にぼくは捉えています。
だからそこが、「断」が入っていることの違和感、なんですね。


長男が12歳になるまでを振り返ってみると。
妻に「子どもができたかも」的なことを聞かされたとき、ぼくには〈決断〉は必要ありませんでした。
自分に言い聞かせるような、〈覚悟〉のようなものはあったと思います。

で、〈決断〉に近いものがあるなら、それは子育てのあいだ中ずっと続いている意識、なのかなぁ。
(「子育て」というワードもいろいろ考えたいところではあるのですが、ここではそのまま使います)

子どものことを考えたり向き合ったり、「おとう」と呼ばれたとき、などなど。
そういうときにずっと、細く長く〈決意〉という糸を太く長く撚っていくような。

だから、その撚糸にはいつも〈迷い〉も混じっている、でもそれでいい。
父親であることに、主夫であることに、〈答え〉なんて出るはずがない。

そんな感じなのかなぁ、昨日書いているときに思い付けばよかったのだけど。


生活の中に〈決断〉というものがあるとしたら、それは粉々になったカケラがあちこちにあって、日々確認していくような感覚がぼくにはあるんです。

まあ、ぼくが単に〈決める〉ことがニガテ、ってだけかもしれません。
でもでも、「変えないときにこそ〈決断〉をしていく」というのは、案外おもしろい仮説じゃないかな。

あ、終わろうと思ったのに、もうひとつ思い出しました。

なんでその仮説を思い付いたのかと言うと。
〈決断〉以上に必要なのって、〈問い〉をもつことだと思っていて。

このブログでも以前書いたような、でもまだ書けていなかったかな。
(パッと見てみただけではわからなかった)

妻も先日、こんなことを言っていました。
迷っていることがあって人に相談したら、「そういうのは夢の中で訊いてみるといいんだよ」って言われた、と。

つまり、寝る前に迷っていることを「問いかけて」、寝る。
そうすると、取るべき〈答え〉がわかる、というような話でした。

この感じはすごくよくわかる、自分で全部決めてしまわない、というのかな。

敢えて今日の話に戻すと、長男が修学旅行に行ったのだって、親も先生も正直「行かれないだろう」と思っていたのです。
でも、先生も一応伝えるだけと言って、どうしますかと親に投げかけてくださって。

だから、ぼくも妻も決めつけるのではなく、「どうする?行く?行かない?」と。
「行く」と即答した長男に、〈決断〉という感じはなかったです。

ただ、やっぱり〈葛藤〉はあったと思いますよ。
「行く」と言った後から、じわじわと〈決意〉を固めていくしかない。

本当はちょっと違うのかもしれませんが。
ニュアンスとしては、〈決断〉を分割払いで、って感じなのかなぁ。


〈問い続けること〉と〈迷うこと〉については、また書いてみたいです。
今日のところは、この辺で。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん

ぼくはいつでも迷ってる。


お題、「迷い」と「決断」について。

興味深いテーマだな、ゆっくり考えよう、と思っていたら案の定ギリギリ滑り込み。
(6月5日、今日が締め切り)



「〈決断〉のとき」というのは、ぼくにもこれまでたくさんあったはず。
けれど一方で、自分は〈決断〉というものをそんなにしてこなかった氣もします。

いつも迷って、「きっぱりとした結論」よりも「とりあえずやってみる」の連続。


例えば、結婚。

どういう流れで結婚しようということになったのか、実はあまり憶えていなくて。
何となく、そろそろ結婚かもね、って感じだったような。

元々は妻もぼくも、結婚という制度自体、自分たちに馴染まないと思っていましたし。


大きな流れが来て、乗ろうかどうしようか迷っているうちに、波に巻き込まれていく。
どちらかと言うと、そんなイメージなんです。
〈決断〉というニュアンスからは、かなりかけ離れていますね。


例えば、滋賀に移住したときもそう。

2人目の子の出産を関東で、というのはさまざまな不安要素がありました。
原発事故の影響、続く余震、計画停電、などなど。

だから当初は、「とりあえず一年、別のところで暮らす」ということにしたのです。
結果的には滋賀がとても住みやすかったので、「移住しよう」ってなったんですけど。


今回の京田辺への引っ越しだって、「寝耳に水」でした。
でもこれもまた、何か大きな流れのようなものを感じたので。


その大きな流れって、こちらに「選択の余地がない」ように思えます。
まるで、台本に書いてあるかのように、「行く」というシナリオがそこにある。

それなら、どうやってこの流れを受け入れていこうか、日々試行錯誤している最中。



別に、〈決断〉という言葉に難癖をつけるつもりはないのですが。
でもやっぱり、「断」という字が入っていることに、ぼくは違和感をもちます。

〈迷い〉を断ち切って決める!みたいなイメージ、ですよね。
確かにまあ、そういう方がかっこいいのかな、と思うときもありますけど。

退路を断って、どちらかに決めるという〈決断〉よりも。
とりあえず直感に従ってみようというような、フレキシブルな〈決断〉があってもいいのでは?
「違ったかな、じゃあやっぱりこっちで」、とやり直すことも常に意識しつつ。

迷いながら行けよ、行けばますますわからなくなるかもしれないけど。
でも、ダンジョンだって迷路だって、迷わなかったらおもしろくもなんともない。

たぶん、大抵の人は「迷って宙ぶらりん」の状態でいたくないんだと思います。
そこから抜け出そうともがくことは、大きな推進力になるのに。



今思い付いたんだけど。
〈迷う〉ことは、マイナーバージョンアップ(minor upgrade)なのかも。

逆に、大幅なバージョンアップ(major upgrade)がしたいなら。
何かしらの〈決断〉をする必要がある、のかもしれません。


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先日読んだ、『コーヒーの人 仕事と人生』。
その中で、Little Nap COFFEE STANDの濱田大介さん、こんなことを仰っています。

 暑い日に飲みたいコーヒーと寒い日に飲みたいコーヒーは違う。
 だから、豆のブレンドも少しずつ変えているし(中略)
 環境や自分の感覚が変わるから、メソッドも豆も日々変わり続けています。

 オープンしたての頃の味と今の味は変わらないね、と言ってくれる人もいるんです
 けど、きっと長い間店に来続けてくれている人にとって飽きないということは、味
 が絶えず変わり続けているっていうことなんですよね。


これと同じような言葉が、『コッペパンの本』にも書かれていて。
滋賀のつるやパンも、変わらない味のために定期的に配合率を変えたりしているんだそうです。

変わらないために変わり続ける、変わり続けるから変わらない。
禅問答のようですけど、真理だなぁと思います。



「本当にこれでよかったのかな」という迷いは、誰でも心当たりがあるはず。
それならそれで、〈迷い〉も旅のお供にしてしまおう。


ビジネスの世界ではどうなのか、ぼくはわかりませんが。
一般的には、「〈決断〉のとき」なんてしょっちゅうあるわけじゃない。

「結婚」や「転職」などの人生の大きな岐路。
それが何の前触れもなく、いきなり人生に立ちはだかったりしないでしょう。

だから、まずはリサーチしてみたり、やっぱりやめようかなと逡巡してみたり。


そういう「ゆるやかに決めていく」こと、〈決断〉とはちょっと違うニュアンス。
何かいい表現はないのかな。


ぼくはこれからも、迷いながら、そしてそれを楽しむくらいの気概で生きていけたらと思っています。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん


#「迷い」と「決断」

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MAY

今週のお題「アイドルをつづる」



今日(2019.5.27)は「対話」について、はちょっとお休み。
お題が、「アイドルをつづる」ということで。


ぼくの実家は喫茶店、というのは何度かこのブログでも書いています。

カフェ・ド・アクタのこと。 - とむやんの氣まぐれ雑想記


実は、猫のいる喫茶店として、その筋?ではちょこっと知られていたりいなかったり。



初代看板猫は、メイという雌猫でした。
ぼくが高校生のときに飼い始め、2010年3月に旅立ちました。

長い間うちのアイドル、喫茶店のお客さんにもたくさん可愛がられました。


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3枚とも、2009年の1月末に撮ったもの。
写真はたくさん撮ったはずですが、今見つけられたのはこれだけなので。


メイがうちに来るまで、実は猫ってあまり好きじゃなかったのです。

当時まだ友人だった妻のメイコが拾ってきた子猫。
とりあえずうちで預かることになり、飼える人を探していたのですが。

情が移ったこともあり、結局うちで飼うことにしたのでした。
それからは、家族みんなすっかり猫好きになりましたとさ。


子猫のメイがうちに来た日、それが5月27日。
(確か1991年、28年前のこと)

ちなみに、メイという名前について。

メイコが拾ったから、メイではないのです。
まったく考慮に入れてない、ということはないけど、でも思い付きは全然違う。

高校時代に出逢って、後に結婚した流れから、美談っぽくされるのは仕方ないのでしょうけどね。
一応釈明しておくと。

その当時、ぼくは『ナイトライダー』というアメリカのテレビドラマが大好きで。
ナイト2000のメカニックにエイプリル(April)という女性がいて。
で、5月ならメイ(May)だろう、と。

妹が「ニナ」だったか「ニーナ」という名前を候補にあげていて。
これは「27日」からとったもの。
(それを憶えているので、5月27日という日付を忘れずにいられる)



18年は、猫にしては結構長生きな方でしょう。
それでもやっぱり、ペットロス状態になったし、メイ以外の猫はもう飼わないと思っていました。

それがご縁あって、今は2代目のネロがいます。
こちらは雄で黒猫。

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これまた余談ですが、ネロの名付け親もぼくです。
ネロ(Nero)はイタリア語で黒、ありがちではありますが。

ネロに会えるのは、帰省のときの楽しみのひとつ。
子どもたちもすごく嬉しいみたいで。

なかなか会えないけど、今はネロがみんなのアイドル。


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メイの写真、もう一枚見つかりました。
これは2001年の1月1日。


とまあ、そんな感じでゆるいまま今日はこの辺で。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん

対話について、前置きのようなもの。


改めて、〈対話〉について考えてみたいと思います。

ただ、このところブログを書く時間が全然確保できていないこともあるので。
何回かに分けて、いろいろな側面からゆっくり考えていけたらいいかな。


今までも、〈対話〉については何度か書いています。

〈試行錯誤〉 - とむやんの氣まぐれ雑想記

「私は大丈夫」論。 - とむやんの氣まぐれ雑想記


などなど。

で、〈「私は大丈夫」論。〉の中でもちょこっと書いているのですが。

実は多くの人が、そもそも〈対話〉を求めていないのかも?という氣がしています。
TwitterなどのSNSを見ていると、ますますそう感じるようになって。

最近は、「コミュ力」なんて言葉を頻繁に目にします。
だから当然、「コミュニケーション」そのものに対する意識って、高まっているもんだと思っていたのですが。

結局、〈持論〉を押し通したいだけ、正しさを誇示したいだけというやりとりが多い。
だから、人の話なんて聞こうともしない。

「じろん」を「自論」と書くのは本来、間違いなのだそうですが。
この場合、あえてこっちの漢字を使った方がしっくりくるかもしれませんね。


そうは言っても、ぼく自身〈対話〉ができているかと問われると、自信はありません。
だからこそ、〈対話〉とは何なのか、考えてみたいし考えてきたのだと思います。

そんなわけで、今日(2019.5.26)はその前置き、のようなもの。



先日、Roastery DAUGHTER(ロースタリードーター)に行ってきました。

京都のカフェ、WIFE&HUSBAND(ワイフアンドハズバンド)のコーヒー豆焙煎&販売のお店です。
こちらは昨年の12月にオープンしたばかり。

残念ながら、カフェの方にはまだ行ったことがありません。
焙煎所の方は、京都駅から歩いていける範囲なので比較的行きやすい。

ぼくは今回で2度目、今年の3月に初めて行きました。

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2階はGallery SON、古道具などステキなものがいっぱいありました。
1階のインテリアもその古道具が使われていて、ラボラトリーのような雰囲氣。

ちなみに、焙煎所は販売のみでコーヒーを飲むことはできません。


初めて行ったときも、今回も感じたことなのですが。
定員さんの接客がとてもいい。

1度目は男性の方、2度目は女性が2名いらっしゃいました。


ぼくは喫茶店やカフェが大好きで、よく行きますが。
たまに、お客さんとして妙に「氣を遣う」お店があるんです。
なんなら、「来たらダメだったのか?」と少し不安になることさえあったり。

これはカフェ友のちゃたくんも言っていたので、ぼくの勝手な被害妄想ではないはず。


で、このRoastery DAUGHTERはすごくフラットにいられる場所、というのかな。
前述のパターンとは真逆、「来てよかったな~」と思えるのです。

コーヒー豆を選ぶときの会話、さりげないのだけど何だか楽しい。
業務的なやり取りだったり、逆にダラダラと話してしまったり、そういうことがない。
(ダラダラ喋ることも、それはそれで好きなんですけどね)

初めて行ったときにそのことに感動して、また買いに行こうと思っていたのです。
(もちろん、コーヒーが美味しかったってこともあります)


例えば、パッケージについて。
青い箱に入れたものと、少し簡素な紙で包んだものがあって。
紙の方がちょこっとだけ値段が安いのです。

どちらもスタイリッシュでステキなので、1度目は箱入りを買いました。
そのときに、「まずは箱がほしいから今回は箱入りを、次からは紙包みにしようかな」というようなことを言ったら。

定員さんはすかさず、「2度目のご来店のことも考えてくださって、ありがとうございます」と。

こういう氣の利いた言葉って、案外スッと出てこない。
これはマニュアルでは対応できないこと。

たぶん、Roastery DAUGHTERにもマニュアル的なものはあると思います。
コーヒー豆の袋にガス抜きの穴を開けるかどうかを尋ねる、とか。

でも、「喋らされてる感」「やらされてる感」がないんですよね。

これはバイトさんや従業員だから、とは限りません。
お店のオーナーさんでも、「イヤイヤやってるの?」と感じることは多々ありますし。



〈対話〉を考えるときに、「コーヒー」に例えて考えるとわかりやすい氣がします。
例えば料理とかもそう、提供する/されるものについて。

そして、Roastery DAUGHTERのある種の心地よさもまた、ぼくにとっては考える上でのひとつの基準になりそうです。


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ちなみに、最初に買ったのはDAUGHTERという名のブレンド

どちらかというと浅煎りブームの昨今において、これはしっかりとした深煎り。
だけど、飲み口は優しくすっきりしていて、くどくない。

お店や接客の感じとリンクする感じ、氣のせいではないでしょう。


2度目は、あえてもっと深い味のものを選びたいなと思い、そう伝えました。
(ちょうど、別のところで少し浅めの焙煎のコーヒー豆を買っていたこともあって)

かと言って、基本ブラックで飲むので、あまり苦味が強いとどうかなと。
もうひとつのブレンドSONは、ミルクと合わせる感じだと思っていたので。

いろいろ話をしてみると、やはりDAUGHTERの次はSONを試してみるのがいい、と。
言うほどは苦味も強くない、ということでしたので。

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実際飲んでみると、やはりこれはこれで美味しい。
カフェオレにしても存在感があるだろう苦味、だけどブラックでもいける。

コーヒーだけで飲むならDAUGHTER、甘いものと合わせるならSON。
個人的にはそんな印象です。

頻繁には行けないかもですが、チャンスがあればこれからも定期的に訪れたいお店。


これから「対話」について考えていく中で、「Roastery DAUGHTERのあの接客」という言い回しが出てくるかもしれません。

何はともあれ、京都に行く機会があったら、Roastery DAUGHTERにも是非寄ってみてください。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん

甘南備山に登りたい。

今週のお題「特大ゴールデンウィークSP」



せっかくなので、お題を。
でも、「特大」とか言われてもなぁ。


昨日、5月3日は憲法記念日
憲法について、今年も書きたいなと思っていたのですが。

憲法記念日に、〈ルール〉について考えてみた。 - とむやんの氣まぐれ雑想記

(↑昨年はこんな記事を書いていました)

憲法記念日。 - とむやんの氣まぐれ雑想記

(↑2017年の5月3日)

Respected as Individuals - とむやんの氣まぐれ雑想記

(↑2016年)


一昨日から熱っぽくて、今日は一日寝込んでいました。

実は明日、久々の珈琲出店と演奏もちょこっとする予定なので。
今日はさらっと書きたいと思っています。



体調を崩した理由は、何となくわかっています。
4月30日に、近くの山に子どもたちと行ってきたのです。

自転車で登山口まで行って、山頂と展望台に登って帰ってきました。

登山口までがなかなかハードだったので、山登り自体はそれほどでもなく。
ただ、自転車で汗かいて、その後冷えたのが原因だと思います。


京田辺に、甘南備山という標高221メートルの山があります。
「甘南備」は、「かんなび」と読みます。

末っ子のこども園では毎月1~2回、この山に登る日というのがあって。
このゴールデンウィーク中に、下見をしておきたいと思っていました。

最近、野鳥観察にハマっている長男も行きたがっていたし。
このタイミングで行けて、やっぱりよかった。



自転車でアップダウンの激しい道を、30分ほど。
そこから川沿いの、細い道をひたすら進みます。

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登山口に、やっと到着。
駐車場に自転車を止めて。

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(↑駐車場にあった案内板)

子ども3人と、舗装された道を登っていきます。
途中、いろいろな鳥の声や姿があって、観察しながらゆっくり歩いていきました。

コゲラやカラ類はわかるのだけど、あとはもう判別できない。

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甘南備山は「神南備」とも書き、「神の隠れるところ」という意味があるんだそう。

名前のイメージだと、奥深い秘境の地って感じがしますが。
比較的登りやすい山だと思います。

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ただ、今回はとりあえず山頂まで行っただけなので。
他にもまだ回れるコースがあるので、次はそっちにも行ってみようと思っています。

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山頂近くの階段。
こういうところは、小さい子どもにはちょっと登りづらいところ。

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末っ子はそれでも文句言わず、着実に登っていました。


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山頂に到着。
天氣がイマイチだったけど、眺めはよかったです。

家からここまで、だいたい1時間半くらい、だったかな。

右手には神社があり、左に少し進んだところには展望台があって。
今回はそれで時間切れ、山を下りました。



今後も機会をつくって、子どもたちと甘南備山に登ってみたいと思います。
まずは初めて行った記念として、このブログに残しておきます。

ということで、今日はこの辺で。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん

がんばっても克服できないこと。


はぁ、もう限界。

特に2週間前は、「身も心もボロボロ」って感じでした。

おかげさまで先週、向町カフェでのライブイベントを終えることができて。
その後、余韻に浸る暇はなかったけど、今はとにかくちょっと落ち着きました。


とは言え、今日(2019.4.29)は愚痴と弱音のオンパレードになるかもしれません。



引っ越しをして、もうすぐ3ヶ月。
新学期を迎えて、慣れないことが一氣に押し寄せてきて。


滋賀での生活に慣れ親しんでいたから、自分でもすっかり忘れていたのですが。

新しい環境に置かれての、人とのコミュニケーションが、ぼくは本当に苦手です。
「苦手」と言うか、「がんばったら克服できる」ものではないのだと思います。
少なくとも、短期間ではムリ。


これまで、ライブや司会なんかをしていたので、「ウソでしょ?」と言われます。
でも、小学生の頃はクラスでの発表さえできなかったときもありました。

だから自分でも、どうしてできるようになったのか、不思議に思ったりもします。
今はステージとかで喋ったり歌ったりしても、そんなには緊張しません。

まあ、1000人規模とかになったら、また全然違うのかもしれませんけど。


だけど一方で、ちょっとしたことができなかったりします。
たとえば、「道に迷ったときに人に尋ねる」とかも、すごく苦手。



ちゃんと診断を受けたことはないのですが。
ぼくは、「自閉症スペクトラム」やその二次的障害があるようです。

そのこと自体は、自覚的であったつもりでした。
でも、冒頭に書いたように、すっかり失念していたのです。

もう大丈夫、と思い込んでいました。


思い返せば、滋賀に移り住んでからの2~3年は、実は結構しんどかった。
それを忘れていた、というよりは、忘れようとしていたのかもしれません。

実際、「大丈夫になった」のだって、自分の力ではなかったのだろうと思います。
たくさんの助けがあったおかげだということ、そんな大切なことを忘れるなんて。


先日、東京大学入学式の上野千鶴子さんによる祝辞を読みました。
賛否両論、いろいろ話題になりましたが、ぼくは以下の部分が特に印象に残りました。


 【あなたたちはがんばれば報われる、と思ってここまで来たはずです。】
 【ですが(中略)、がんばってもそれが公正に報われない社会があなたたちを待って  います。】

 【そしてがんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの
 努力の成果ではなく、環境のおかげだったことを忘れないようにしてください。】
 【これまであなたたちの周囲の環境が、あなたたちを励まし、背中を押し、手を持っ
 てひきあげ、やりとげたことを評価してほめてくれたからこそです。】

平成31年度東京大学学部入学式 祝辞 | 東京大学



ほんと、そうだなぁとつくづく思いました。
そう、まさにそのことを忘れていたんだなぁ。

「ここまでよくがんばってきたね」と、自分に言ってあげることも大事かもしれない。
だけど、上野千鶴子さんの仰るように、【あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください】ってこと。

「自分が努力してきたからだ」という傲慢さ、それは〈ひとり勝ち〉の論理。
人を見下すか、自分を卑下するか、対等なコミュニケーションからどんどんかけ離れてしまうのかも。

自分の「克服できないこと」から目をそむけていれば、いつの間にか「人のできないこと」を貶めて見てしまう。
【自分の弱さを認め、支え合って生きる】ことの大事さを、今改めて感じています。


そういうことに氣付かされても、2週間前には全然余裕がなくて。
「ライブまであと1週間」なのに、練習ができていない。

氣もち的には、かなり追い詰められていました。



もうひとつ、この時期に読んで共感し、救われた記事があります。
鴻上尚史さんの、「ほがらか人生相談」。

「友人に絶交されました…」 鴻上尚史が指摘する原因“無意識の優越感”とは (1/7) 〈dot.〉|AERA dot. (アエラドット)


鴻上さんの人生相談、いつもすごく的確なんですよね。
的を得ているだけでなく、視点がとても優しい。
(余談ですが、「的を得る」は誤用ではない、というのが最近の通説だそう)

鴻上さんが「39歳でロンドンの演劇学校に留学」されたときのこと。

今のぼくは、言葉の通じない外国にいるわけではありません。
でも、感覚的にはかなり近いものがあるんじゃないか、と。
『Englishman in New York』の歌詞、「I'm an alien, I'm a legal alien」って氣分。


たとえば悲しみや痛み、どれだけ苦しいか、などなど。
そういったそれぞれの人の経験は数値化できるものではないし、簡単に比較することもできません。

だから、〈共感〉は諸刃の剣みたいなところがあって。
一方は「それ、すごくよくわかる」、一方は「そんな簡単にわかられてたまるか」。


ぼくにはたぶん、前述のようなハンデキャップがあります。
だからって、「人よりも大変」と言いたいわけではないのです。

でもときどき、自分は将棋でいうところの「角落ち or 飛車落ち」で世渡りをしているんじゃないか、って本氣で思ったりします。
普段の生活では、パッと見そういうことってわからないですから。

でもでも、それを言ったら他者だって同じこと。

鴻上さんの留学中の経験も、すごくわかる氣もするし。
それに比べたら自分なんか全然甘いんじゃないか、とも思います。

そういうことを言い出すと、ややこしいですね。
「誰々よりマシ」とか、相対的に捉えることがそもそもの間違いなんでしょうけど。


「無意識の優越感」。
自分も加害的にそういうことあったかもなぁと、今回改めて振り返ったりしました。

「自分だけが大変なわけじゃない」というのは救いになったりもする。
なのに、それを人に向けてしまうと、途端に攻撃的なものになってしまう。


言いたいことがだいぶ交錯して、着地点がわからなくなっていますが。

鴻上さんはこの相談で、「対等な人間関係」に敏感になることで、新たな出会いがあるはず、とアドバイスしています。

また改めて書くつもりですが、向町カフェでのイベントではみんなから温かく迎えてもらえて、すごく嬉しかった。
そういうときこそ謙虚に、「対等な人間関係」を意識したいもの。

「無意識の優越感」がベースの「居心地のよさ」では、いずれ関係性が崩れてしまう。

一方で、新しい環境での数々の出会いでは、「優越感」をもつことはむずかしい。
だからこそ、「対等な人間関係」を模索するいい機会、でもあるのかもしれません。

もうひとつ。
対等であるためには、自分軸がグラグラでは成り立ちません。

かと言って、ガッチリし過ぎて人の意見も聞き入れないのも問題ですけど。
まあ、それって実は自分軸が確立していないからこそ、なんでしょうね。

【自分の弱さを認める】というのも、自分軸になること。
弱さを否定して克服しようとすればするほど、自分軸はガチガチで脆くなる。


『Englishman in New York』には、「Be Yourself no matter what they say」という歌詞があります。
人に何を言われても、自分は自分。

そういう感覚が揺らいでいたから、このところすごくしんどかった。


あれこれ書いてみて、自分軸が取り戻せたり新しくできた部分もあったり。
おかげで、だいぶ楽になりました。


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写真は本文とは関係ありません。
家の近くの観音寺にあった、鬼瓦。


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そうそう、「鬼」つながりで。

先日、末っ子が図書館で借りた本がとてもおもしろくて。
シゲタサヤカさんの『オニじゃないよ おにぎりだよ』。

このオニたち、もしかしたら「対等な人間関係」のヒントになるかも。
何となく、関連のある話につなげたところで、今回はこの辺で。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん