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書きたいことが多過ぎると、かえって何から書こうかわからなくなります。
でも、そんなこんなでもう8月が終わってしまう~。
今月は結局、アイスクリームのことしか書いてないや。
(まあ、それはそれでいいのだけど)
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ここ最近、おかしなことがまかり通り過ぎていて、何だか麻痺してしまいそうです。
もちろんこれに慣れてしまってはいけない、と思うのですが。
話は変わりますが、ぼくは朝早く起きるのがニガテです。
目覚まし時計が鳴っても、止めて「あと5分」という感じで寝てしまったり。
それで何度も失敗しているのに、同じことを繰り返してしまいがち。
ちなみに、目覚まし時計が鳴らす音を「アラーム」と言いますが。
「アラーム(alarm)」の語源って、イタリア語でall'arma!(武器を取れ)なんだそう。
結構物騒な語源でビックリしました。
まさに「警告」のための合図、なんですね。
さて、ここからが本題。
たとえば、「あれ?おかしいな」と違和感をもつようなことがあったら。
まずはそのことを何かの形で表明しようとしますよね。
それが友人のことだったら、相手にそう伝える、とか。
世の中のことなら、詳しい人に聞いてみるとか、今だったらSNSに投稿してみるとか。
だけど近年、この「アラーム」が、バンバン「OFF」にされているように感じます。
いや、「アラーム」になる前のほんの些細な違和感、それさえも消されてしまう。
「耳障りな音」はない方がいい、そうに決まっています。
だからこそ、目が覚めるべき時間に起きられるように、アラームをセットするのに。
ある意味、自分の眠りを邪魔するわけです、アラームは。
先ほどの目覚まし時計の例のように、「OFF」したくなる氣もちはよくわかります。
だけど、それで後で困るのは自分なんです。
それが今では、微細な違和感の段階でも「OFF」にしようとする。
問題や不都合が出てきても、それを隠したり消してしまえば、当然状況は悪化します。
脱線するので今回は書きませんが。
問題が起きるという「試練」は、むしろ大きなチャンスだったりするわけです。
ところが本質から目を背けて、表面的に都合のいいことだけを信じる。
これでは、人も社会も成長するはずがありません。
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先日、昔の友人がSNSで「自虐史観」という言葉を使っていてビックリしました。
「自虐史観」なんて、まだ使っている人がいるのか、と。
自虐ではなく「自省」だと、いろいろな方が指摘しているし、その通りだと思います。
歴史を振り返るにあたって、内省的な視点というのは不可欠なはずです。
目覚まし時計を鳴らすのは、自分を虐げたいからではないのです、当たり前だけど。
それでも不都合な史実を知りたくない、のなら。
いわゆる戦国時代とか、敵対する家系を根絶やしにしたり、兄弟で殺し合ったり。
そういうことも「自虐史観」として、見ないふりでもしていればいいんじゃない?
このブログで何度か書いたと思いますが。
ぼくは基本、「反省」をしないことにしています。
というのは、ただの後悔はするだけムダ、だと氣付いたから。
じゃあ、歴史を学ぶことは?自分がやったことじゃないことを顧みることは?
自分も同じことをしてしまう可能性を直視して、どうしたらそうならないかを学びたいから。
反省は過去にばかり捉われている、自省は過去からよりよい未来を夢想する。
自分にとっては、そういう使い分けなんです(というか今考えました)。
不都合なことを見なければ、残念だけど同じ失敗を繰り返すのです。
なぜ謝るのかと言えば、負のループを断つため。
失敗から学ばない、失敗をなかったことにする、その方がよっぽど「自虐」なのに。
「炭鉱のカナリア」は目覚まし時計と逆で、有毒ガスを検知するとカナリアはさえずるのをやめてしまうのだそうです。
静かになったカナリアに氣付くのは、案外むずかしいことかもしれません。
アラームが鳴る鳴らないはあくまでも合図、それを感知してどういう行動をとるのか。
(今日8月31日の夕空、真っ赤でした)
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もうこの何年か、そしてこの数ヶ月は特に、まるで「沈黙の春」に向かうかのように。
そう言えば最近、カナリアの歌声聞いてないね。
あなたは氣付くのかな。
ぼくも氣付けるのかな。
やけに静かだな、そう思って開けた扉の外に何が見える?
それとも。
アラームを止めてやり過ごしていたら、昼過ぎまで寝過ごしてしまった。
どうして誰も起こしてくれなかった?
いや、何度も声かけたんだよ。
目覚まし時計は投げられて、電池が外れて止まったまま。
異変に氣付くことが「ネガティブ」なんじゃない。
それをスルーするスキルは「ポジティブ」じゃない。
そうそう、案外「静か」でもないんだなぁ。
ぼくが「おかしいな」と思うものが、なぜか大声で語られている。
多くの人、そして大声、まるでそっちが主流で「正しい」かのように。
これらは決して、悲観して言っているのではありません。
実際、悲観しているような段階じゃない、ほんとに。
そうか、カナリアのさえずりのような「アラーム」って、あり得るのかも?
いや、すでにそういう「歌」も聞こえ始めている。
発想の大転換が必要だし、案外そのビッグチャンスが来ているのかもね。
せれんでぃっぽ☆とむやん