とむやんの氣まぐれ雑想記

〈探幸王〉を目指して、さまざまな想いを綴ります☆

カナリアの歌が聞こえなくなるとき。


書きたいことが多過ぎると、かえって何から書こうかわからなくなります。
でも、そんなこんなでもう8月が終わってしまう~。

今月は結局、アイスクリームのことしか書いてないや。
(まあ、それはそれでいいのだけど)



ここ最近、おかしなことがまかり通り過ぎていて、何だか麻痺してしまいそうです。
もちろんこれに慣れてしまってはいけない、と思うのですが。


話は変わりますが、ぼくは朝早く起きるのがニガテです。
目覚まし時計が鳴っても、止めて「あと5分」という感じで寝てしまったり。
それで何度も失敗しているのに、同じことを繰り返してしまいがち。

ちなみに、目覚まし時計が鳴らす音を「アラーム」と言いますが。
「アラーム(alarm)」の語源って、イタリア語でall'arma!(武器を取れ)なんだそう。
結構物騒な語源でビックリしました。

まさに「警告」のための合図、なんですね。


さて、ここからが本題。

たとえば、「あれ?おかしいな」と違和感をもつようなことがあったら。
まずはそのことを何かの形で表明しようとしますよね。

それが友人のことだったら、相手にそう伝える、とか。
世の中のことなら、詳しい人に聞いてみるとか、今だったらSNSに投稿してみるとか。

だけど近年、この「アラーム」が、バンバン「OFF」にされているように感じます。
いや、「アラーム」になる前のほんの些細な違和感、それさえも消されてしまう。

「耳障りな音」はない方がいい、そうに決まっています。
だからこそ、目が覚めるべき時間に起きられるように、アラームをセットするのに。

ある意味、自分の眠りを邪魔するわけです、アラームは。

先ほどの目覚まし時計の例のように、「OFF」したくなる氣もちはよくわかります。
だけど、それで後で困るのは自分なんです。

それが今では、微細な違和感の段階でも「OFF」にしようとする。


問題や不都合が出てきても、それを隠したり消してしまえば、当然状況は悪化します。

脱線するので今回は書きませんが。
問題が起きるという「試練」は、むしろ大きなチャンスだったりするわけです。

ところが本質から目を背けて、表面的に都合のいいことだけを信じる。
これでは、人も社会も成長するはずがありません。



先日、昔の友人がSNSで「自虐史観」という言葉を使っていてビックリしました。
自虐史観」なんて、まだ使っている人がいるのか、と。

自虐ではなく「自省」だと、いろいろな方が指摘しているし、その通りだと思います。
歴史を振り返るにあたって、内省的な視点というのは不可欠なはずです。

目覚まし時計を鳴らすのは、自分を虐げたいからではないのです、当たり前だけど。

それでも不都合な史実を知りたくない、のなら。
いわゆる戦国時代とか、敵対する家系を根絶やしにしたり、兄弟で殺し合ったり。
そういうことも「自虐史観」として、見ないふりでもしていればいいんじゃない?


このブログで何度か書いたと思いますが。
ぼくは基本、「反省」をしないことにしています。

というのは、ただの後悔はするだけムダ、だと氣付いたから。

じゃあ、歴史を学ぶことは?自分がやったことじゃないことを顧みることは?
自分も同じことをしてしまう可能性を直視して、どうしたらそうならないかを学びたいから。

反省は過去にばかり捉われている、自省は過去からよりよい未来を夢想する。
自分にとっては、そういう使い分けなんです(というか今考えました)。

不都合なことを見なければ、残念だけど同じ失敗を繰り返すのです。
なぜ謝るのかと言えば、負のループを断つため。

失敗から学ばない、失敗をなかったことにする、その方がよっぽど「自虐」なのに。


「炭鉱のカナリア」は目覚まし時計と逆で、有毒ガスを検知するとカナリアはさえずるのをやめてしまうのだそうです。

静かになったカナリアに氣付くのは、案外むずかしいことかもしれません。
アラームが鳴る鳴らないはあくまでも合図、それを感知してどういう行動をとるのか。


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(今日8月31日の夕空、真っ赤でした)



もうこの何年か、そしてこの数ヶ月は特に、まるで「沈黙の春」に向かうかのように。

そう言えば最近、カナリアの歌声聞いてないね。
あなたは氣付くのかな。
ぼくも氣付けるのかな。

やけに静かだな、そう思って開けた扉の外に何が見える?


それとも。

アラームを止めてやり過ごしていたら、昼過ぎまで寝過ごしてしまった。
どうして誰も起こしてくれなかった?
いや、何度も声かけたんだよ。

目覚まし時計は投げられて、電池が外れて止まったまま。


異変に氣付くことが「ネガティブ」なんじゃない。
それをスルーするスキルは「ポジティブ」じゃない。

そうそう、案外「静か」でもないんだなぁ。
ぼくが「おかしいな」と思うものが、なぜか大声で語られている。
多くの人、そして大声、まるでそっちが主流で「正しい」かのように。


これらは決して、悲観して言っているのではありません。
実際、悲観しているような段階じゃない、ほんとに。


そうか、カナリアのさえずりのような「アラーム」って、あり得るのかも?
いや、すでにそういう「歌」も聞こえ始めている。

発想の大転換が必要だし、案外そのビッグチャンスが来ているのかもね。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん

愛と平和のアイスクリーム♡

今週のお題「わたしのイチ押しアイス」


さて、今日(2019.8.6)はちょっと息抜き。
今回のお題は、「どんなアイスが好き?」ということで。


今日は買いものに、京田辺駅すぐのアル・プラザに行ったのですが。
アイスの売り場に、なんとベン&ジェリーズ(BEN & JERRY’S)のミニカップが!

このブログで一度、ちょこっとだけ紹介したことがあります。

またまた久々の京都☆ - とむやんの氣まぐれ雑想記


結局このとき以来、買う機会もほとんどなく。

ベン&ジェリーズのアイスは、フェアトレード認証の原材料を使っていて。
他にも、社会課題や環境問題にも取り組む、なかなかおもしろい企業。

Twitterを見たら、つい最近は東京・東急電鉄の混雑緩和キャンペーンにも参加していたみたい。


そんなベン&ジェリーズのアイス。
なかなか売っているところがなくて、ぼくはシサム工房以外で見たことがなかった。

それがまさかの、アルプラにあるなんて。

フレーバーは5~6種類くらい、だったかな。
バニラ、コットンキャンディー、チャンキーモンキー、クッキーカーニバル。
見逃しているものもあるかもしれませんが。

今回はチェリーガルシアにしてみました☆

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チェリーとチョコのチャンクが入っていて、食べ応えがありました。

あ~、置いてある種類、とりあえず全部食べ比べてみたい。
当分扱っていてくれるかなぁ。

他の店舗でも扱いがあるのかな?


わたしのイチ押しアイスは、ベン&ジェリーズ。

Home | Ben & Jerry’s


今回は短めに、この辺で。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん

茄子の蒲焼き、そしてバイアスについて。


Twitterを見ていたら、「話題のツイート」に〈現状維持バイアス〉という言葉が。

ちなみに実はこれ、化粧品の会社のコマーシャルでした。
でも、〈現状維持バイアス〉をコピーに使うなんて、おもしろいなとは思いました。


〈バイアス〉とは、先入観や偏見のこと。
「思い込み」より、脳が無意識的にそう処理してしまうニュアンスがあるの、かな。

「呪い」のメカニズムとも関連してそうだけど。
(そこまで掘り下げると終わらなくなるので、今回はやめておきます)

〈バイアス〉には元々、「自己防衛」の機能の面もあるだろうし。
うまく活用することもできるのでしょうけど。


例えば、都合のいい情報しか信じなくなり、偏った情報ばかりを集めてしまう。
(〈確証バイアス〉というそうです)
反対意見や都合の悪い情報を排除すれば、ますます偏って…という悪循環。

「鎖でつながれたサーカスのゾウ」の例え話、あれも〈バイアス〉かな?
子どものときに鎖でつながれていたサーカスのゾウは、大人になっても細い鎖でも逃げようともしない。


今回の選挙でも、こんな意見?をよく目にしました。
「今の生活に満足ではないけど、積極的には変えたいとは思わない」。

現状維持でいい、という人は与党に投票するか、そもそも投票に行かない。

今の状況からすると、「現状維持を望むならむしろ投票に行って野党に入れないと」。
この意見もよく目にしました。

ところが、バイアスかかっていると、この言葉自体がスルーされてしまう。


ぼくはいつも「人生はエスカレーターを逆走するようなもの」と思っています。
現状維持と思っても歩かなきゃ同じ場所に留まれない。
立ち止まってもいいけど、止まっているだけだとどんどん後退してしまう。



ところで、一昨日(2019.7.27)は土用の丑の日でした。

これまたTwitterの話、しかも半年くらい前のこと、なんですけど。
ある落語家さんが鰻を食べたとツイートしたら、「絶滅危惧種の絶滅に協力していると公言している」と文句をつけられた、というひと悶着があったらしい。

確かに、この指摘の仕方はどうかなぁとは思います。
でもそれに対して、「鰻食って怒られたんじゃ何も呟けないよ」「私は鰻を食べます」と返したんですね。

申し訳ないけど、それはそれで「大人げないなぁ」と思っちゃう。


ニホンウナギは今や絶滅危惧種

ウナギという魚の絶滅の危機 |WWFジャパン

ヨーロッパウナギの稚魚も密輸され、3600億円規模の闇ビジネスになっているんだとか。

そういう現状を知っているのかどうかはわからないけれど。

落語家さんだったら、こんな返答を期待するのはヤボでしょうか?
「そうか、絶滅か、そいつは困るな」
「オレは鰻が好きだから、子や孫の代にも食べさせてあげたい」
「わかった、オレは一生分の鰻は食った、次の世代のためにオレはもう鰻を食べない」

そう言って、こっそり老舗の鰻屋さん行ってたっていいんですよ。
いずれにしても、こんなような受け答えなら、さすが落語家さんは粋だなぁってなるのに。

まあ別に、お説教しようとかそんなつもりはありません。
この落語家さんがどういう生き方をしようが、どんなツイートをしようが興味ないし。

それに、彼ひとりの問題ではないですからね。

ただ、これにぶら下がるコメントがひどかった。
問題だなと思うのはむしろそっち。


鰻については、ぼくも「食べるな」とまでは言いません。
本当に絶滅を危惧するほど減っているのか、調べる必要もあります。

だけど、「土用の丑の日に鰻」はもうやめていいんじゃないですか?と言いたい。

そして、現状を認識して共有して、解決策を考えていきたい。
(これは鰻だけの問題ではないはずなので)


実際今年は鰻以外の提案もたくさんあったらしいです。
ナマズやサケ、豚肉などの蒲焼き。

うちも、それに合わせたわけじゃないんですけど、茄子の蒲焼きをしました。
以前やって美味しかったのを、長男がたまたま思い出してリクエストしてくれて。


焼いた茄子にタレをかけただけの簡単なお料理、です。
でも美味しいんですよ、味は鰻とは全然違うけど、見た目は案外似てる。
(焼き方などで、もっと似せることもできます)

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タレは煮切ったみりんに醤油を足しただけですが。
調味料にこだわるとそれだで完成度が高くなります。


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ちょっといろいろ脱線氣味でしたけど、やっと本題。

この「土用の丑の日の鰻」、平賀源内が発案したというのが定説、最近はよく知られた話になっています。
真偽はともかく、夏に売れない鰻を何とかするために「土用の丑の日には鰻」で売り込んだ、というは間違いなさそうです。

土用の丑の日に鰻」はつくられたブーム、根底には〈バイアス〉が見え隠れする。
こんなものを後生大事に、根拠もないまま「土用の丑の日に鰻」を食べることを習慣化するなんて。

鰻屋さんや魚屋さんはともかく、スーパーやコンビニで大々的に売る必要があるの?
それを「季節感」とか言ってごまかすのは本当にやめてほしい、って思います。


「季節感」を手軽にイベント的に楽しむ、それが悪いとまでは言いません。
でもそれなら日頃、生活の中で季節の移り変わりを感じているのでしょうか。

野菜だって魚だって、「旬」ってものがある。
ちなみに、鰻の旬って10月から12月だそうですよ。

夏に鰻が売れなかったのだって、ちゃんと理由があったんじゃないかってこと。

特定の日にだけ、お手軽なフレーズとして出てくる「季節感」。
その一方で、普段はそのセンサーを切ってしまっているのが現状。

土用の丑の日に鰻」、それを「季節感」と思い込んでいること。
〈バイアス〉は思考停止、というよりも〈思考開店休業〉って感じなんでしょうか。


ついでに、コンビニやスーパーでのクリスマスケーキや恵方巻も、一旦やめません?
フードロスのことも、そろそろ本氣で考えたいところ。


絶滅危惧のことを書いたから、かえってわかりにくくなったかもしれません。
でも、もしかしたら「絶滅」してしまうかもしれないという状況に対して、世間はあまりにもにぶい。
それは、地球規模の氣候変動のこともそう、いわゆる「不都合な真実」ですね。

まともな反論があるのならまだいいのですけど。

打つ手がない、続けるしかない、何もしたくない。
〈バイアス〉に囚われていると、なんだろう、氣力をできるだけ使いたくない感じ?
妙な「省エネモード」になってしまうのでしょうか。
(そして発展形が〈思考開店休業〉ってことなのかな)



〈バイアス〉がかかっている人のお決まりのセリフ、「〇〇ってこうなんでしょ?」。
大抵、いつまでも情報を更新することなく、場合によっては誰かの受け売りそのままだったり。

そう、これでは絶対幸せになんてなれない。
別に幸せになんてならなくていいし、というのなら、たぶんこのブログは不必要です。
「〈探幸王〉を目指して、さまざまな想いを綴ります」というサブタイトルだし。

自分でもすっかり忘れていましたけど、と思ったら、一年前にも同じように書いてる。

No Revolution, 農 Life. - とむやんの氣まぐれ雑想記


「迷いと決断」、そして〈現状維持〉を抜け出して「幸せ」を探し出すには?
今回、実はその長い前振りだったりもします。

なんか、やっと言葉にできそうなところまできました。
でもそれには、こうやって思いついたことをとにかく書き出すこと。

この辺のことはもっとわかりやすくまとめたりもしようと思っています。
次回、もしくはもうちょっと先か、続きを書くつもりです。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん

敢えて不毛の地で咲いてみる、ということ。


改めて。

7月21日はぼくの誕生日、45歳になりました。
今年もまた、お祝いのメッセージやコメントなどをたくさんいただきました。
ありがとうございます。

昨年はこんなことを書いていました。

44歳。 - とむやんの氣まぐれ雑想記



今年も子どもたちから、手づくりのプレゼントをもらいました。

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ちょっと手抜き感…いえいえ、いつもが凝りに凝っているだけ。
今年は何かとみんな忙しいこともあって、それでも用意してくれて嬉しい。

ちなみに、手前が長男、真ん中が次男、奥が末っ子の作品です。

妻からのプレゼントは、一緒に奈良デートに行くこと。
奈良に行ったことは、また書くつもりでいます。


そうそう、今年の7月21日は参議院選挙の投票日でした。
それもあって、氣忙しい感じがあったなぁ。

ゆるい選挙ソング、つくってみました。 - とむやんの氣まぐれ雑想記

以前も書きましたが、それだけおもしろい選挙だったとも言えます。
そして、選挙ソングを急ピッチで仕上げたので、誕生日どころじゃなかった。



誕生日についてはこれくらいにして。

今日(2019.7.25)は、先日家に来てくれた友人と喋ったこと、そこから考えたことを書いてみようと思います。
45歳の抱負、というほどではないけど、そういう意味も込めて。

奇しくも、一年前に書いた記事ともリンクしそうな内容です。

あなたがいたくないところに、いることはできない。 - とむやんの氣まぐれ雑想記

そういえば。
ここで紹介した本の著者であり、ビートルズのレコーディング・エンジニアを務めたジェフ・エメリックさん、昨年10月に72歳で亡くなりましたね。


では、本題。

「人に好かれたい」と思ったとき、あなたならどうしますか?

誰からも好かれたいとか、嫌われることを恐れるとか、そういうことではなく。
この人が好き、そう思ったらやっぱり同じように好きになってほしい。

恋愛に限らず、一方的に想うだけというのはやっぱりちょっと辛く感じてしまう。
でも一方で、相手にどう思われようと好きなんだからしょうがない、というのもあったりします。

それで、恋愛だと「好きです」と自分の氣もちを押し付けてしまって、かえって疎ましく思われてしまったり。

まあ、人によって状況はさまざま、なのでここでの提案が誰にでも有効かどうかはわかりません。
それでも、試してみる価値はあるかも、と思っています。


まず、以前「報われない感」について、何度か書いたことがあるのですが。

「報われない」と感じたときに、やってみること。 - とむやんの氣まぐれ雑想記


ここでも同じように、「与えること」がキーになってくるように思います。

相手に「好かれたい」という、見返り的なものをもらおうとするのではなく。
この人のために、自分は何ができるだろうと考えてみる。

例えば、いわゆる「聞き上手」になってみる。
場合によっては話を聞くこともない、ただ傍にいられたらそれでいい、とか。

だって本当に相手のことが好きなら、それを望んでいるはずなんだから。
自分をわかってほしい、よりも相手のことを知りたい。

自分のことはオープンマインドでいたら、それでいいだけのこと。


そうやって考えていったら。
人と同じことをして同じところに立って、というのはアピールとしては弱い。
もちろんそれは、ただ目立てばいいというのではなくて。

ほかの人のいない、もしくは氣付かない「隙間」を意識してみる。
例えるなら、「不毛の地」があったらそこで咲いてみる、という感じかなぁ。


ふと、『置かれた場所で咲きなさい』という本を思い出しました。

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昨年開催したブックカフェイベントで、ぼくはこの本をいただきました。

タイトルにもなっている「置かれた場所で咲く」ということ。
これは実は、さっきの「不毛の地で咲いてみる」とほぼ同じ、とぼくは思っています。

「置かれた」という言葉のイメージが、案外人によってまちまちな氣がしますが。
まとめのところに書かれた文を読めば、理解が深まるはずです。

 《境遇を選ぶことはできないが、生き方を選ぶことはできる》

「敢えて不毛の地」を選ぶということは、境遇としてではなく、生き方として。
草木のないところだからこそ、そこに花を咲かせたい。
自分がその花になれたらいい。

これは、岡本太郎さんの「いつも危険だと思うほうに自分を賭ける」に通じることじゃないかな。


ここまで書いてはみたものの。
思ったよりうまくまとまらなかったなぁ。

いっそのこと、単純に「天邪鬼モード」を生活に取り入れる、のでもいいのかも。
「残りものには福がある」というのも、結構使える。

人と同じにならない練習、みたいなことかな。
人のいない隙間があったら、自分の「置かれるべき場所」かも、と思ってみる。
そこに行ってみてしっくりきたら、すぐに答えは出ないけど、居続けてみるとか。

まずは意識の問題。
やり方だって、人や自分の失敗したことを繰り返しても、ね。
ちょこっとずつ、やり方を変えてみる、まるっきり同じことをしない。


きっとその人を好きになった理由って、人とは違う部分に輝きを見出したから。
違いがあるって、やっぱりすごく大切なことだと氣付く。

次はこの辺のことを、以前書いた「迷いと決断」の話につなげてみたいと、秘かに目論んでいます。
今日書いたことも、また補足や修正を加えていくかもしれません。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん

45歳の、夏だぜ。

今週のお題「空の写真」



今週のお題、のその前に。

前回、新曲『今日は投票日』について書きました。
ひとつ、追記しておくと。

Bメロの最後、「それは私の ひとしずく」。
ひとしずくとは、『ハチドリのひとしずく』というお話から。

ハチドリのひとしずく 辻信一/監修 | ノンフィクション、学芸 | 光文社


動画用に書いた絵は、そのひとしずくのイメージと。
ノアの方舟の鳩に、オリーブの枝ではなく一票という「紙切れ」を運ばせて。

「新しい世界の訪れ」につながるといいな、と。



先日、7月21日は誕生日でした。
おかげさまで、45歳になりました。

そのことはまた改めて書こうと思います。


さて、空の写真。

今日(2019.7.24)梅雨明けしたらしいですね。
そんなわけで、「いかにも夏」って感じの雲。

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買いもの途中、京田辺駅付近から。


この雲を見て、自転車を走らせていたら。
ふと、「夏だぜ~」という言葉が歌と一緒に浮かんできて。

こういうときって、既存の曲を思い浮かべているだけだと困るので。
メロディーは調べられないけど、とりあえず歌詞を検索。

「おっととっと夏だぜ」というのが出てきた、よかった全然違う。
あ、でも、連想することは同じ、「恋をしよう」はかぶったなぁ。


一応仮タイトル「夏だぜ」、この夏できあがるかどうか。


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反対側の空は、こんな感じ。
これは新田辺駅興戸駅のあいだあたり、から。

神々しい感じ。


今日は空の写真だけなので、これで終わります。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん

ゆるい選挙ソング、つくってみました。


信楽での、トラペ座LIVE前座。
守山のBlueにLIVEを見に行ったこと。

その辺のことも書きたいのですが、まずは新曲について。



今週末、7月21日は参議院選挙の投票日ですね。

今回の選挙はかなりおもしろい、と思います。
特に野党の立候補者の演説など、追い付かないくらいいろいろ聴きたいものがあって。

そういう動画がTwitterFacebookで流れてくるし、リアルタイムで見れたりもする。


でも一方で、投票率伸び悩み問題、があります。

いろいろ理由はあるのでしょうけど。
昨日ふと思ったのは、「自分の意志で決める」ことを避けたがる人が多いのかな。


自分も20代の頃は、投票に行ってませんでした。

ちなみに、投票しないのは「自己肯定感の低さ」と関係している、という意見をTwitterで見かけました。
自分を振り返っても、これはその通りだなぁと思います。

「政治不信」の前に「人間不信」、なぜって自分という存在を肯定できないから。
だから、どんなことも自分の意志で決めたくない、曖昧にしておきたい。

この辺はまた改めて考えてみたいことです。


で、そういうあれこれが頭をぐるぐるしていたから、かもしれません。
もしくは、ずいぶん前に「選挙行こうよ」的な歌をつくってと言われていたこととか。

結局、何もアイデアが浮かばないまま、でも頭の片隅にはあったから、でしょうか。


「今日は投票日」
なんてことのない言葉が浮かんだのが、7月11日の朝。
あぁ、こうしろああしろじゃなく、ただ事実を述べる、それがいいかも。

「選挙に行こう」と言うのがダメとかそういうことじゃなくて。
ほかの人がそれをやってくれているなら、自分は違う方法にアプローチをしたい。

ぼくは、「宿題やったの?/今やろうと思ったのに~」のタイプなので。
できれば忘れてしまいたい、ただ後で余計に苦労するわけですけど。
まさに、「今日の一針、明日の十針」。

若いときにも、たぶん「選挙行かなきゃ」っていう意識はどっかにあったはず。
その罪悪感があるから、逆に「投票日がいつか知らない」ことにしておく。
「知らない」んじゃなくて、「知らないふり」。

だって、不都合なことは目を背けていたいから。
それはよくわかる。

そこにこうしろああしろと言っても、「うるさく言われたから、やらない」という口実をつくれてしまうわけです。
反抗期的発想かもしれませんけど、自分もそうでした。


というようなことは、後になって考えたこと。
実際には、とにかくゆる~い歌にしたかった、それだけです。

消費だってそう、無理矢理買わせることはできない、北風と太陽。
「今セールですよ」とか「お買い忘れありませんか?」みたいな手法、ってとこかな。



「今日は投票日」というフレーズと、メロディーを決めた2日後の7月13日。
滋賀に行く日だったので、キペルス・パピルスで練習もする予定でした。

せっかくなら選挙前に動画を撮りたい、と欲が出ました。
果たして間に合うのか、とにかくAメロ1番だけでも。

というわけで、撮った動画がこれ。

youtu.be



直前に手書きでコード譜つくって、ちょこっと練習して。
アレンジも間に合わなかったけど、楽しい雰囲氣になったのはかえってよかったかも。

fbで公開したところ、おかげさまでたくさんの反響をいただきました。
ありがとうございます。


で、その後Aメロ2番とBメロもつくって。
元々イメージしていたボサノヴァ風のアレンジで、宅録しました。

歌詞と構成、だいたいのメロディーが決まったのが7月15日の朝。
4日でできたのは、今までの最短かな。

メロディーはいつも、「できました」となってからも微妙に変わります。
これは何度も歌う中で固まってくるので。

youtu.be



動画にするために、絵を描きました。

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歌詞について。

Aメロ1番の、「ほんの少し遠回りしよう」。
これは言葉の通り、投票所までちょっと遠回りして、お出かけ先に行くということと。

民主的なことって、ある意味「遠回り」なことだな、と思って。
そうやって時間を掛けることが大事、今は何でも最短コースを取り過ぎる氣がします。

Aメロ2番の3行目、あとで変えました。

Bメロには、ぼくの選挙に対する想いを、うるさくならない程度に。

選挙に対して、「どうせ変わらない」というのも、体のいい言い訳。
だって、上司への文句やパートナーへの不満だって、どうせ変わらないと思っていても、誰かに愚痴ったりしますよね。

やりたくないことを無力感にすり替えていくと、本当に無力になってしまいます。

そうそう、「いつまでもあると思うな、親と投票券」を歌詞に入れようかと思っていたのですが、これはやめました(笑)


政治に対して、政治家に対して、もっと文句言っていい。
そういうのを「政治のせいにするな」って言う人もいるけど、ぼくは違うと思います。

逆に、政治の問題なのに、個人のせいにすり替えていがみ合ったり。
そのいがみ合いを物知り顔で批判する人が出てきたりして、あぁややこしい。

自己責任論として個人に文句言う方がラクなんでしょうけどね。


いずれにしても、政治の話はむずかしいことが多いです。
変にモメてしまったり、言いにくくなってしまったり。

ま、それでもしつこく書いたりしていきますけど。

歌だと、意見を押し付けるでもなく、いいバランスで発信ができるので。
我ながら、いい曲ができたなと自画自賛して、今日のところはこのへんで。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん



今日は投票日

朝からの雨も止んで
せっかくの日曜
どこかに出かけたいな
でもその前に
大切なこと 忘れてないよ
ほんの少し遠回りしよう
今日は投票日

誰を選ぶか悩んで
ぱっと見の印象
それだけで決めないで
よく考えて
メンドウだけど ワクワクしてる
本気だせばおもしろいでしょう?
今日は投票日

あっという間には 変わらない
不公平も 思い込みも
どうすればいいの?
たった一枚の 紙きれに
可能性が きらり光る
それは私の ひとしずく

朝からの雨も止んで
せっかくの日曜
どこかに出かけたいな

今日は投票日

アマ心。


今日(2019.7.2)は告知から。

7月6日[土]、トラペ座LIVE「うたげの ゆめの 旅の」in 信楽、たまさき家にて。
このライブの前座に、キペルス・パピルスも出演させてもらいます。

トラぺ座ライブ!「うたげの ゆめの 旅の」in信楽

(↑LIVEのイベントページ)

Trapeza | 泥海を 渡りゃんせ。果てどなく 踊りゃんせ。
(↑トラペ座のサイト)



たまさき家は先月、松永希カルテットのLIVEでソロで前座出演&珈琲出店させてもらいました。

今回はキペパピとしての出演。
ちなみに、キペパピとしてステージに立つのは今年初。

しかし、今のところその日は雨予報なんですよね。
雨天の場合、会場がカフェあわいさに変更になります。



先日、滋賀に行く用事があったので、喜多家に泊めてもらいました。

一応補足しておくと。
喜多家夫婦2人とぼくとで、キペルス・パピルスというバンドをやっています。

キペルス・パピルスのこと。 - とむやんの氣まぐれ雑想記


夜練、そして翌日の朝練。
夜は喜多家で、朝は野洲川の土手にある公園の片隅で。

練習していたら、ランニングしていた男性が足を止めました。
曲が終わると、「君たちはアマチュア?」と声を掛けられました。

そこから、いろいろとお話を伺って。
いわゆるフォーク世代で、その方もバンドをやっていたことがあるんだそう。


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余談ですが、練習の後は3人で山本珈琲倶楽部へ。

ランチとコーヒーを楽しんだ後、店内で『愛を注いで』を歌わせてもらいました。
(お店の常連の方が撮ってくださった写真、最後まで聴いてくださいました)

『愛を注いで』という歌は、山本珈琲倶楽部32周年のお祝いとしてつくりました。

32周年おめでとうございます。 - とむやんの氣まぐれ雑想記




さて、今日の本題。

後になってふと、アマチュアとプロの差って何だろう?と思いました。
この問いはありがちと言えばありがち、なのですが。

「アマチュア?」と言われても、ぼくはあまり躊躇なく「はい」と答えました。
ぼくは上手じゃないし自信もあまりないし、でも演奏はいつも「プロの意識」をもっているつもりです。


「アマチュア」という言葉の語源は、「愛する人」を意味するラテン語「amator(アマトール)」。
なので、「愛好家」という和訳がしっくりくるみたいです。

「自分の好きなことをしていく」、これはぼくが常に目指していること。
自分には、「アマチュア」という言い方が性に合っている氣がします。

ガマンして妥協して、っていう生き方はしたくないから。
まず自分を喜ばせる、自分が楽しむ、そういう姿勢がいいなって思うので。


じゃあ、「プロ」とは?「プロの意識」とは?

自分だけじゃなく、多くの人に喜んでもらえるようにすること。
媚びるんじゃなくて、要は自分にも他人にも妥協しない、というようなことかな。

まあ、定義付けはいくらでもできるでしょうけど。


そう言えば、「プロ」と「アマ」を考えるとき、必ず思い出すものがあります。
それは、「レスリング」。

プロレスとアマレス、両者には関連する部分ももちろんありますが。
「プロ」と「アマ」の違いが、内容的にもこんなに違うものって、なかなかなさそう。

マチュアの野球とプロ野球だったら、基本(ルールだとか)は一応ほとんど同じ。


「プロ」の方がより、お客さんを喜ばせようというエンターテインメント性を感じる。
「自分がまず楽しみ、多くの人に喜んでもらえるようにする」のがプロ、という定義もそんなに的外れじゃないんじゃないかな。



でも、世の中的には「アマチュア」を低く見ているなと思うことも多々あります。

それって、アマチュアという言葉の響きが、「甘ちゃん」を連想させるから?
いや、案外冗談じゃなくてほんとにそうかも。


改めて言うことでもないのかもしれませんが。
「プロ」って、アマチュアが経験値積んでジョブチェンジするようなものじゃない。

だから、「プロ」になったからと言って、アマチュア精神をなくすわけじゃないし。
マチュアの心、〈アマ心〉。

何が言いたいのかというと。
たとえこの先、自他ともに認めるような「プロ」になったとしても。
〈アマ心〉はもち続けていたいな、と思います。

愛好家としての側面、案外「プロ」になると忘れがちになるのかもしれません。

好きでやっている、「プロ」になっても変わらないという方もたくさんいるでしょう。
でも、「イヤだけどしかたなく」「生活のため」、そういう「プロ」の方も一定数いるように思います。

それがダメ、ってことではないんです。
だけど、それって「自分を犠牲にして、人を喜ばせることができるか」ってことかな、と。
ぼくは、それではきっといつか「破綻」してしまう、と考えていて。

だから、「自分が楽しいから、人にも喜んでもらえる」という連鎖を起こしたい。

そうそう、もう一度念を押しますけど、「プロ」と「アマ」は相反するものじゃない。
「プロ」よりも「アマ」がいいんだとか、そういう意味ではありません。

「プロ」の心構えをもって、その中にはいつも〈アマ心〉がある。
そういうイメージでしょうか。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん