とむやんの氣まぐれ雑想記

〈探幸王〉を目指して、さまざまな想いを綴ります☆

「ライト」は誰のもの?

今日(2016.7.10)の昼前に、投票に行ってきました。

宣言通りオシャレして。
でも、「氣もちの上で自分なりに」なので、オシャレに見えるかどうかは別の話。

子どもたちも連れて一家で、家から徒歩3分ほどのお出かけ。
あんまりわかってないとはいえ、楽しそうにしてました。

実際親が楽しんでいること、それを見せることも大切かなと思っているので。

f:id:serendippo:20160710200440j:image



ふと思ったことをメモしておきます。
「権利(right)」について、今回はちょこっとだけ。

いつの時代でも、「権利を主張するばかりでなく、しっかりと義務も果たすべき」という意見があるように思います。
それをどう捉えるのか、ただ案外世の中の人はそれを真っ向から反論できるものをもっていないので。
「それもそうだなぁ」と、ひるんでしまう人が結構多いんじゃないか、と。

それで、これが正しいとかではなく、こんな考え方をしてみたらどうだろうと。

それは、「権利(right)って誰のもの?」ということ。
基本的には各々のものということなんだと思うのですが、そこをちょっと視点を変えてみたらどうだろうか?


たとえば、ネイティブアメリカンなどの思想にもあるような、「七代先まで思いやる」という感覚。
現世で与えられているものは、未来世代からの「借りもの」であるという考え方。

だから、「権利」もあくまでも「預かりもの」であって、それを何かの形で育ててお返しする。


たとえば、コピーライト(copyright)の逆、「コピーレフトcopyleft)」という概念的にも言葉遊び的にもすばらしいアイデアがあります。
著作権オープンソース的に、自由に引用や改変ができるようにすること、ちょっと説明不足かもしれませんが。
それは上に記した感覚と、近いと思うのです。


「人権なんてたいそうなものは、自分には不釣り合いだ」と言うような、みんなそんな感覚が少なからずあるのかな。
だから、「権利の前に義務を果たせ」と問われると、「生まれながらに」なんて言えず、条件を満たしていない自分には「資格がない」と思いがちなんじゃないか。


だから選挙にしても、自分のための一票じゃないというか、そんな感覚で捉えてみるのはどうでしょう?
年配者なら孫のため、犬や猫を飼ってるならその子のため。
もちろん、ぼくら親世代は子どもたちのことを考えて行く人も多いでしょう。

選挙にも政治にも関心がない、それは別に咎められることではないかもしれません。
でも、自分にとって大切な人(もちろんそこに自分自身も当てはまればもっといい)に関心がない、そんな人っている?

そこの意識が結局、つながっていないだけなんだろうと思うのです。

そして、投票に行くということが、選挙というものや政治というもの、民主主義というものにエネルギーを与えるっていうのかな。

それらは個人が自由にしていい権利、ってことじゃない、そんなイメージ。
それを義務にしてしまったら、ますますそこから離れてしまうかもしれない。

自主的に誰かのためを想って権利を行使する、そんなことが当たり前のようになったらいい、そんなことをふと考えました。
まだ熟考していないことなので、今回書いたことにはつっこみどころも多々あるかもしれませんが。

もうひとつ、権利というものを研究する自主サークル「権研〈けんけん〉(仮称)」を立ち上げて、楽しい勉強会をしてみたいな、なんてことを思いました。
それも、ふとした思い付きですけど。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん