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とむやんの氣まぐれ雑想記

“探幸王”を目指して、さまざまな想いを綴ります☆

調和の回復。


あけましておめでとうございます。

2016年もいろいろとありがとうございました。
最近は「ブログ読んでいるよ」と声をかけていただくことが多く、とても嬉しいです。

昨日は(2016.12.31)は長男とちょっとお出掛け、池袋をぶらぶら。
珍しく、都会を楽しんできました。

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2017年最初の投稿は、昨日ふと浮かんだ言葉を膨らませてみたものです。
まだ荒削りではあるけれど、とりあえず残しておこうと思います。

それでは、2017年もよろしくお願いいたします☆



これからは「正しさ」よりも、「調和」がとれているかどうかを重要視したい。


たとえば、自分や家族が幸せであるということと、世界が平安であるということ。
本来であれば、そのどちらもが満たされていかなければ、本当の幸せとは言い難い。

その両方を意識しながら、どちらも成り立つようにすればいい、それだけのこと。
どちらかを優先したり、比較する必要もない。

ある意味それは、「妥協」点を探ることなのかもしれない。
よくよく考えてみれば、「妥協」という言葉も見直してみるといい。

「妥」とは穏やかなで落ち着いているさま、安らかに座る意味から生まれた漢字だそうだ。

やじろべえで言えば、左右が止まって安定している状態だけではなく、それを回復するためにゆらゆらと揺れている状態も含めたものが、ここでいう「調和」なのだと思う。


すべてのものは、「調和」を保とうとする性質が必ずある、と言っていいんじゃないだろうか?
保とうとするだけでなく、認識して回復する力までちゃんと兼ね備えているはずだ。

それが「調和」の意味を忘れ、「我を張る」ことにばかり意識が向かうと、ますます「調和」が乱れてどんどん見失っていく。

「調和」を回復するためには、何かを「しない」ということが特に重要になる。
手を加えようとすればするほど、「調和」から遠退き、感覚が薄れていく。

その状態を体感的に知ることもまた、「調和」の一環だと言える。


捕鯨の問題などでも、文化や伝統などと主張するには、あまりにも現状がかけ離れ過ぎているように感じる。
ここでは是か非かを言いたいわけではない、捕鯨が「伝統」であるのなら、それに即した現状も回復するべきだと言いたい。

先人の誰もが優れていたわけではないだろうが、現代人はその辺の感覚が薄っぺらいように思える。

そこにある木を一本、伐ったらどうなるのか。
もし伐るのなら、「調和」を回復しやすくするために何をするのか。
そして、何を「しない」のか。

現象ひとつを近視眼的に見てしまうか、逆に個々に目を配ることを面倒に感じてしまうか。
木を見るのか森を見るのか、どちらがより大切かということではない、その「調和」に意識を向けるということ。

そうなれば、安易に木を伐り倒していくことはできなくなるだろう。
「伝統」というなら、そういう感覚こそ継承していくべきでは?


つまり、「調和」を回復させていくことは、「調和」そのものを生きることだと言える。
冒頭のたとえで言うなら、自分個人が「調和」を生きることは、世界の調和の回復と同意義なんだと思う。
切り離して考える時点で、すでに意味が変わってしまっている。

木を無闇に伐ることなく、かといってただ伐らなければいいということでもなく。
「調和」のとれた状態とは、変化に常に対応していくことであり、常に変化していくということでもある。


「調和」を意識していくことで、軽々しく他者を責めたりしなくなる。
批判するべきものは批判し、けれど自分は「調和」そのものを生きる。
「不安定さ」にこそ飛び込み、常に失敗を更新していくことでもある。
2017年はそういう風にありたい。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん