とむやんの氣まぐれ雑想記

“探幸王”を目指して、さまざまな想いを綴ります☆

「D」の補足。


昨日書いた、〈言葉〉について。

ABCのための「D」 - とむやんの氣まぐれ雑想記

 

f:id:serendippo:20170207233739j:plain



言い足りない、書き切れない部分があったので、ちょこっと補足。

しかも、このタイミングでちょうどいい(?)事例があった。


今日(2017.2.8)のニュース。
南スーダンのPKOに参加する陸上自衛隊の日報で、「戦闘」が報告されていた問題。

稲田朋美防衛相は衆院予算委員会で、「戦闘行為」の有無について、こう答弁したという。

「事実行為としての殺傷行為はあったが、憲法9条上の問題になる言葉は使うべきではないことから、武力衝突という言葉を使っている」。

これはつまり、「憲法違反だってわかってるけど、〈言葉〉を選べば問題ないでしょ?」っていうようなこと…?


昨日の記事で、「もっと遊び心を発揮して、新しい言葉をつくってもいい」と書いた。
言葉遣いなどの間違いに対して、そんなに怒らなくても、というようなことも書いた。

けれど、政治家のこういう発言は全然別ものだと言いたい。
「遊び心」じゃなく、言葉を「もてあそび」、市民をバカにしている。
「間違い」などではなく、明らかに意図的にはぐらかそうとしている。

それとも、本当にわかっていないのか?
そうだとしたら、もう〈言葉〉の問題云々ではなくなる。

漢字の読み間違いは、まあいい。
けれど、権力をもつものの〈言葉〉遣いは、「乱れ」程度で表現できるものじゃない。

いわゆる「若者言葉」には眉をひそめるクセに、「政治家言葉(造語だけど)」の姑息な手段は見て見ぬふりをする。
それとも、こちらも本当にわかっていないのかな?

日本語の乱れを真剣に危惧するなら、批判すべき相手をちゃんと考えた方がいいとぼくは思うけど。

そして、そういう大人のあり方を、子どもというのはよく見ているものだ。
まさに、「人の振り見て我が振り直せ」と、刃が自分に返ってくる。


ぼくが言いたかったのは。

例えば新年の挨拶に「あけおめ」と言われても、「あけましておめでとうございます」と返す。

もしかしたら、子どもたちには言い直させるかもしれないなぁ。
でも、基本は相手に「言い方がなっとらん」とは言わないでおこう。
そういうことを言う人がダメだ、と言うわけじゃない、むしろそれはある意味ありがたい存在なんだろうと思う。
(ちなみに、ぼく個人は別に「あけおめ」はキライじゃない)


「言葉」は大切にしたい。
けれど、その想いを人に押し付けるのは、やり方としてあまりうまくないかな、って。
個人的にはそう思う。

言葉遣いのステキな人がいたら、そんな風になりたいと、そっちの連鎖を起こしたい。
若いときなんかは反発もしたくなるし、簡単に変わるわけじゃないけど。


ひとつ、たぶん重要なことを書き忘れていた。
「遊び」ってのはある意味、「命懸け」なんだと思う。
言葉で「遊ぶ」ってことは、伝える相手に、そして「言葉」そのものに、敬意をもてるかどうか。

こんなことに「命懸け」だなんて、それこそ〈言葉〉を軽んじてると思う人もいるだろう。
そうかもしれない。
ただ、それに関してはあくまでも自分自身の問題だ。
ぼくが「命懸け」をどう定義しているのか、そしてどう行動するのか。


権力者は、〈言葉〉ひとつで人の命や国の行く末を左右しかねない。
そういう意識と覚悟は、やはりもっていてもらいたい。

だから、言葉が上滑りしたような答弁ばかりの国会は、うんざりする。
でもだからこそ、そこから目をそむけたくはない。

言うまでもなく、「言葉は刃物と同じ」。
便利な道具にもなるし、殺傷能力のある武器にもなる。
結局のところ、使い手のあり方が問われる。

と書いてみたものの、かえってわかりにくくなってしまった…。
刃物を使わない人からしてみたら、「怖い」印象ばかりが強調されてしまうだろうな。

肥後守で鉛筆を削らなくなった現代、同じように〈言葉〉もだいぶ追いやられているのかもしれない。
それをどう取り戻すのか。



とまあ、補足のはずなのに、ますます収拾がつかなくなってしまった。
それだけ簡単な、単純な問題じゃないってことではある。

とにかく、こんなことを念頭に置きつつ、「ABCのためのD」で言葉ひとつひとつに再注目していけたらと思っている。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん