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一昨日(2017.2.9)は京都へ。
誠光社でのビブリオトークが第一の目的、でも行くからには他もいろいろ廻りたい。
ラッキーなことに、見たかった写真展が期間中だったので行くことができた。
(ビブリオトーク等は、また機会があれば別のときに)
以前、このブログにもちょこっと書いた、フォトグラファーのオザキマサキさん。
彼の写真展が京都のギャラリーヒルゲートで、明日までの開催。
「オザキ マサキ 写真展 没後1年、京都で初女さんに会う。」
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前回、前々回の投稿にも関連するかもしれないけど、言葉にはある種の〈力〉がある。
でもだからこそ、「数打ちゃ当たる」ようなものではない、それはたぶん誰もがそう感じているはずだ。
それを踏まえても、やはりひとつの言葉が「発散する〈力〉」というのは、かなりのエネルギー量だと思う。
例えば、何か氣に食わないことがあって、それを誰かに愚痴ったとする。
それで一見、その本人は「発散」された氣がするだろう。
けれど、本当にそうなのか。
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オザキさんは寡黙、というわけでもないが、ぼくみたいにベラベラ喋るでもない。
写真についても、聞いた話によればシャッター音が邪魔になるんじゃないかと、最小限しか撮らなかった、と。
それは古いモデルのカメラで、シャッター音はうるさくも不快でもない、それでもそうしたと聞いた覚えがある。
例えるなら、小川の水を掬おうと手を伸ばす。
それがその小川の流れに致命的な作用となってしまうかもしれない、それを最小限に抑えようと、そっと掬う。
オザキさんの写真の一枚一枚に、表面的ではないそんな「優しさ」を感じる。
だから、当たり前だけど、写真一枚一枚がベラベラと語るような感じはしない。
流れの瞬間を切り取っていないから、その掬った一枚一枚にはまだその流れが続いているように思える。
実際、オザキさんとお話して、その中で何度かの沈黙の時間があったけど、それが妙に心地よかった。
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彼はそこに「いるようで、いない」/「いないようで、いる」。
仏教でいうところの「小我」に全くとらわれていない、そんな感じがする。
(何だか字面で見るとイマイチな感じだが、自分にとっては「褒め言葉」のつもり)
「無我」という言葉もあるが、それに近いのかもしれない。
正確に認識していないので違うかもしれないけど。
そうすると、「我」というものの定義を改めて考えてみたくなる。
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写真でここまで心を揺さぶられることって、ぼくは今までそんなになかったかもしれない。
佐藤初女さんのことも以前から聞いて知ってはいたのに、ぼくはこれまで氣もちが向くことがなかった。
けれど、それはそれで自分にとってはよかったなと思う。
オザキさんの、そこに「ないようで、いる」視点から佐藤初女さんと〈出会う〉ことができた、その方がぼくにはよかった、と。
もちろん、ご本人にお会いできる機会があれば、その方がよかったのだろうけど。
こういうことは特に、うまく伝えるなんてムリな話かもしれない。
オザキマサキさんの写真、実際に見てもらえたらと思う。
せれんでぃっぽ☆とむやん