とむやんの氣まぐれ雑想記

〈探幸王〉を目指して、さまざまな想いを綴ります☆

失恋状態ってなんなんだ?


ひと月以上前だけど、友人の家での【ABC】に参加してきた。
(【ABC】については、こちら↓)

ブックカフェ「ABC」☆ - とむやんの氣まぐれ雑想記


オルタナティヴ・ブック・カフェ【ABC】」なのに、最後までほとんど「本」が登場しないという、まさかの展開。
参加者が少人数で顔見知り同士だったからか、最初からアクセル全開な感じだし。
まあ、それはそれでかなりおもしろかった。

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参加してくれた友人が放った、「オレは常に《失恋状態》」という言葉。
これが全員に、小魚の骨が喉に刺さったように、残る。

しかも、当の本人はそれ以上うまく言葉で表せないという。
だから、各々が思い浮かべるイメージが、どこが同じでどこが違うのかも定かでない。

けれど、かえってそれがまた興味深い。

判然としないのに、それでも「わかるなぁ」と思える何かがある。
そして、それをもう少しクリアにしたくて、今日もまたあれこれ考えている。



《失恋状態》とは、なかなか「言い得て妙」だ。
これは単純に、「恋愛」に関することに限らない(はずだ)。

そもそも、「恋愛」というものの境界線が、実ははっきりしないのではないか。
例えば、一目惚れで買ったギターを大切にする感情は、恋愛のそれと絶対的に違うとは言い切れない氣がする。

だからこそ、「仕事と私、どっちが大事なの?」なんて、何だか古いドラマに登場しそうなセリフが存在するんじゃないのか?なんて、ふと思ったり。
それは単に「混同してるだけ」との反論もあるだろうが、やはり境がわかるようでわからないものなんだろう。

そう言えば、「一目惚れ」だって「絶対信じない」という人もいる。
それをれっきとした「恋愛」だと信じる人との間に、どうしても「壁」がある。
つまり、恋愛の境界線は人それぞれ、共通する「正解」なんてない、と言える。


そう考えると、《失恋状態》とは単なる比喩ではない、ということに氣付く。
対象が、友人であったり肉親であったり、本だったり仕事だったりもするだろう。
相手が人とも限らず、目に見えるものとも限らない。

そんな風に考えると、ますますおもしろくなるけれど、どんどんわからなくもなる。



さて、一度立ち戻ってみよう。

《失恋状態》って、要は「想いが果たされない、やるせなさ」かな、と定義してみる。
じゃあ、その「想い」って?
それをここで書くと長くなるので(実際書いていたら収集つかなくなったので、二つに分けた)、続きものにしてみる。


それで、これもふと思い付いたことがあって、それだけ書き残して今回はとりあえず終わりにしよう。


逆に、「想いが果たされる」とはどういうことなのか?
その点、恋愛ならわかりやすい、ように見える。

相手も、自分と同じような「想い」をもっていてくれたなら、それは失恋にはならないはず。
もっとも、伝えなければ《失恋状態》にもならない代わりに、「両想い」にもならない。

じゃあ、その「両想い」ってなんなんだ?
異性が相手の話なら、実際の細かいすれ違いは置いておくとして、「お互いが好意を寄せていて、そのことが確認できている」状態なんだろうと思う。
お互いが「何となく好きでいてくれているんだろうな」という「両想い」もあるのだろうけど、それだって何かしらの表現行為がないと、なりたちにくい。

特に女性は、それを確認したがるものだ。
それもそうだろう、当然「氣変わり」することはあるわけだし、疑い出せばどんどん不安になってくる。

けれど、その「氣変わり」は当然自分にもあることを忘れてはいけない。
ところが、その自分に対する確認が、案外なかったりする。


自分がどれだけの「想い」をもっていたのか。
例えば、あんなに好きだったのに、振り返ってみれば自分でも不思議なくらい、なぜだったかわからない、なんてことがよくある。
相手がどう想ってくれるか以上に、自分の想いの変化に自分が追い付かないとき。
それって実は、結構手痛い《失恋》なんじゃないか、と思えてくる。

その「想い」だけが、自分のコントロール下にあるはずのものなのに、そこが揺らいじゃうと、次に何かするときに二の足を踏んでしまう。



そもそも、このときの【ABC】は、「さびしさからはじめよう」をテーマにしていた。

《失恋状態》を「想いが果たされない、やるせなさ」と定義してみたけど。
ここまでくれば、実は対象が問題なのではなくて、自分自身の問題なんだと氣付くはずだ。
つまり、自分の中のさびしさや孤独に向き合い、それとうまく付き合うことができなければ、いつまでも自分に裏切られることになる。
それが究極的に言えば、《失恋状態》なんだろうと、ぼくには感じられた。

対象を通して、結局自分自身を見つめ直したりしていく。
もしそこを起点としなければ、他人の評価でしか動けない、そんな風になりかねない。
そうなれば、着る服のテイストや好みの音楽を相手の趣味に合わせてコロコロ変えるようになってしまったりして。
影響されて心からそれが好きになったのなら問題はないだろうけど、ただ氣に入られようとするだけなら、もうその時点で自分自身への裏切りが始まっているとも言える。


《失恋状態》と表現した友人は、「オレはこんなもんじゃない、もっとすごいんだ」という想いがどこかにあるんじゃないか?
実際、その不完全燃焼っぽさが漂っているし、傍から見ても「そうだよ、まだまだすごい可能性が掘れば出てくるよ」と思う。
彼に会ったぼくの周りの人の多くが、実際そんなようなことを誰もが口にする。

実は今日、その友人の誕生日なのだ。
彼はこれから、ますます花開くだろうし、もうそのスタートを切っているのは感じている。

今回の記事が、彼への何かしらのエールになれば、それがぼくなりの誕生日プレゼントになるのかなとも思うし、まあそれはどちらでもいいことだ。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん