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今のぼくは、「議論」というものを求めていない。
もちろんそれは、やりたい人同士でやる分には、全然問題ない。
(その辺のことは以前にも書いたことがあるけど↓)
このブログでもそうだけど、もし違うと思われるなら、それはそれで仕方がない。
以前は言葉の食い違いなどを整理して、説明しようと努力したこともある。
ぼくはそれを「議論」のつもりではなく、「すれ違いの修正」のように考えていた。
でも、相手はそれを「議論」として必要とし、どんどん違いを強調していく。
つまり、自分の方が正しいと主張したいだけ、そういうことが多かった。
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ぼくが今、したいと思うのは「対話」なんだと思う。
単なる言葉の違い、ってわけでもない。
前回も書いたけど、「ディスカッション〈discussion〉」の語源は「打ち砕く」という意味のラテン語らしい。
対話の「ダイアログdialogue」は、ギリシャ語(dialogos)が語源。
diaは「~を通して」、 logosは「言葉」。
言葉を通して、二人以上が共通の話をすること。
もっと言えば「たわいない会話」や「雑談」。
けれど、だからこそ交わされる深刻なことも、かえって向き合うことができる。
調べていたら、『ダイアローグ 対立から共生へ、議論から対話へ』という本があるという。
やはりそういう流れが、時代的にも来ているのかもしれない。
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これからは、言葉を通してだけじゃない、例えば「音楽を通して」なら?
〈ダイアムジカdiamusica〉とでも言えばいいのだろうか?
(ディア?ダイア?調べてみたけど、それらしいのは出てこなかった)
音楽なんてまさに、対決よりも共演の方がいい。
ぼくにとっての最高の共演は、「プリンス・トラスト」という1987年に開かれたチャリティーコンサートでの、「While My Guitar Gently Weeps」。
ストラトキャスターを弾くジョージ・ハリスンと、珍しく?レスポールを弾くエリック・クラプトンの掛け合いのギターソロ。
確か高校生の頃だったか、借りたビデオで何度も何度も繰り返し見た記憶がある。
それぞれの積み重ね、音楽にしても人生にしても、そういうものがあるから出せる音、旋律。
そして、それにしがみつくのではなく、惜しげもなく音に乗せて解き放ってしまう、そんな感じがする。
もちろんそれにはあまりにも遠く及ばないけど。
最近は友人とセッションなどをする機会が増えて、そういうときはとにかく楽しい。
先月のオーガニック&つながるマーケットでも、nanaotoの二人が「一緒にやろう」と言ってくれた。
nanaotoの曲は基本、循環コードなので合わせやすい。
音を探しながら、隙間に音を足していく。
そういうセッション的なことでなくても、みんなでワイワイとやるのは楽しい。
最近、ウクレレはレッスンよりも〈サロン〉という形でやる方が、自分には合っていると思う。
昨日(2017.3.18)もcafe salon STILLROOMでの月一のウクレレサロンがあって。
みんなで聞き合ったり一緒に弾いて歌ったり、まさに「対話」的な場だった。
ウクレレとは違う話で盛り上がったり、そこがまたいい。
お喋りでも音楽でも、料理でもそう。
「打ち負かす」理論が横行し過ぎて、「調和」に目がいかなくなる。
かと言って、「調和」を意識し過ぎるあまり、全体がボケた感じになることもある。
そこを「ああでもないこうでもない」と、〈試行錯誤〉する楽しさもあるし、ポンと一発で「これだ!」ってできちゃうことがあるのもおもしろいし。
「餅は餅屋」、そういう面は確かにある。
でも、何でも専門家に任せておけばいいという、そういう時代が変わりつつある。
プロには一目置きながら、さあ自分たちは何を楽しもう?
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〈試行錯誤〉、なるほど改めてよく見ると、すばらしい言葉だと氣付いた。
「試行」は試しに行うこと、「錯誤」は間違うこと。
まず何より、行動すること、それに尽きる。
そして、間違いがあるからこそ、新しいものが生まれる。
間違いかどうかをその都度ジャッジしていると、試すこともイヤになってしまう。
「錯誤」はニュアンスとして、「すれ違う」ことを指している。
そう言えば、「間違う」だって「間が違う」と書くんだった。
違うものは違うままでいい。
どっちがより正しいか、そんなことはっきりさせてみたところで、どんぐりの背比べにしかならないだろう。
むしろ、違いを肯定的に捉えた方が、音楽も料理もぐっとおもしろくなる。
〈試行錯誤〉に生きる。
それが傍からは〈時代錯誤〉に見えたとしても、案外すぐ時代の方が追い付いたりすることもある。
それぐらいに思ってみると、何だかますます楽しくなってきた。
せれんでぃっぽ☆とむやん