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先週の金曜日(2017.5.26)は、「月のはじまりマルシェ」へ☆
ちゃたくんとのコラボ、SLOW WALKERsでの出店。
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マルシェのことを書く前に、いきなりちょっと脱線。
というより、今回はこっちが本題かな。
前々回の「月のはじまりマルシェ」。
友人が、「ブログ見てるよ」と言ってくれて、いろいろお喋りしたときのこと。
彼女が「どうして人に伝わる文章を書けるの?」と、言ってくれた。
そもそも、ぼくの文章がどれほど伝わっているのか、自分としてはわからない。
けれど、彼女は「私には伝わってくるよ」というような、嬉しいことを言ってくれる。
もしそうだとするなら、「伝えようとがんばるのをやめてから」かな、って。
逆説的な答えだけど、ぼくはそう答えた。
それに、そもそも伝えたいから書いてるのか?というのもある。
そこを氣にしなくなってからの方が、不思議と反響的なものが大きくなった。
そしてもうひとつ、日々の暮らしの中で思ったことをできるだけ口に出してみる。
これもまた、「伝えるため」に始めたわけではないのだけど。
実はそういう習慣づけが、関係しているのかもしれない、と思い当たった。
例えば、カフェを出るときに「美味しかったです」と伝える。
友人に、「会えて嬉しいよ」と言ってみる、とか。
ムリして言うんじゃなく、ただ氣恥ずかしかったりで、なかなか言えないでいること。
些細なことかもしれないけど、それを声に出してみる。
元々、ぼくはかなり引っ込み思案だったので、とっさのときなど何も言えないことがよくあった。
挨拶やお礼を言おうとしているのに、思うように声が出なかったり。
実際に言うことは、そんなに大した言葉じゃない、かもしれない。
だけど、癖や習慣にしてしまうえば、ひとつひとつは大したことでなくても、積み重なりが「層」になっていく。
「とっさのときに言葉が出ない」という習慣から、「ことあるごとに言葉を発する」という習慣に切り替えた、と言えばいいだろうか。
〈習慣〉とは、「習うより慣れよ」というよりも、「繰り返しで慣れていくこと」という感じの方が自分にしっくりくる。
(「習」という漢字には、「繰り返し」という意味合いがある)
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それを踏まえて、逆のことも考えてみようと思う。
もし、自分の「本音」に氣付かず、普段からあまり向き合おうとしなかったら?
実際、自分の「本音」が何なのか、わからなくなっている人も多いように思う。
そしてもし、本音よりも「建前」ばかり言う人が周りに多かったとしたら?
自分も含めて、ますます「人の本音」というものがわからなくなるのでは?
「建前」ならいいけど、自分を誤魔化すための「ウソ」が常態化しているとしたら。
よく、「ウソ」が上手な人は、自分さえも「騙してしまう」という。
「ウソ」がいけないというよりも、それが常態化して、「人の本音」というものにアクセスができなくなるというのは、実はかなりの問題なのではないか。
たとえば、いわゆる「添加物」も、結局は食べる人のためを思ってのことではない。
自分たちの都合のため、と言っていい。
もちろん、それが両者にとってのメリットも、まったくないわけではない。
「添加物」というものが、「絶対的な悪」だなどと、ここでぼくは言うつもりもない。
ただ、そういう論理ばかり信じ込んでいると、ますます自分の「本音」が行方不明になってしまう。
それこそが大問題じゃないのか?と、ここで問いたい。
単純に「添加物」が身体にいいかどうかという問題だけではない。
悪意ではないにしても、相手により喜んでもらおうという意味合いとは、もう全然違ってしまっている。
それなのに、「あなたのことを思って」とか、そもそもそこに意識が向かないようにとか、本音をひた隠しにしているに過ぎない。
今の政権がそれを積極的にやっているのだから、誰もが「無関係」ではいられない話なのだけど。
「無関心」でいられたとしても、身体に「添加物」が蓄積されていくように、結局は何かしらを「引き受け」なくてはいけない。
「添加物」は別に平氣だと思う人でも、カロリーというものを氣にするかもしれない。
アレルギーのある人なら成分表を見るのは当たり前のことになるだろうし、好き嫌いの多い人も何が入っているか氣にするだろう。
要は、「何を食べされられているのか、わからない状態」なんて、誰だってイヤなはずなのに。
無関心でいたり、「ウソ」を鵜呑みにするというのは、その「わからない状態」なのだけど、それさえももう「なかった」ことにしてしまう。
そうやって、そういう「建前的な論理」に触れる機会を増やせば増やすほど、「本当に願うこと」から遠ざかってしまう。
何しろ、自分の本音がわからなくなるのだから、「本当に願うこと」が何なのかもわかりっこない。
相手を出し抜いたり騙したりしなくても、本音にちゃんと氣付ければ、願いというのは叶うものだとぼくは思っている。
そして、伝えたいと思うことも、極々自然に伝わるんじゃないだろうか。
(そこは、ぼくもまだまだ精進しているところ)
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その点、「満月マルシェ」にしても、「月のはじまりマルシェ」にしても。
こういう雰囲氣のいい場、一緒につくりあげていく感覚の中にいると、本音と言うものが出やすくなる。
自然と笑顔に溢れ、挨拶や感謝が飛び交う。
食べものに関しても、そういう不安感や猜疑心からではなく、「好奇心」からもっと知りたいと思うようになる。
関心のスイッチが入り、心も身体もどんどん開放的になっていく。
「月のはじまりマルシェ」は特にそうだと思うけど、その〈場〉と、そこに集まる〈人〉に会いに行くのが、一番の目的だったりする。
幸せな氣もちが連鎖する中で、「願いが叶う」ってことを実感できたりもする。
新月の日というのは、そもそも「願いごと」に打って付けの日。
今回、ちゃたくんが出していたのは、フレンチトースト☆
ドーナツも改良を重ねて、ますます美味しくなっている。
(↓隣のさつまいもパイは、あるぴたさんで買ったもの)
今回もマイアミ浜まで、自転車。
お客さんで来ていた方から、「野洲川で見かけました~」と。
まあ確かに、目立つよな(笑)
朝夕は肌寒いくらいだったけど、日中は暑過ぎず寒過ぎずで、とても氣もちがよかった。
こういうときの相楽くんのかき氷って、身体に染みる。
お昼はキムさんのカレー(Kim'nCurry)。
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そうそう、まだブログには書いていなかったかもしれない。
今、「満月マルシェ」に関する本を、ちゃたくんたちとつくっています。
夏頃完成の予定、また改めて紹介したいと思います。
その流れで、ハレノヒカメラさんと最近ご縁がつながりました。
ハレノヒカメラさんは、「滋賀県を中心に活動する、小さな移動写真館」。
マルシェなどに出店されたり、ワークショップなどもされているそうです。
写真がステキなのはもちろんだけど、フォトグラファーのまなみさんがとってもステキなので、お願いして写真を撮らせてもらいました♪
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楽しいことがいっぱいの、「月のはじまりマルシェ」。
実は近々お引っ越しする、という方がいて。
1月の満月マルシェでお話して、そのとき「わたし誌」のことも喋ったりして。
(そのときのこと、ちょこっと書いてます↓)
歌えば響く。 - とむやんの氣まぐれ雑想記
つながったご縁なのに、また離れてしまうのは寂しいなぁと、今でも思ったりする。
けれど、たとえばタンポポの種が遠くへ飛んでいくように、お別れというのにもちゃんと意味があると、ぼくは信じている。
そして、「また遊びに来ます」というのは社交辞令じゃなく、いつかまた会えると本氣で思っている。
いろいろな意味で、ご縁はまだつながっているから。
寂しくないと言ってしまえば、それは「ウソ」かもしれない。
けれど、また会えるのを楽しみにしてるというのは、本音であり願いでもある。
「人に伝わる文章を書くための~」なんてタイトル、ちょっと煽り過ぎかもしれない。
ここまで読んで、なんだとガッカリした方も、もしかしたらいるかもしれない。
それでもぼくは、ちょっとした〈習慣〉によって、毎日が楽しいことだらけになった。
それをただ、独り善がりかもと思いつつも、あまり氣にせずに文章を書いてきた。
もし、伝えたいことがあるとしたら、それは「人生ってこんなにすばらしいよ」ってことなのかもしれない。
かといって、肩に力の入った前のめり状態かと言えば、そんなことはない。
それはちょっとした「氣のもちよう」だけで、ガラリと変わってしまうってこと。
それを信じるか、ちょっとは氣になって実験的にやってみるか、それはもちろんあなたの自由。
けれど、昔の自分がそうだったように、もしこういう話をきっかけに違う生き方にもチャレンジしてみようと思う人がいたなら、それはとても嬉しい。
せれんでぃっぽ☆とむやん