とむやんの氣まぐれ雑想記

“探幸王”を目指して、さまざまな想いを綴ります☆

〈依怙贔屓〉社会。

トピック「共謀罪」について



共謀罪」の趣旨を盛り込んだ改正組織犯罪処罰法の成立について。
安倍晋三首相は今月15日、「国会審議を踏まえ、国民の生命、財産を守るため適切に、効果的に運用していきたい」と述べたそうだ。

ここで言う、「国民」とは誰のことなんだろう?

共謀罪」に反対しない人というのは、自分がその「国民」に間違いなく含まれていると、信じているのだろう。
ある日突然、その「枠」からはみ出してしまうなんて、想像すらしないはずだ。

でも、ここ最近の安倍政権を見ていて、「身内に甘い」と感じないだろうか?
つまり、やたらと〈依怙贔屓〉をするってこと。
(「えこひいき」って、こういう漢字なのかぁ、敢えて使ってみる)


たとえば、安倍政権や与党の方々が、自分の上司だったらと考えてみたらどうだろう?

〈依怙贔屓〉をする先生や上司って、昔からいたし、当然嫌われていた。
けれど、自分が「依怙贔屓される側」だとしたら、もしかしたらまったく氣にならないのかもしれない。

そういう人は、自分が〈依怙贔屓〉から「除外」されたという苦い経験は、ないのだろうか?
もしかしたら、常に〈依怙贔屓〉されるように、「がんばって」るのかもしれない。


マスコミもネット住民も、与党などにはどうも「甘い」。
逆に、野党に関してはやけに辛口で、そのことにさえ自分で氣付くこともできない。

それもまた、〈依怙贔屓〉なのだということに。


そしてそれって、いわゆる〈ダブルスタンダード〉ってやつじゃないのかな。

つまり、〈依怙贔屓〉社会を目指したいのだろうか。
ぼくにはそう思えてならない。



内心の自由が脅かされるとの懸念に対し、「犯罪成立要件は明確で厳格になっており、恣意的に運用されることはない。懸念は当たらない」と、官房長官が答えていた。

〈恣意的〉とは、思い付きや自分勝手ではない、ということ。

今後、「不当な検挙」などがあったとしても、「恣意的な運用ではない」「その指摘は当たらない」と答えるだろうことは、火を見るよりも明らかだ。

「恣意的な運用ではない」というのは、奇しくも「内心の自由」の〈ダブルスタンダード〉を表してくれている。
つまり、「身内」や「お友だち」には「恣意的ではない」といい、排除したい相手に対しては、「意識的な行為」だと断定する。

〈恣意的〉かどうかなんて、どっちにしても証明がむずかしいのだ。
「内心」って、「はい、どうぞ」と言って、見せられるものではないのだから。

もしくは、そこを見せられるとしても、結果「プライバシー」にまでドカドカと踏み込まれてしまう。

本当に、そういう社会で暮らしたいの?



かつて、この国が戦争へとひた走る、その流れに抵抗した人もたくさんいた。
そして、その人たちは徹底的に「弾圧」された。

一方で、国や戦争を賛美していれば、一応「依怙贔屓される側」でいられた。
だから、抗うよりも懐柔されることを選んだ人も多かった。

その人たちを責めることは、簡単かもしれない。
でも、今この状況になってみれば、その段になってから責めてみても、遅いかもしれないと思う。


共謀罪」は「現代の治安維持法」だとの指摘は、決して「思い違い」などではない。
前回も書いたけど、時代背景が変わろうが、人の辿る歴史というのは似通ってしまうところがある。

だからこそ、そこから学んで、「同じ轍」を踏まないことが重要なのではないのか。
その「轍」は、「この道しかない」というその「道」に、くっきりと跡がついているように思える。

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ぼくは〈依怙贔屓〉社会なんて、まっぴらごめんだ。
横暴でめちゃくちゃな〈依怙贔屓〉政権を交代させ、「共謀罪」法を廃止したい。

その上で、次世代にはもっとワクワクする社会を、「お返し」したいと思う。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん

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