とむやんの氣まぐれ雑想記

“探幸王”を目指して、さまざまな想いを綴ります☆

もしもこの世界が、善人と悪人にきっぱりと割り振れるなら。


もしも世の中が、善人と悪人にきっぱりと割り振れるなら。
善人は生まれたときから善人で、悪人はどう転んでも悪人のままなのだとしたら。

映画やマンガを見ていると、そこまではっきりとではないにしても、わかりやすく割り振られていることって、結構ある。

子ども向けの単純なものだったりしたら、善玉と悪玉はかなりきっぱりと分かれる。
(別に子ども向けのものを蔑んでいるわけではない、念のため)


例えば、ぼくは「トランスフォーマー」というアニメが大好きだった。
善玉であるサイバトロン(Autobots)と悪玉であるデストロン(Decepticons)は、ご丁寧にもそれぞれのロボットにエンブレムまで付いている。

2007年の映画も観たのだけど、こういうものにストーリーを期待するべきじゃないとわかっていながら、あまりにひどくてガッカリした記憶がある。
(どうガッカリしたかは全く憶えていない)
まあ、「勧善懲悪」はわかりやすい分、リアリティからはかけ離れてしまいがち。

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いや、でもちょっと待って。
もしかしたら、そんな「勧善懲悪」の世界観を本氣で信じている人って、実は多いのかもしれない。

さすがに、エンブレムが付いていたりとか、表面的にそれがわかるとまでは思っていないだろうけど。
でも、案外その「まさか」、なのかもしれない。

日本人は自分も含め「善人」なのであって、悪人と思える人には「サヨクかザイニチか」などと言う。
もしくは、「反日」という言葉によって、エンブレムで分けたいのかもしれない。

ちょっとざっくりと言い過ぎかもしれないが、レイシスト選民思想ってのはそういうところにつながっているんじゃないだろうか。

「私は日本人」→「日本人は素晴らしい民族だ」→「だから私は素晴らしい」
本氣でそんな論法を信じているのだろうか、でもそうとしか思えなかったりする。

日本人は素晴らしいというのは、それ自体はもちろん悪いわけではない。
けれど、どうして他の民族と比べたり、貶めるようなことを言わなければいけないのか、理解に苦しむ。

そうでもしないと素晴らしさが証明できないと思っているのだろうか?


「私が正しいと言ってるのだから、正しい」。
「悪人が言ってることだから正しくない」。

嘘みたいな話だけど、こういう論理がまかり通るようになるのか。


なんというか、別に意見の合わない人とまで「仲よくしろ」とは思わない。

意見が違ったり、主義主張がまるで逆だとしても、それで「敵対」する必要はない。
そういう場合でも相手の意見に耳を傾けてみる、そんなスタンスでいたいとは思っている。

けれど、それが「誹謗中傷」の類のものなら、相手にしなくていい。
むしろ、相手にするべきではない、と思う。

それは、「誹謗中傷」だとレッテルを貼るとか、そういうことではない。
前半に書いたことの逆をやっているわけではない。

もちろん、その可能性には留意する必要がある。

たとえば、相手がとても差別的だと思ったとしても、「レイシストだ!」と糾弾することが、果たしていいのかどうか。
それだと結局、「同じ穴の狢」でしかないのかもしれない。

ただし、その相手が権力者だとすれば、ちょっと違ってくる。
それでも言い方には氣を付けるべきだと思うけど、いずれにしてもそれが「人格攻撃」になってはいけないと思う。

そこは、右も左も関係ない。
「人格攻撃」は初めから「対話」を拒否しているし、論点をすり替えているだけだ。

何よりも、人格を「裁く」ことなど、誰もやっていいはずがない。


この世の中は、善人と悪人にきっぱりと割り振ったりは、残念ながらできない。
相手を悪人だと決めつけること自体が、「人格攻撃」の一手になりうることを、忘れてはいけないのだと思う。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん