今週のお題「お花見」
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今回は、お題。
だけど、関係あるのかないのか、自分でもよくわかりません。
とりあえず、書いてみることにします。
友人で「はてなブログ」仲間、「かやつり草」のブログ。
ぼくも以前、〈個活〉について書きましたが。
それが上の記事とリンクするのかしないのか、本人と喋ってみたいところだけど。
それから、以前ブックカフェイベントで、「さびしさからはじめよう」をテーマにしたことがありました。
(↑そういや、この続きをまだ書いてない氣がする…)
あのあたりから、ずっと〈孤独〉はぼくにとっての大きなテーマ。
そして、〈孤独〉とうまく付き合うことこそ、「成功のカギ」だったりするみたいで。
おもしろいことに、一時期どの本を見ても〈孤独〉について書かれていたりして。
「さびしさ」というのは、実は原動力の素。
これもまた、改めてちゃんと書いてみたいな。
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かやつり草のブログで書かれた「1で動く」ということを自分なりに考えてみると。
と言うか、ちょうど同じタイミングで似たようなことを考えていたところなのです。
なぜかと言うと、桜の季節、だから。
桜の花って、ひとつひとつはとても小さい。
桜って、ひとつの蕾から複数の花を咲かせるんだそう。
その花の数を数えることで、「健康診断」ができるのだとか。
「ウェザーニュース」の「花数調査」によると。
ソメイヨシノの場合、花の個数が6個以上は「とっても健康」、3個以下は「お疲れモード」。
その桜の木が並んでいたりすると、ますます見事ですね。
今日(2018.4.3)はだいぶ散っていましたが、それはそれで風情があります。
「お花見」のあり方は人それぞれなので、あれこれ言うのは無粋なのでしょうけど。
まあ、ひとつの「見方」として、話半分で読んでもらえればと思います。
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せっかく「お花見」をするなら、もっと桜にあやかってみてもいいのかなって。
何かにチャレンジするとき、ひとつひとつはとても小さくて儚げでもいい。
それがすぐに散ってしまっても、また同じように小さく、でもたくさん花をつければいい。
どうも、「桜の花のように」なんて言うと、散り際ばかりがフォーカスされるようですが。
桜のように1年待たなくてもいいけど、何度もチャレンジできるって捉え方はあまりされない。
ましてや、「命を散らす」ことを美徳として、散る桜と重ね合わせるなんて。
花が散っても、また何度も咲かせればいい。
そして、ひとりが咲かせる花は小さいものだとしても、想いを共有したら満開の桜のようになる。
だけど、不思議なのは。
「お花見」に来ている人たちには、その満開の桜のような美しさや力強さは感じられない。
桜を見に来た人たちが、その桜の花のようであったらいいのになぁと、そんなことを思ってしまう。
(もちろん、そうでない人もいるのでしょうけど)
まあ、それはどちらでもいい。
春はどんな花も美しく、力強い。
そこからいろいろなパワーを受け取らせてもらう。
やっぱり案の定、全然まとまりがないですが。
自分たちもまた、花のように生きることができるのだと。
一度散ったぐらいではまだまだ、「今」を起点に何度でも咲くんだと。
桜や小さい花を見ては、そんなことを思ったり思わなかったり、そんな春の訪れを楽しんでいる今日この頃です。
せれんでぃっぽ☆とむやん