とむやんの氣まぐれ雑想記

〈探幸王〉を目指して、さまざまな想いを綴ります☆

「報われない」と感じたときに、やってみること。


猛烈な〈報われない感〉に襲われるとき。


例えば、「人の評価にばかり氣にしてしまう」のが大きな原因かもしれません。

本当に自分がやりたいこと、好きなことに向かっているのかどうか。
本当にワクワクすることをしていたら、他人の評価(それが批判であっても称賛であっても)はほとんど氣にならないのだと思います。

本当はイヤなことなのに、「やらなければならない」と自分に課していたり。
いつの間にか少しずつ、目的や目的地が変わってしまっていたり。

人からどう言われるか、嫌われていないかどうかで動くのだとすれば。
それは、自分の舵から手を放してしまうようなもの。


それともうひとつは、「与えること」に不安があるから、かもしれません。

「自分はこんなにやっているのに」とか、「私ばっかりが損している」というときに限って、自分も同じように「与える」マインドになっていない。

「与えること」が充分にできていないと、その逆の「受け取ること」に躊躇してしまうもの。

「呼吸」などを例に考えると、よくわかると思います。
しっかり吐き出すと、自然と息を大きく吸える。



とまあ、分析的なことを書いてみましたが。
いわゆる「五月病」なのか、ココロもカラダも何だかアンバランス。

このブログ記事自体も、書く氣が起きずに何日も下書きのままでした(笑)


そんなとき、畑に行くとかなりリフレッシュできます。

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先週の話なので、今はもう採り切ってしまったのですが。
うちの畑でも、今年もエンドウ豆がたくさん採れました。

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風の強い日に、支柱ごと倒れてしまったりして。
それでも結構な収穫量がありました。

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植物からは、「与えること」とはどういうことか、学ぶことがたくさんあるように思います。

もちろん、植物からしたら「与えている」つもりはないのかもしれません。
でも、実はそこまでお見通しで、「与えること」によって自分たちの繫殖繁栄に協力させているんじゃないか。
そんな風に最近は感じたりします。

だからと言って当然、傲慢に「受け取って」いいわけではありません。
そこは謙虚さが必要なのだと思います。

先日も、「捧げる」ということについて改めて考える機会がありました。
(そのことはまた改めて)



今回、エンドウ豆は煮ものに使ったり、ピクルスっぽくしたり。
美味しくいただきました。

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そうそう、話はちょっと脱線しますが。
つい最近、「タイガー・ウッズ方式」というものを知りました。

プロゴルファーのタイガー・ウッズは、プレーオフのとき。
相手がそのパットを外せば自分が優勝、というときにも「入れ」と心の中で念じるんだそうです。

ライバルがパットを外して、ウッズが優勝したときの動画を見たら。
外した瞬間に、本当にガッカリした顔をしていました。


「報われない」と感じるときは。
タイガー・ウッズのように、「ライバルの成功も願う」マインドが必要なのでしょう。

そういう風に切り替えたいときにこそ、「土をいじる」とか「料理をするとか」。
そういうことが案外、〈特効薬〉になるんじゃないか、そんなことを考えている今日この頃です。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん