前回の記事、fbの方でいろいろとコメントをいただきました。
ありがとうございます。
そう言えば、以前にも↓こんなことを書いていました。
その中で、「「くれない夜叉」歴がずいぶんと長かったぼくも、ようやく卒業できそうな感じ」と書いているのですが。
ちなみに、「くれない夜叉」とは。
あれして「くれない」これして「くれない」と、報われない感に苛まれている状態を表す造語です。
冒頭にも書いた「かけた情けは水に流し、受けた恩は石に刻む」。
言い方はさまざまですが、同じような言葉がたくさんあるようです。
〈へいわのじかん〉で「パートナーシップ」の話をしたときにも。
夫婦間でもよくあることですが、自分のしたことにはすぐ「ポイント加算」するのに。
相手がしてくれたことには難癖付けて、ノーカウントにしてしまうとか。
何だか、一昔前のプロレスの「悪徳レフリー」みたいですよね(笑)
3カウントを遅らせたり、反則技を見て見ぬふりしたり。
(まあ、今の政府がまさにこの状態ですけど)
最初の時点で、「人のために」と思っているときほど、なぜか後になって「これだけやってあげたのに」となってしまいがち。
いろいろなところで既に言われていることですが、「人の為(ため)」は「偽(いつわり)」なんですよね。
だから、最初から「自分のために」やればいい。
自分が受けた恩を返すためなのだから、見返りを期待することもない。
不思議なもので、「自分さえよければいい」という考え方がどこかにあるときほど、「人のため」とか言ってしまうんでしょう。
だからなのか、人に「こうしてほしい」とか「そんなことをしないでほしい」と言う人ほど、その逆を自分はやっていたりする。
まずは、恩を受けていることを知ること。
それを心に刻んで、それを返すことに喜びを見出すこと。
返す相手は必ずしも恩を受けた相手でなくてもいい(pay it forwardなど)。
返し方も、実はそんなに難しくない(例えば、「無財の七施」など)。
「恩知らず」でいることは、実は結構つらいこと。
もしくは、だからこそますます「報われない」のでしょう。
(ゲーテの名言に「忘恩はつねに一種の弱さである。わたしは有能な人たちが恩知らずであった例を知らない。」というのがあるそうです)
★
さて、今日(2018.5.31)書きたかったのは、別のこと。
もうすぐ梅雨入り、しかも今年はちょっと早そうです。
車も免許もないぼくにとっては、引きこもりになりがちな時期ですが。
こういうときこそ、「歩く」にはいい機会です。
walking distance。 - とむやんの氣まぐれ雑想記
先週、いつものカフェSTILLROOMに行った後。
Cafe con Miel/ハチミツ入りのカフェラテ
帰りはちょっと寄り道しながら、家に帰りました。
途中、工場の花壇にある草木がとても綺麗だったので、観察したり。
写真も撮らせてもらいました。
いつも当たり前に通り過ぎる場所も、雨の日だからこその楽しみがありました。
土手のいわゆる「雑草」も、いつも以上に美しく見えます。
「雑」って元々、多種のあつまりを表す漢字。
「多様性」の大切さって、特に最近見直されてきていると思います。
「雑」をいい意味で使いたいな、と思ったのは環境運動家の辻信一さんの著書の影響。
このブログも、「雑想記」という名前にしたのはそういう意図があってのこと。
fbでいただいたコメントに、こんなことが書かれていました。
「私は毎日お庭の草とコケと、自分時間の朝の10分を過ごしています」
「雑草ったって、綺麗やん可愛いやんと、独り言発しながら」
雑草に綺麗だね可愛いねと声を掛ける。
「無財の七施」の、「眼施」と「言辞施」と言ったところでしょうか。
「くれない夜叉」は本当にもう終わりにして。
「偽り」ではない恩返しを楽しんでいきたいな、と改めて肝に銘じているところです。
せれんでぃっぽ☆とむやん