とむやんの氣まぐれ雑想記

〈探幸王〉を目指して、さまざまな想いを綴ります☆

66で11。


昨日6月6日は、長男の誕生日。
11歳になりました。

長男の誕生日に思うこと。 - とむやんの氣まぐれ雑想記
(↑2016年、9歳になったとき)

十年一昔。 - とむやんの氣まぐれ雑想記
(↑昨年、10歳になったとき)



話は逸れるけど、ぼくはあまり子どものときのことを憶えていないんです。
本当にちょこっとした断片的なことぐらい。
それも、小学校5年生より前のことってほとんど記憶にない。

あの頃、出たばかりのファミコンを友だちの家で見て、羨ましくて。
一方で、ボードゲームにハマっていて、自分でもつくったりしていました。

後に、テレビゲームにどっぷりハマって、抜け出すのが大変だったり。
今でもまだ「笑い話」にはなってない、かも?

ゲームという「沼」。 - とむやんの氣まぐれ雑想記


動物が好きで、『ドリトル先生』のシリーズや『シートン動物記』を読んでいたのもこの頃だったはず。
けれど、それ以外の本はほとんど読んだことがなく、マンガも『ドラえもん』しか興味がなかった。

そう言えば、『トランスフォーマー』にハマっていたのもこの頃。
たぶん全体的に、嗜好は幼かったんじゃないかなぁ。

そして、今とは性格も全然ちがう、だいぶネガティブな子ども時代でした。



なんでこんなことを振り返ってみたかと言えば。

11歳ともなると、やはり自分の11歳の頃を投影してみてしまうところがあるから。
でも、以前が友人が言っていて、「本当にそうだなぁ」と思ったことがあって。

友人は子どもにはいつも、「親の期待を裏切れ」と言っていたんだそう。

親って、なんだかんだ〈期待〉をしてしまうもの。
〈期待〉そのものは悪いことではないのでしょうけど。
それが、自分自身の〈期待〉を子どもに押し付けているだけだとしたら。

作詞家の秋元康さんの言葉。
「子育ってって、親のリベンジになったらダメ」
例えば、親が甲子園行けなかった父親が、俺の代わりにお前が行ってくれ、とか。

言葉に長けている人だけあって、これもまた「そうだなぁ」と。

言うまでもなく、その子の人生はその子のもの。
そして、10歳ぐらいからいろいろ変わってきたなぁと思います。
長男を見ていても、そして自分を振り返っても。


自分の子ども時代は、すごく狭い世界で生きていたよな、って。
10歳まではむしろ、それでいいのかもしれません。

でも、10歳を超えてくると、親との関係も変わります。
世界との関わり方自体が激変するように思います。


だから、親の〈観念〉を超えて、多様な世界観をもってほしい。
それもある意味、「親のリベンジ」なのかもしれませんが、それとは真逆のベクトルのようにぼくは捉えています。

そう思いながらも、なんだかんだで押し付けてしまうから、友人のように「「親の期待を裏切れ」と言っておくのがいいのでしょうね。



ちなみに、今日6月7日は妻メイコの誕生日。

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長男の誕生日も、お祝いは合わせて週末に、の予定ですが。

何もないのもどうかと思って、急遽守山のWABARA caféに行ってきました。
ワンオーダーに付き、和バラが一輪もらえるのです。
(写真はもらったものではなく、テーブルの一輪挿し)

昨日も、母が送ってきてくれた「家音 -kaon-」さんのスイーツでお茶しました。

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以前、「嬉しいことがあって」と続きを書くつもりが。
前置きのまま、一年以上経ってしまいました。

カフェ・ド・アクタのこと。 - とむやんの氣まぐれ雑想記


「家音 -kaon-」さんのことは、またちゃんと改めて書きたいと思います、今度こそ。

今回、古代小麦アインコーンを使ったヒルデガルトの「喜びのビスケット」ビーガンバージョンの試作品もあって。
これ、ちょっとどう形容していいかわからないのですが、一枚でこんなに満足するビスケットってなかったかも、と。


そう言えば、先日長男がふとこんなことを言っていました。

いただいた市販のお菓子を、ぼくが食べていたときのこと。
(長男は前日に食べていたので、そのときは見ていただけ)

前後、どういう話の流れだったか、忘れましたが。
「そうか、ぼくは普段かなりいいもの、美味しいものを食べているんだな」って。
そんなようなことを言い出して。

妻と二人、「そうだよ~」と言いながら。
内心では、そこに氣付いてくれたことが妙に嬉しかったな。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん