とむやんの氣まぐれ雑想記

〈探幸王〉を目指して、さまざまな想いを綴ります☆

がんばっても克服できないこと。


はぁ、もう限界。

特に2週間前は、「身も心もボロボロ」って感じでした。

おかげさまで先週、向町カフェでのライブイベントを終えることができて。
その後、余韻に浸る暇はなかったけど、今はとにかくちょっと落ち着きました。


とは言え、今日(2019.4.29)は愚痴と弱音のオンパレードになるかもしれません。



引っ越しをして、もうすぐ3ヶ月。
新学期を迎えて、慣れないことが一氣に押し寄せてきて。


滋賀での生活に慣れ親しんでいたから、自分でもすっかり忘れていたのですが。

新しい環境に置かれての、人とのコミュニケーションが、ぼくは本当に苦手です。
「苦手」と言うか、「がんばったら克服できる」ものではないのだと思います。
少なくとも、短期間ではムリ。


これまで、ライブや司会なんかをしていたので、「ウソでしょ?」と言われます。
でも、小学生の頃はクラスでの発表さえできなかったときもありました。

だから自分でも、どうしてできるようになったのか、不思議に思ったりもします。
今はステージとかで喋ったり歌ったりしても、そんなには緊張しません。

まあ、1000人規模とかになったら、また全然違うのかもしれませんけど。


だけど一方で、ちょっとしたことができなかったりします。
たとえば、「道に迷ったときに人に尋ねる」とかも、すごく苦手。



ちゃんと診断を受けたことはないのですが。
ぼくは、「自閉症スペクトラム」やその二次的障害があるようです。

そのこと自体は、自覚的であったつもりでした。
でも、冒頭に書いたように、すっかり失念していたのです。

もう大丈夫、と思い込んでいました。


思い返せば、滋賀に移り住んでからの2~3年は、実は結構しんどかった。
それを忘れていた、というよりは、忘れようとしていたのかもしれません。

実際、「大丈夫になった」のだって、自分の力ではなかったのだろうと思います。
たくさんの助けがあったおかげだということ、そんな大切なことを忘れるなんて。


先日、東京大学入学式の上野千鶴子さんによる祝辞を読みました。
賛否両論、いろいろ話題になりましたが、ぼくは以下の部分が特に印象に残りました。


 【あなたたちはがんばれば報われる、と思ってここまで来たはずです。】
 【ですが(中略)、がんばってもそれが公正に報われない社会があなたたちを待って  います。】

 【そしてがんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの
 努力の成果ではなく、環境のおかげだったことを忘れないようにしてください。】
 【これまであなたたちの周囲の環境が、あなたたちを励まし、背中を押し、手を持っ
 てひきあげ、やりとげたことを評価してほめてくれたからこそです。】

平成31年度東京大学学部入学式 祝辞 | 東京大学



ほんと、そうだなぁとつくづく思いました。
そう、まさにそのことを忘れていたんだなぁ。

「ここまでよくがんばってきたね」と、自分に言ってあげることも大事かもしれない。
だけど、上野千鶴子さんの仰るように、【あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください】ってこと。

「自分が努力してきたからだ」という傲慢さ、それは〈ひとり勝ち〉の論理。
人を見下すか、自分を卑下するか、対等なコミュニケーションからどんどんかけ離れてしまうのかも。

自分の「克服できないこと」から目をそむけていれば、いつの間にか「人のできないこと」を貶めて見てしまう。
【自分の弱さを認め、支え合って生きる】ことの大事さを、今改めて感じています。


そういうことに氣付かされても、2週間前には全然余裕がなくて。
「ライブまであと1週間」なのに、練習ができていない。

氣もち的には、かなり追い詰められていました。



もうひとつ、この時期に読んで共感し、救われた記事があります。
鴻上尚史さんの、「ほがらか人生相談」。

「友人に絶交されました…」 鴻上尚史が指摘する原因“無意識の優越感”とは (1/7) 〈dot.〉|AERA dot. (アエラドット)


鴻上さんの人生相談、いつもすごく的確なんですよね。
的を得ているだけでなく、視点がとても優しい。
(余談ですが、「的を得る」は誤用ではない、というのが最近の通説だそう)

鴻上さんが「39歳でロンドンの演劇学校に留学」されたときのこと。

今のぼくは、言葉の通じない外国にいるわけではありません。
でも、感覚的にはかなり近いものがあるんじゃないか、と。
『Englishman in New York』の歌詞、「I'm an alien, I'm a legal alien」って氣分。


たとえば悲しみや痛み、どれだけ苦しいか、などなど。
そういったそれぞれの人の経験は数値化できるものではないし、簡単に比較することもできません。

だから、〈共感〉は諸刃の剣みたいなところがあって。
一方は「それ、すごくよくわかる」、一方は「そんな簡単にわかられてたまるか」。


ぼくにはたぶん、前述のようなハンデキャップがあります。
だからって、「人よりも大変」と言いたいわけではないのです。

でもときどき、自分は将棋でいうところの「角落ち or 飛車落ち」で世渡りをしているんじゃないか、って本氣で思ったりします。
普段の生活では、パッと見そういうことってわからないですから。

でもでも、それを言ったら他者だって同じこと。

鴻上さんの留学中の経験も、すごくわかる氣もするし。
それに比べたら自分なんか全然甘いんじゃないか、とも思います。

そういうことを言い出すと、ややこしいですね。
「誰々よりマシ」とか、相対的に捉えることがそもそもの間違いなんでしょうけど。


「無意識の優越感」。
自分も加害的にそういうことあったかもなぁと、今回改めて振り返ったりしました。

「自分だけが大変なわけじゃない」というのは救いになったりもする。
なのに、それを人に向けてしまうと、途端に攻撃的なものになってしまう。


言いたいことがだいぶ交錯して、着地点がわからなくなっていますが。

鴻上さんはこの相談で、「対等な人間関係」に敏感になることで、新たな出会いがあるはず、とアドバイスしています。

また改めて書くつもりですが、向町カフェでのイベントではみんなから温かく迎えてもらえて、すごく嬉しかった。
そういうときこそ謙虚に、「対等な人間関係」を意識したいもの。

「無意識の優越感」がベースの「居心地のよさ」では、いずれ関係性が崩れてしまう。

一方で、新しい環境での数々の出会いでは、「優越感」をもつことはむずかしい。
だからこそ、「対等な人間関係」を模索するいい機会、でもあるのかもしれません。

もうひとつ。
対等であるためには、自分軸がグラグラでは成り立ちません。

かと言って、ガッチリし過ぎて人の意見も聞き入れないのも問題ですけど。
まあ、それって実は自分軸が確立していないからこそ、なんでしょうね。

【自分の弱さを認める】というのも、自分軸になること。
弱さを否定して克服しようとすればするほど、自分軸はガチガチで脆くなる。


『Englishman in New York』には、「Be Yourself no matter what they say」という歌詞があります。
人に何を言われても、自分は自分。

そういう感覚が揺らいでいたから、このところすごくしんどかった。


あれこれ書いてみて、自分軸が取り戻せたり新しくできた部分もあったり。
おかげで、だいぶ楽になりました。


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写真は本文とは関係ありません。
家の近くの観音寺にあった、鬼瓦。


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そうそう、「鬼」つながりで。

先日、末っ子が図書館で借りた本がとてもおもしろくて。
シゲタサヤカさんの『オニじゃないよ おにぎりだよ』。

このオニたち、もしかしたら「対等な人間関係」のヒントになるかも。
何となく、関連のある話につなげたところで、今回はこの辺で。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん