とむやんの氣まぐれ雑想記

〈探幸王〉を目指して、さまざまな想いを綴ります☆

迷いながらの12年。


今日、6月6日は長男の誕生日。

12歳ということは、ぼくは父親になって12年が経ったということ。
そう考えてみても、全然実感がないですけどね。


まあ、いろいろあるっちゃあるけど、ここまでよく育ってくれたなと思います。
我が子ながら、すごいなと思うことがたくさんある。

父親の方はまだまだ未熟、きっと育て甲斐があるだろうなぁ(笑)


66で11。 - とむやんの氣まぐれ雑想記

(↑昨年はこんなことを書きました)



長いこと、不登校だった長男。
今は学区の小学校に、ほぼ毎日顔を出しています。

教室には行ってなくて、図書室などで過ごしているようです。

学区内だけど結構距離があるので、できれば送り迎えに来てほしいということで。
今のぼくは子ども3人の送り迎えで、あっという間に昼過ぎになる毎日。


でも今週は、とても嬉しいことがありました。

それは、修学旅行に長男が行くと言い、実際行ってきたのです。
伊勢神宮志摩スペイン村、そして鳥羽水族館

動物好きの長男は、水族館なら行く!と。


ただ、ちょっとしたハプニング?があって。
前日の夜に体調があやしくなり、大丈夫かな?と思っていたのですが。
案の定、1日目の夜に熱が出てしまい。

2日目の朝には何とか熱が少し下がって、執念で鳥羽水族館にも行けたのでした。

そんなことがあったものの、基本的にはとても楽しかったみたいで。
しかも、氣の合う友だちもできたそう。


クラスの子たちとはほぼ初めましてで、2日間を過ごす。
行った場所や部屋は、それぞれに班があって一緒に行動。

ぼくはこれ、できる氣がしない(笑)

12歳になる直前の、彼の成長をひしひしと感じるできごと。
いや~、ほんとにすごいと思う。


そうそう、弟たちにもちゃんとお土産を買ってきて。
予算内で、自分も買いたいものを買って。

みんなには赤福を買ってきてくれました。

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これもちょっとしたエピソードがあって。

赤福は注文票があって、ほしい人はあらかじめ提出しておくシステムで。
(なので、おこづかい予算とは別)

でもまあ、近鉄京都線の京都駅売店でも売ってるし、別にいらないんじゃない?と。

そう伝えたら、「ぼくが人生初の修学旅行でお土産を買ってくることに意義があるんだ」と長男。
そんなようなことを言われて、確かにごもっとも。

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月並みかもだけど、これまで食べた赤福で一番美味しかったですよ。



そうそう、昨日書いた記事にfbでたくさんコメントをいただきました。
ありがとうございます。

やはり、「迷い」と「決断」というのは、みんな関心度が高いんだなぁ。

そのコメントを読ませてもらったりしながら、追記したいことが2つ出てきました。
奇しくも、子育てのことともリンクしそうなので。


1つは、書こうかどうしようか迷った(ほらここでも迷ってる)のですが、結局書かなかったこと。

「決断」というのは「男性脳」的な発想じゃないかな、って。
男性脳とか女性脳とか、もしくは性別の差異って、デリケートな問題を含むので。
触れない方がいいかなと思って、昨日はやめたのですが。

でも、主夫として感じるのは、「決断」がますますピンと来なくなってるってこと。
そして、そこが昨日書いたことの「肝」でもあるのかな、と思ったのです。

「決断」と言ってぼくが真っ先に浮かべるのは、「殿、ご決断を」というイメージ。
それってやっぱり、男性脳的だったり男社会特有のマインドセットと密接なのかも。


もう1つは、実は「決断」的なことって、「何も変えないときにこそするもの」なんじゃないか、ってこと。

文章読み返してチェックしたり、いただいたコメントを読んでみて。
「決断」という【点】があるというよりも、細く長い【線】がある。

そんな風にぼくは捉えています。
だからそこが、「断」が入っていることの違和感、なんですね。


長男が12歳になるまでを振り返ってみると。
妻に「子どもができたかも」的なことを聞かされたとき、ぼくには「決断」は必要ありませんでした。
自分に言い聞かせるような、「覚悟」のようなものはあったと思います。

で、「決断」に近いものがあるなら、それは子育てのあいだ中ずっと続いている意識、なのかなぁ。
(「子育て」というワードもいろいろ考えたいところではあるのですが、ここではそのまま使います)

子どものことを考えたり向き合ったり、「おとう」と呼ばれたとき、などなど。
そういうときにずっと、細く長く「決意」という糸を太く長く撚っていくような。

だから、その撚糸にはいつも「迷い」も混じっている、でもそれでいい。
父親であることに、主夫であることに、「答え」なんて出るはずがない。

そんな感じなのかなぁ、昨日書いているときに思い付けばよかったのだけど。


生活の中に「決断」というものがあるとしたら、それは粉々になったカケラがあちこちにあって、日々確認していくような感覚がぼくにはあるんです。

まあ、ぼくが単に「決める」ことがニガテ、ってだけかもしれません。
でもでも、「変えないときにこそ決断をしていく」というのは、案外おもしろい仮説じゃないかな。

あ、終わろうと思ったのに、もうひとつ思い出しました。

なんでその仮説を思い付いたのかと言うと。
「決断」以上に必要なのって、「問い」をもつことだと思っていて。

このブログでも以前書いたような、でもまだ書けていなかったかな。
(パッと見てみただけではわからなかった)

妻も先日、こんなことを言っていました。
迷っていることがあって人に相談したら、「そういうのは夢の中で訊いてみるといいんだよ」って言われた、と。

つまり、寝る前に迷っていることを「問いかけて」、寝る。
そうすると、取るべき「答え」がわかる、というような話でした。

この感じはすごくよくわかる、自分で全部決めてしまわない、というのかな。

敢えて今日の話に戻すと、長男が修学旅行に行ったのだって、親も先生も正直「行かれないだろう」と思っていたのです。
でも、先生も一応伝えるだけと言って、どうしますかと親に投げかけてくださって。

だから、ぼくも妻も決めつけるのではなく、「どうする?行く?行かない?」と。
「行く」と即答した長男に、「決断」という感じはなかったです。

ただ、やっぱり「葛藤」はあったと思いますよ。
「行く」と言った後から、じわじわと「決意」を固めていくしかない。

本当はちょっと違うのかもしれませんが。
ニュアンスとしては、「決断」を分割払いで、って感じなのかなぁ。


「問い続けること」と「迷うこと」については、また書いてみたいです。
今日のところは、この辺で。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん