とむやんの氣まぐれ雑想記

〈探幸王〉を目指して、さまざまな想いを綴ります☆

それぞれの正しさ。


図書館などで、珈琲関連や喫茶店の本などを手に取ることが多いのだけど。
先日、何氣なく借りてみた『コーヒーゼリーの時間』が、なかなかおもしろかった。

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珈琲の好きな人からすると、珈琲ゼリーというのはちょっと邪道というか、そんな扱いだったり。
単純にスイーツとしてはどちらかと言えばマイナーだったり。

そんな不遇(?)の珈琲ゼリー。
正直、ぼくもそんなに思い入れがあったわけじゃなかった。

けれどやはり、個々に向き合ってみると、というかぼくが向き合うわけじゃなく、この本の著者が向き合ってくれてるのだけど。
それぞれに、つくり手の想いだったり、そもそも一口に「珈琲ゼリー」といってもバリエーションさまざまなんだなとか。

人間関係でも、「ちゃんと喋ってみたら、なんだ、とてもいい奴だな」なんて、そんな上から目線的じゃないにしても、そういうことはよくある。

この本では、珈琲ゼリーのつくり手だけでなく、珈琲ゼリー専用のグラス(!)のことだったり、寒天のことだったり。
はたまた「珈琲ゼリーに合うドリンクはなんなのか?」というのもあって、それがまたおもしろい。

コーヒーゼリーの隣にふさわしい飲みものはなんでしょう?」との問いに、本の中で登場した方々のそれぞれの「答え」が並ぶ。
何種類かに大別できるけれど、その理由などもさまざまだ。

当然、それは個々にとっての「正しさ」であって、その人の「想い」なのだから。
押し付けがましいこともなく、本当にそれぞれだなぁと興味深い。

余談だけど、茶ノ木カフェで友人がコーヒーゼリーを食べてるのを見て、ぼくも次はそれにしようと別の日に行って。
そしてその帰りに図書館で見つけたのが、この本を手に取ったきっかけ。

茶ノ木ではHOTのチャイとの組み合わせ。
本には出てこなかったけど、これはなかなかいいんじゃないかと秘かに思う。

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たとえば珈琲にしたって、深煎りがいいとか最近は浅煎りが注目されてる、とか。
ブラックなのかミルクたっぷりなのか、また個々によってもそのときの好みだったりとか、いろいろあるわけで。

「珈琲とは斯くあるべし」みたいなのもおもしろいけど、それが押し付けられたりしたら、途端にイヤになるだろう、たぶん。
まあ、そういうお店があってももちろんいいし、自分に合わなければ行かないだけだろうし。

珈琲談義だったり、音楽のマニアックな話だったり。
その辺のことなら「おもしろい」で済むようなことかもしれない。


だけど、そういう価値観的なことが結果的に押し付けられる、しかもそれがある種の「Power(力)」が働くとしたら、話は別だ。

たとえば、日本国憲法に「幸福追求権」というものがあるけれど。
その「幸福」というのは人それぞれ、であることはもう書くまでもないのかもしれないけど。
これが、「幸福とはこれこれこういうものです」とされて、それを誰でも享受できますよ、と言われたって、そんなの場合によってはメイワクなだけだろう。
(前にもそんなことを書いてた、よかったらそちらもどうぞ↓)

GIVE PEACE A CHANCE! - とむやんの氣まぐれ雑想記



本当に「正しい」ことというのはある意味「自分だけのもの」だし。
人にその価値観を押し付けたり、人に認めさせる必要なんてない。

逆に、そういう風にしてしまうのは、自分のことを顧みてもそうだろうと思うけど、そこに何かしらの「劣等感」というか、まあ自信がないわけだ。
ちゃんとした自信があれば、自分はその道を坦々と歩むだけ。
そんな余裕があるだろうと思う。
人のことをとやかく言うというのは、やはりあまり感心しない。

自分を幸せにできるのは自分だけなのだ。
もちろん、いい影響は周りからたくさん受けつつ。

夫婦とか家族とか、そもそも個人に関しても、ヘタな「正解」を押し付けられたらたまらない。
しかもそこに、「Power(力)」が働けばなおさらだ。

どんなに立派なお言葉でも、押し付けがある時点でノーサンキュ。
「Power(力)」を得てしまうと、どうしても人は横柄な部分が出てくる。
権力然り、自動車の運転然り。

だから、「Power(力)」を得るということは、制限をかけてもらわなければ暴走しかねないのが、常。
なのにたいていは、その「Power(力)」があるのをいいことに、自分の「正解」をバンバン押し付けてしまうもの。
そういうサガがあるってことを、忘れないでいたいなと思う、自分に対しても。

「珈琲ゼリーは無糖に限る」と思ってても、「音楽はレゲエしか聴かない」と思ってても、それはそれでいい。
だからって、それ以外を駆逐する必要なんてないのだから。
(ちなみに、上の2つはぼくのコダワリではないのだけど、念のため。)


個々の「正しさ」は尊重しつつ、でも自分は押し付けがましくしてないかな?と、そんなことを思う。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん