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カレル・チャペックの『ロボット』を読んだ。
(原題は『R.U.R.(エル・ウー・エル)』、あとがきにあった初版と第2版の表紙デザインが秀逸なので、そっちの写真にしてみた↓)
カレル・チャペックも、この『ロボット』も、以前から知ってはいたのだけど。
「戯曲」ということもあって、ちょっと取っ付きにくいかなという食わず嫌いで、読んだことはなかった。
先日、あまいろチャンネルの藤原先生のお話を聞いて、読んでみることにした。
@くらしとせいじカフェ藤原辰史さんと①/食堂付属大学第四講「使い捨て」に抗する思想ーチャペックの作品から考える 1 - YouTube
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考えてみれば、人は「命あるもの」をつくれない。
「子どもをつくる」と言っても、もちろん「製造」するわけじゃない。
男性にとっては実感さえ薄く、女性だって直接的かと言うとそうでもない。
まさに、「授かりもの」なわけだ。
いわゆる「農作物」もまた、つくるという語に反して、人ができることは少ない。
それは農に関する仕事を軽んじているわけじゃなくて、単に育つ部分は何かに「委ねる」しかないのだ。
自分でやってしまうより、委ねたり信頼したりというのは、より高度だと言える。
そもそも、全部「自力」でできるなどと思うのは、「思い上がり」なんだと思う。
自分自身についても、「生かされている」ということを最近つくづく思う。
自分の「カラダ」がまず、借りものなのだという捉え方。
自然環境に対しても、借りものという感覚があれば、今のような「横柄な態度」にはならないはず。
ここでぼくが言う「自力」と「他力」は、そういうニュアンスで考えている。
けれど、その方が「なぜ他力が"本願"なのか」が、わかりやすいんじゃないかな。
もちろん、自分でやるべきこと、そして行動することはとても大切なこと。
「自力」ということを否定しているわけじゃない。
けれど、それは「他力」あってこそで、そのことに氣付いて感謝する氣もちが大切なんだろう。
神さま(毎度ながら、漠然としたイメージだけど)は、そっちの意識を忘れないようにね、そうじゃないと「自己本位(この場合、よくない意味で)」になってしまうからね、と言っているのかもしれない。
今回もブックレビュー的ではないけれど、『ロボット』を読み終え、そんなことを思う。
せれんでぃっぽ☆とむやん