とむやんの氣まぐれ雑想記

〈探幸王〉を目指して、さまざまな想いを綴ります☆

ゴリラから学ぶべきこと。


今月の初め、山極壽一先生のお話が京都で聞けるというので、行きたいと思った。
京都大学総長である山極先生は、ゴリラ研究の第一人者として知られる。
(ぼくは面識もないし教わったこともないけど、「先生」とさせていただく)

残念ながら、場所や時間等々の問題で、結局行くのは断念。
でも、不思議な縁があるのか、そのとき読んでいた本2冊それぞれに、山極先生の名が出てきて驚いた。

そして同じ頃、たまたま行ったコミュニティーセンター内で、山極先生のゴリラの絵本と「出会った」。

『ゴリラが胸をたたくわけ』
山極先生の文、阿部知暁さんの絵。

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ゴリラが、なぜ両腕で胸を叩く「ドラミング」という行為をするのか。

端的に言えば、敵に対する脅しや宣戦布告ではなかった。
むしろ、争いを避けるための手段だったりもする。
ゴリラは一般的なイメージよりも平和的で、高度な社会性をもっているらしい。

人間たちは、動物園に送るために子どものゴリラをたくさん捕らえた。
それを救うためにドラミングで立ちはだかったゴリラたちは、鉄砲で容赦なく撃ち殺された。
その上、勝手に「凶暴な野獣」と見なされ、映画『キングコング』などの影響もあってますます暴力的だと「誤解」をされていく。



本当にひどい話だと思う。

ただ、こういうことって、ブーメランのように戻ってくるもの。
それは、〈因果応報〉であり〈自業自得〉である。

ちなみに、〈因果応報〉も〈自業自得〉も、必ずしも「いい/悪い」をジャッジしてはいない。
それより、〈自業自得〉なんて、「得」という漢字すら入っているのに、どうして今は悪い意味合いでしか使われないんだろう?
長くなるので、その辺のことはまた別の機会に。

ともかく、命を何とも思わず殺戮しようとするマインドは、その逆の「恐怖」もセットになっているもの。



ぼくたちがSFなどでイメージする異星人は、十中八九「好戦的で侵略的な」残忍な性格をしている。
映画『インデペンデンス・デイ』然り、映画『マーズ・アタック!』然り。

単純に映画として「絵になる」とか、そういう事情もあるだろう。
でもやっぱり、それは自分が「好戦的で侵略的な」ことの〈裏返し〉なんだと思う。
映画『プレデター』などは、象徴的かもしれない。

藤子・F・不二雄の少年SF短編『絶滅の島』は、それをはっきりと描いている。

調べてみたら、ホーキング博士ですら同じような見解だというから、ちょっと残念。
この発言もまた、ぼくがここで言いたいことの〈裏返し〉を示してくれている。

コロンブスがアメリカ大陸に上陸した際に発生した先住民族の虐殺のようなことが、地球でも起こりうる」
「高度な文明をもつエイリアンは、征服し植民地にする惑星を探すためとしている」



高度な文明をもっているのなら、友好的で平和的な宇宙人であると想像できるはずだ。

『アミ 小さな宇宙人』という小説の初めの方に、まさにこういう話が出てくる。
ぼくもそれまでは、やはりステロタイプ(ステレオタイプ)な「インベーダー(侵略者)」のイメージが強くて、どうしても偏見を拭えずにいた。

だから、わからない人には本当にわからない話だと思う。

そして当然、この記事でぼくが言いたいことも、ちゃんと伝わらないだろう。
もちろん、それで構わない、「人を変えよう」とかそんなつもりはない。


ただ、自戒的な意味も込めて。

ゴリラに対する無理解と偏見と、それによる理不尽な殺戮という忌まわしい過去から、学ばなければいけないことがある。
そして、ゴリラの平和的で高度な社会性から、自分たちのあり方を見直したい。

「ゴリラができているのに、どうして人間にはできない(できなくなった)んだ?」
そんな簡単な〈問い〉に対して、〈答え〉となるべき行動を選んでいきたいから。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん