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ぼくは〈普通〉の人にはなりたくない。
たぶん、なりたくてもなれないだろうし、今までもそうだった。
なんて言ったら、「〈普通〉って何なの?」と、あなたは首を傾げるかもしれない。
もしそうなら、それはいい傾向だ、と個人的には思う。
そう、そもそも〈普通〉なんて「ない」、幻想なんじゃないかと、ぼくも思う。
けれど一方で、たとえそれが幻想だとしても、漠然としてはいても、世の中には確実に〈普通〉という基準がある。
そして、その〈普通〉は「高嶺の花」ではない。
〈普通〉の人が〈普通〉の暮らしをする、それは「権利」に近い感覚すらもっているんじゃないか。
最近は、「すぐ権利だ権利だと言う」と批判する人がいるが、ぼくはそう思わない。
けれど、もし〈普通〉が「権利」として当たり前、と思っているとすれば、それは思い違いだと言いたい。
例えば、いわゆる途上国の人々を考えれば、〈普通〉が実はかなり贅沢なんじゃないか、と思えてきたりしないだろうか?
けれど、現代の日本において、〈普通〉は簡単に手に入りそうにも思える。
できるだけ波風を立てず、メンドウを避け、不条理だと思ってもガマンして、その代わり陰口やお酒に逃げたりして。
そうやって必死で追い求めても、それでも〈普通〉はなかなか手に入らないのか。
それとももう手にしているのに、イメージした〈普通〉と違うからと、いつまでも探し続けているのだろうか。
〈普通〉でいたいと思う人は、そのことを検証しようとはしない。
だから、〈普通〉とは何ぞや、もしくは共通認識としての〈普通〉とは?という定義付けを、ここではあえてしないでおく。
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高校の国語の時間に、先生が質問をしても、誰ひとりとして手を挙げなかった。
黙ってうつむき加減で、教科書を見つめているばかりだ。
ぼくはその先生(男性)が好きだったし、授業もおもしろかったので、せっせと手を挙げた。
今でも憶えているのは、「戦争はなぜいけないのか?」という質問。
このときも、教室にはぼくしかいないのかと思うくらい、周りは静かだった。
たぶん、こういうときは「黙って無関心を装う」のが得策で、それを繰り返していれば、本当に無関心に「なれる」のだろう。
それこそ、〈普通〉の人の〈普通〉の生き方。
そうやって、ことあるごとに「ぼくは〈普通〉には生きられない」ということを、受け入れていったような氣がする。
昔はそれが「コンプレックス」だったときもあって。
まるで「貧乏くじ」を引いた氣分だった。
でも今、つくづく思う。
〈普通〉なんてぼくにはつまらない。
ぼくは〈普通〉の人になりたくないし、なりたくてもなれないだろう。
なんてラッキーなんだ。
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ところが、そうも言っていられなくなってきた。
〈普通〉でない人は、社会からはじき出される、そんな時代が再びやってくる氣配。
それはまるで、行き過ぎた潔癖症みたいだ。
潔癖症を悪く言っているわけじゃない。
ただ、それが強迫観念的に、すべての「菌」をワルモノと思い込んでしまうような、それは「潔癖症」ともまた違うのかもしれないけど。
いずれにしても、〈普通〉の人であろうとする今までの暗黙の了解さえ、これからは通用しなくなる。
いや、そもそも通用していたときがあったのだろうか?
まあいい、どっちにしても以前よりも簡単に、〈普通〉というものがその手からサラサラとこぼれ落ちていくだろう。
これからは、自分の主張ひとつしただけでも、〈普通〉の人ではいられなくなる。
全然、大袈裟な話じゃない。
「〈普通〉であることを証明する」なんて、たぶんできない。
〈普通〉が何なのか、誰にもわからないのだから。
それなのに、「〈普通〉でないレッテルを貼る」のは、なんとたやすいのだろう。
印象操作なんて、いくらでもできる時代。
〈普通〉の人が、〈普通〉の生活を守るために、簡単に「人を売る」だろう。
本当に、それは全然杞憂なんかじゃない。
今日、「最近また強くなった、学校行事に積極的なパパに対する周囲からの不審なまなざし」という記事を読んだ。
結びに、「本当世知辛い世の中ですよ!」とあるのだが、「世知辛い」なんて生易しいもんじゃない。
「ピンクの靴を履いている中年男性は珍しい」というだけで職質されるなんて、世も末だと思う。
そして今日、近くの小さなコミュニティセンターの印刷機を使わせてもらったのだが。
受け付けで、「どんな内容ですか?」と聞かれ、内容をチェックされた。
今まで何度も使わせてもらっているが、こんなことは初めてだし、何の権限があるというのだ?
はっきりとした「犯罪者」という人がいると仮定して。
じゃあ、その人が目立つピンクの靴を履いているだろうか?
10数枚の印刷をしに、わざわざ地域のコミュニティセンターに行くだろうか?
そんなことで犯罪が抑止できると考えているのなら、相当にピントがズレている。
犯罪防止以外の理由があるんだとしても、プライバシー侵害だと思う。
もし、印刷するものが政府に批判的なものだったら、印刷を止められただろうか?
もしくは、こっそり通報されたりしたのかもしれない。
残念ながらこれからますます、そういうことが頻繁に起こってくる。
その先は、冤罪ばかりが増えていき、本当の悪行は見逃されていくわけだ。
それが冤罪かどうかなんて、チェックさえされなくなる。
例えば、隣人が氣に入らなかったら、何かの疑いで通報すればいい。
ひとりの市民が「嫌疑」をかけられたとき、それを払拭するのは意外とむずかしい。
政治家など、権力のある人にとっては「嫌疑」など揉み消すことも簡単なのだろう。
だから、もしかしたら本氣でわかっていないのかもしれない。
メディアやその視聴者などは、もう「無罪の推定」など消滅してしまったかのようだ。
「容疑者」を、犯罪者扱いしてしまう傾向がますます強くなる。
もし、晴れて無実が証明されても、メディアは取り上げないし、周囲の偏見は消えることはない。
「メディア・リンチ」や「インターネット・リンチ」と呼ばれるものが、当たり前のようになってしまった。
どんなに〈普通〉に徹していても、「嫌疑」がかけられた時点で、ひとりの市民の〈普通〉なんてあっけなく潰される。
悪意のある「正義」の横行、と呼んだらいいのだろうか?
そういう「私的制裁」が、いつの間にか「解禁」されたかのようだ。
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何だか、今日の文章は「ただ不安を煽っている」と捉える人もいるかもしれない。
もしこれがただの杞憂なら、単なる被害妄想だと言うなら、それはそれでいい。
そして杞憂だと思いたい人にとっては、無視したいことかもしれない。
けれどいつか、「こんなはずじゃなかった」と、ぼくは言いたくない。
だからこそ、ただ不安になるのではなく、変えていこうとすればいい。
逆に言えば、変えていきたいと思っているから、こんなことを長々と書いている。
さっきfbで、「国連プライバシー権に関する特別報告者が、共謀罪(テロ等準備罪)に関する法案はプライバシーや表現の自由を制約するおそれがあると懸念を示す書簡を安倍首相宛てに送付した」という記事を見た。
市民ひとりひとりの意識が、とても重要になってくる。
今回も勢いに任せて書いたので、全然まとまらなかった。
最後に、ノーム・チョムスキーの言葉を引用して、終わりにしようと思う。
【お望みなら、好きなだけファンタジーにふけることができます。しかし、選択するのはあなたです。】(映画『チョムスキー 9.11』公式カタログ/p55)
せれんでぃっぽ☆とむやん