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図書館で借りて本を読むときは、特にそうなのですが。
できるだけ、「フィーリング」や「直感」で選ぶことにしています。
三分の二は今まで通り、関心のあるテーマのもの。
そして三分の一が、何となく手にしたもの。
そう心掛けてからは、不思議と同時に借りた本が妙にリンクしていたりして。
先日借りたのは、アヤパンこと高島彩さんの本。
『聞く 笑う、ツナグ。』というタイトル。
ぼくは今はテレビを見ていないですが、それでも高島彩さんは知っています。
ただ、知っている程度なので、特に好きとかきらいとかもなく。
タイトルにある「聞く」というのが氣になったのもありますが。
以前だったら、たぶん読もうとは思わなかっただろうなぁ。
読んでみたら、予想以上におもしろかったです。
友人が「なるほど」が口癖で、なんて話をしていたら。
この本に、「なるほど」には5つの「なるほど」がある、なんてコラムがあったり。
個人的には、「ルールより大切なものがある」に出てくるエピソードが特に印象に残りました。
そこには、こんなことが書いてあります。
《ルールを守ることも大切ですが、ときには、ルールを緩めてでも大切にしなければいけないものがあるんだと、教わったのです。》
そして、大人になると自分で決めてしまったことに縛られることが多い、ということも指摘しています。
同じタイミングで図書館で借りて、読んでいた本があります。
『国のない男』、原題は『a man without a country』。
著者のカート・ヴォネガットは「現代アメリカ文学を代表する作家」ということですが、これを偶然手に取るまでぼくは全然知りませんでした。
この本は、晩年のエッセイを集めた最後の著作。
政治批判やアイロニー、そしてユーモアがふんだんに盛り込まれていて、読んでいて「胸のすく思い」がしました。
言葉の選び方とか、本当にこれ以上ないくらい、どれを取っても的確、というか。
そしたらなんと、本の最後の方に「ルール」についての記述があって。
《つまり、ルールは人を導いてくれるが、それには限度があるということ。どんなにすばらしいルールも万能ではない。》
これは自分にとって、〈ルール〉を説明する言葉として最適だと感じました。
そうそう、これには別のビックリするような「シンクロ」があったのです。
これまた同じときに借りて読んでいた本。
『BASHAR 2017 世界は見えた通りでは、ない』。
読み進めていたら、内容とは直接は関係ないのですが、カート・ヴォネガットの名前が出てきたのです。
それまで聞いたことがなかった(少なくとも覚えていない)作家の名前が、ここに来て立て続けに自分の前に「現れた」のは、やはり意味があるとしか思えません。
カート・ヴォネガットは、他の作品も読んでみたいと思っています。
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さて、話を戻します。
今までならセレクトしなかっただろう2冊の本、しかも氣になった箇所が「ルール」について。
〈ルール〉ということを改めて考える時期なんだろう、と思います。
そして、今日5月3日は憲法記念日。
打って付けの日、と言えるかもしれません。
まず、〈ルール(rule)〉の語源を調べてみると。
ラテン語の「rēgula」、「木の棒」「真っ直ぐな棒」という意味で、「物差し」という意味もあるようです。
〈ruler〉は「物差し」のことも指し、「規則」や「規定」などの意味に発展したみたい。
ちなみに、〈ruler〉には「支配者」や「統治者」という意味もあるそう。
なんか不思議というか、皮肉というか。
本来、「規則を決める人」ということから〈ruler〉が「支配者」になったのでしょう。
この国では、「ルール無用」な人たちが「ルールを決める国の代表者」。
曲がった「物差し」は、閣議決定で現実の方をねじ曲げてしまう。
ニコニコ大百科には、《現代日本では、「守るべきこと」という意味をもつ場合が多い》という記載があり、まさにそうなんだろうと思います。
〈ルール〉とは、「守るべきもの」ではなく、それがあることで何を「守る」のか、が本来の意味合いなのでは?
検索したら、こんな記事を見つけました。
日本経済新聞の、『ルールと異なる「rule」 まず例外ありきの海外』。
ルールと異なる「rule」 まず例外ありきの海外 :日本経済新聞
日本における〈ルール〉の捉え方の問題点が、わかりやすく書かれているなぁと思います。
ただ、「義務教育の現場では~」の部分は、個人的にはちょっと違和感を覚えました。
その後の、「例外のないルールはない」という流れとしては賛成できます。
「たった1人の子どものために他の子どもの学ぶ権利が阻害される現状」と決めつける前に、できることがあるだろうと思います。
〈ルール〉はあくまで、自分たちが心地よく、そして周囲もまた心地よくいられるための〈ガイドライン〉であってほしい、とぼくは思うのです。
それを、〈ruler〉的な人たちが、自分たちの曲がった物差しに合わせて、自分たちが尊重し守るべき憲法を無視して、改変してしまおうなんて、本末転倒も甚だしいわけで。
街中には、標識や張り紙などがたくさんあります。
改めて注目して見てみると、ビックリすることにそのほとんどが「注意書き」です。
つまり、「従うべき禁止事項」ばかり。
(公園の滑り台にも、こんな注意書きが)
これではますます、自分で判断して決めていく力は削がれていくでしょう。
もちろん、「安全に使う」ことがいけないわけではありません。
むしろ、そのためにある「通知(Notice)」が、どうして「注意」や「禁止」ばかりなのか。
結局のところ、〈ruler〉にとっては「言うことを聞く、従順な市民や生徒」を求めてしまうものなのかもしれません。
残念ながら、そこは古今東西、どの国どの時代にも言えること。
だけど、この国ではあまりにも多くの人が「従順」になり過ぎている、そう感じます。
「憲法」について「立憲主義」について。
これからもっといろいろと考えたり発信したり、していくつもりでいます。
前回ブログに書いたように、「自由民権」ということも絡めていきながら。
〈ルール〉について、うまくまとまりませんでしたが。
今日はとりあえず、今感じたことを覚え書き的に残してみました。
そのうち整理して、またうまく説明できるようにしてみるつもりです。
せれんでぃっぽ☆とむやん