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一週間前の9月4日で、このブログをはじめて4年が経ちました。
当日に何か書こうと思いながら、9月に入ってからの猛暑にやられて。
ひとつのことをするにも、えらく時間がかかってしまったりしますね。
ともかく、読んでくださっている方、いつもありがとうございます。
先日も、「読んでます」と言ってくださった方がいて。
数回しかお会いしたことないのに、そう言ってもらえるなんて。
恐縮しつつも、とてもありがたいなと思いました。
ちなみに9月4日は、うちの末っ子の誕生日です。
週末にお祝いするはずが、ひと悶着あったり。
まあ、また機会があれば書こうかと思っていますが。
(↑一年前はこんなこと書きました)
今日(2019.9.11)は、このブログのこれからについて、ちょこっと書いてみます。
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Twitterなどでよく見る「わかりみ」とか「わかりみが深い」という言い方。
別に難癖付けるつもりはないのですが、以前から何か氣になっていて。
まあ、自分では使わないでしょうけど。
他にも「つらみ」とか「やばみ」とかあるらしい。
なので、「わかる」ということに特化しているのではない、のかもしれませんが。
でもやはり、「わかりやすさ」というのは今の人たちはとても敏感なのでは?
もっと言うと、「私のことをわかってほしい」ということ。
わかってもらえるかどうか、が何かしらの「基準」になっている、というのかな。
確かに、このブログもどうしたらより「わかってもらえるか」を考えたりします。
共感してもらえたり、わかりやすかったと言われると嬉しかったり。
逆に、真意じゃない捉え方をされたら、慌てて補足したり。
でも、端的に言うと「わかり合える」なんて、「幻想」に近い。
厳密に言えば、そういうこともありえるけれど、大抵は「思い込み」。
そもそも、「わかり合えて」いるかどうかを確認すること自体、とてもむずかしい。
いや、もしかすると言葉に頼らなければ案外、うまくいくのかな?
今回はそこまで掘り下げないですけど。
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最近読んだ本やネット記事などから、「共感」というものの「光と影」について、あれこれ考えたりしています。
というと、ちょっと大袈裟かな。
まず、自分で自分を理解(というか認識?)しようとすることは大切。
それを人が理解するかどうかは、別問題。
「人にわかってもらえるか」は指標にはいいけど、目的にしてしまうとややこしい。
逆に、わかってもらおうとすることで、「犠牲」にしているものがあるかも?
(大衆に迎合し、本音が出せなくなる、顔色を窺ってばかりになる、など)
よかれと思ってやったことでも、裏目に出てしまう、よくあることです。
もうでも、それをいちいちひっくり返そうとしなくていいのかも。
自分がその真意をわかっていれば、「どう思われるか」に一喜一憂する必要はない。
その辺のことは以前から考えていたことではあるのですが。
ここに来て、少しずつ頭が整理されてきた氣がします。
とまあ、今回は詳しく書かないので、何のこっちゃと言う感じでしょうけれど。
わかってもらえたらやっぱり嬉しい、でもわかり合えなくても当たり前。
わかってもらおうと工夫を凝らすことはあっても、ムリすることはない。
先ほどの「わかりみ」も、なぜ「み」をつけるか、なんですよね。
これって、「わかる~」じゃなくて、「わかる(’はず、たぶん)」ってこと。
ある意味「保険をかけている」、「100%支持ではないよ」と。
それがわるいとかではなく、もうそこまで氣遣いしなきゃいけないって、どうなのよ。
どうなのと言いつつ、ぼくも曖昧な表現は多いかもなぁ。
そう言えばいつだったか、Twitterの「リツイート」を開発した人が、その機能を「後悔している」という内容の記事を読みました。
むしろ、こっちは共感を「氣軽に」できてしまう問題、ということでしょう。
自分の言葉はできるだけ曖昧にする一方で、人の意見は簡単に共有してしまう。
「自分の意見」の境界線問題、とでも言いましょうか。
「バウンダリー(心の境界線)」という言葉は、心理学の用語なのかな。
最近知った「HSP(Highly Sensitive Person)」も関連しているみたいだし。
その辺は、このブログのこれからの大きなテーマになりそうです。
わかってもらおうとは思わない、わかってもらわなくてもいい、そんなブログ。
これも説明不足なんだろうけど、今はこれでよしとしよう。
そう言えば、ニュースとかの見出しも誤解を生むものが多いなぁ。
あえてそうして、興味を惹こうとするものも結構あるし。
その辺も踏まえて、今後もいろいろ書いてみたいと思います。
(↑幼稚園のお迎え途中の蓮の畑にて)
せれんでぃっぽ☆とむやん