とむやんの氣まぐれ雑想記

〈探幸王〉を目指して、さまざまな想いを綴ります☆

今年のクリスマス、そして「救い」について。

今週のお題「クリスマス」


正確には先週のお題、なんですけど。
今年(2019年)のクリスマスのことと、氣付いたことを少しだけ。


例年、うちではクリスマスツリーは飾りません。
場所がない、というのが一番の理由かな。
なので、ツリーを立てるのではなく、ツリーに見立てたものを壁などに吊るしたり。

昨年はハクハク茶小屋にフェアトレードのオーナメントなどを飾って、好評でした。

Happiest Christmas Tree☆ - とむやんの氣まぐれ雑想記


今年は家でやってもよかったのだけど、案の定バタバタ過ぎて。
その代わり、子どもたちがちょこっと飾れるようなツリーを考えてはいたのです。

けれど、結局それも直前まで手が付けられず。

ダンボールを蜜蝋クレヨンで色をつけて、麻の紐で吊るして。
簡易のものだけど、下2人と楽しくつくれたのはよかったかな。


そしてクリスマスイヴ。
ディナーも凝ったものはつくらないけど、普段からすれば「ご馳走」なのです。

そうそう、飾りも食事も、今年はちょこっと「デンマーク風」にしてみました。


図書館で借りたヒュッゲに関する本が、デンマークのクリスマスについてもいろいろ書かれていて。

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ケーキはつくらず、こちらもデンマーク風のスイーツを。
丸いパンケーキ、「エイブルスキーヴァー」。

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お氣付きかと思いますが、そうです、たこ焼き器でもつくれるのです。

うちにある南部鉄器のたこ焼き器、レシピは我流で。
小麦粉は不使用、卵と米粉と豆乳、甘みはマスコバド糖。

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写真ではわかりませんが、紅茶漬けしたプルーンが添えてあります。
(伝統的にはベリー系のジャムを添えるそう)

ご飯の前に、キャンドルを灯して。
クリスマスの歌もちょこっと歌ったりしつつ。

ホットワインも一応グロッグ風に、こちらはメイコがつくってくれました。


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ご飯までデンマーク風、にはできませんでした。
ジャガイモ料理が多いそうなので、取り入れたのはまあそれぐらい、かな。

カブの葉のポタージュも、鶏とジャガイモもどちらかというと和風な味付け。


さて、クリスマス当日。
今年のプレゼント、こちらもまたシンプルなものでした。

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お菓子とボードゲーム、お菓子はみんなでわけわけ。

そんな感じで、全体的に今年は穏やかなクリスマスになったように思います。


昨年ブログに書きましたが、今年の長男はサンタさんのお手伝い側にまわったようで。

Have yourself a merry little Christmas☆ - とむやんの氣まぐれ雑想記

その辺のこともまた、改めて書けたらいいのですが。

プレゼントってもらうが嬉しいのはもちろんのこと。
それが、あげる側の喜びを知ると、世界に対する認識が本当にがらっと変わる。


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(↑末っ子の描いたクリスマスツリー、かわいいので載せておきますw)



その「あげる側になること」にも、もしかしたら関連しているのかもしれませんが。

先日、キリストの生誕劇というのを見る機会がありました。
話は何となく、知っているつもりだったけど。

改めて知ってみると、キリストの人生(って言っていいのかな?)ってなんて波乱万丈なんだろう、と。

だけど、「救世主」なんですよね。
キリストの磔刑がなぜ「救い」なのか。

十字架、救い、そして罪。

クリスチャンの方からすれば、「今さら」な話かもしれません。
けれど、これに関して予め言っておくなら、ぼくはこのことに「答え」を求めているわけではありません。

ただ、ぼくがイメージしていた「救い」というものを、改めて考え直してみなければと思ったのです。

今年が西暦2019年で、キリストの生まれた次の年が「元年」ということだから。
2000年近くが経っているのに、一体何が?もしくは誰が?救われたんだろう?

2000年経った今も、妬みや恨みがあちこちに渦巻いています。

ぼくは信者じゃないし、詳しく調べたり読んだりしたことがないので、あくまでもぼくの主観的感覚です。
けれど、それはクリスチャンであるかどうかではなく、各々が今の立ち位置で考えてみることこそ、大事なように思います。

そして、「答え」は求めていない、と先ほど書きましたが。
実は、これが「答え」であろうことは、もうわかっているんです、たぶん。

それは、私たちは十字架を背負う必要はない、ただ「愛」とともにその道を行けばいいのだ、と。
「愛」のないことをしないこと、「愛」のあることをしていくこと。
それ自体は、もう間違いのないこと。

ただ、その「答え」を生きていくというのはまた別の話。
わかっているつもりでも、なかなかそれを続けていくのはむずかしいもの。

いずれにしても、今回こうして確認できたことはとてもよかったと思っています。
この辺のことはまた改めて書くかもしれません。



何度も修正を重ねているうちに、氣付いたら大晦日
もうすぐ日付が変わろうかという時間です。

2020年も、いろいろなことを細々と書いていけたらと思っています。
よろしくお願いいたします。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん