とむやんの氣まぐれ雑想記

〈探幸王〉を目指して、さまざまな想いを綴ります☆

「真ん中」にいることの無自覚さ。


前回から、一週間あいだが空いてしまった。
いや、あえて空けたのかもしれない。

あのままの勢いで書いてしまうと、なんだか「怒り」みたいになってしまうから。
「怒り」がダメ、ということではなく、このことにぼくは怒っているわけじゃない。

いや、どうだろう、部分的には「怒り」があるのかもしれないなぁ。

いずれにしても、少し寝かせてみた。


さて、今回こそは本題を書かなければ。
「真ん中」について。

これは、8月13日リリースの『IN THE MIDDLE』という楽曲についての「情報」を見たことがきっかけで。
アーティストに対しての批判をしたいわけじゃない(結果的にはそうなったとしても)つもりなので、アーティスト名はここでは書かない。

リリース情報には、こんなことが書いてあった。
【「何を信用して良いかよく分からないこの時代にあって、私たちは真ん中にいたい。」という想いが込められています】

この時点では、歌詞も楽曲もまだ公開されていなくて、この「情報」だけがあった。
コラボした2人のコメントもあるのだけど、まあ、そっちも違和感ありまくり。

抜き出して書くと。
「平等でありたい」「みんなで尊重し合って、認め合って」。
だから「真ん中にいよう」。

正直、理解がついていかない。
結論がどうして、「真ん中にいたい」「真ん中にいよう」になるのか。



『暮らしの手帖(13夏2021)』を見ていたら。
武田砂鉄さんの「今日拾った言葉たち」に、こんなのがあった。

親しみやすさという意味が大きい。『善』でも『悪』でもない中間的な感じを目指した
/復興庁の担当者 東京新聞('21.4.13)

(↓以下は武田砂鉄さんの文)
東京電力福島第一原発の処理水が海水放出されることが決まった。
処理水に含まれる放射性物質トリチウムの安全性をPRするチラシを復興庁が作成し、トリチウムを「ゆるキャラ」のようなかわいらしいキャラクターで描いたことに批判が殺到した。(以下略)


「中間的」という言葉だけど、ぼくには「真ん中」と同じニュアンスと思える。
ただし、コラボの楽曲とは違って、こちらは相当「悪意」がある。
「善」でも「悪」でもない?
トリチウムの海水放出は「極悪非道」な行為だと、わかってないわけがない。

「誤解」させようとしているわけだよね、「印象操作」だよね。
しかもそれを「善」にはできないから、じゃあ「曖昧」にしようという意図が見える。


前回も書いたけど、ぼくは自分のオリジナル曲『まつろわぬもの』に、「いいも悪いもないのさ」「右も左もないのさ」という歌詞を入れた。
だけどこれは、「真ん中がいい」という意味ではない。

「自分の意見」というのは、誰かから見れば必ず「偏って」いる。
最初から真ん中を狙おう、というような意見のもち方って、たぶんしたことがない。

もちろん、批判されたくないから、どうにか避けられないものか、とは思う。
じゃあ、そのために「真ん中でいよう」とはまったく思い付かなかったなぁ。

例えば、公権力に抗するとき、絶対に「真ん中」ではいられない。
弱者側に立つときもそう、マイノリティもそう。

だから、新聞などのメディアがこぞって「両論併記」をするのが、心底嫌いだ。

偏ってはじめて、バランスがとれていく。
それは「真ん中にいたい」という感覚とは、ぼくには真逆に感じられる。



きっと、自然と「真ん中」にいられる人たち、なんだろうな。

ぼくはずっと、端っこにいたい、と思うような子どもだった。
オトナになってからは、ちょっとは変わったかもしれないけど、でも自分が「真ん中」にいられる、なんて考えもしなかった。


申し訳ないけど、「真ん中にいよう」ということが「ステキ」だと感じる人を、ぼくは信用できない。
そのうち、「君はどうして真ん中にいかないの?」とか、「真ん中にいればいいのに」とか言い出すんだからさ。

たとえ「真ん中にいたい」と思っても、行けない人もたくさんいる。
そもそも、真ん中になんていたくない人もいる。

そう言っても、「遠慮すんなよ」とか言って、取り合おうとしないんだろうけど。

被害妄想的過ぎる?
でも、ぼくは「よくある」ことだと思ってる。

だから、この違和感をそのままにしたくなかった。



あれこれ考えてて、ふと思い出した本があった。
長いこと忘れていたのに、本当にふっと、まるで啓示のように。

『今あなたに知ってもらいたいこと』/オノ・ヨーコ

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この本の最初の章、まさに「真ん中」について書かれている。
「弱者の立場」で、ヨーコさんは「でも、私は決して強い人間ではありません。自分では弱い人間だと思っています」と書いていて。

ぼくも勝手に、ヨーコさんは強い人、と思っていた。

ヨーコさんは強い国と弱い国に例えて、こんなことも書いている。

「一方、強い国というのはそういう慎重さを要求されていない。そのため案外パッと崩れてしまうことがあります。」
「やはり弱者には弱者の生き方があるのだ」と。

【「ヨーコさん、どうぞ真ん中へ」
でも、私は、隅っこに座らせてもらいますと言いました】
【中心ではなく隅っこにいる。そうすると、いろんなことが見えてくるんです】

【どこに座るかということに神経を使ってください】
特にこの文章は衝撃的で、忘れないでいたい言葉。

これが頭の片隅にあったから、「真ん中」についてあれこれ考えていたときに思い出せた、のかも。
(それでも、本の中に「どうぞ真ん中へ」の文字を見つけたときは、あまりのドンピシャさにビックリしたけれど)



そんなわけで、ぼくはこれからも「真ん中でいたい」とは思わない。

でもだからと言って、『IN THE MIDDLE』という楽曲やそのアーティストがダメ、とは言わない。

ぼくは、「真ん中にいようとしたり、人に合わせようとしなくていい」社会にしたい。
隅っこでも端っこでも、そこにいたい人たちがいて(ぼくもだけど)、それを排除したり取りこぼしたりしない時代にしたい。

そんなことを、ぼくなりに今、歌詞に書いてみている。
タイトルと主題だけ何となく思い浮かんだものに、「真ん中」のことでモヤモヤしたことを入れてみたら、うまくはまってくれた。


そうだ、最後にひとつだけ。

先日、槇原敬之さんの『どんなときも。』のカバーをたまたま聴いて。
かなり今更、なんだけど、歌詞のすばらしさに悶絶した。

「迷い探し続ける」ことが「答えになる」って、それを「知ってる」なんて。
(だいぶ端折って書いてます)
この時代(なんとちょうど30年前!)にこの歌詞の感覚、ほんとすごい。

しかも、コロナ禍において、「どんなときも」って言葉がますます深く感じられて。

そりゃあ、ヒットするよなぁ。
(もちろん楽曲のよさは言うまでもなく)


奇しくも、ヨーコさんの本のまえがき(オビにも書かれてる)に、こんな文章がある。
【どんなときも自分らしくいることが、私にはいちばん大事なことでした】


                    せれんでぃっぽ☆とむやん