とむやんの氣まぐれ雑想記

〈探幸王〉を目指して、さまざまな想いを綴ります☆

卒業。

今週のお題「卒業」


↑「今週」、となっているけど、実は先週のお題。
しかも、ちょっと脱線した感じになるかもですが。


昨年2016年は、いろいろなことから「卒業」しました。
実際にはやめていないにしても、自分の氣もち的には区切りが付いた(付けた)ことが結構ありました。

そのときはやめない選択をするにしても、なあなあで続けてしまうのは、個人的にはあまりよろしくない。
世間的には、「継続してこそ」という風潮がありますけどね。

自分で続けたい、続けられるようにと考えられるなら、それはきっと意味のあること。
でも、人から「続けた方がいいよ」と言われれば言われるほど、やめたくなる天邪鬼な性格なもので。

いずれにしても、自分が今の感覚として「やりたいのかやめたいのか」、確かめるのは重要だと思っていて。

すべての事象は移り変わっていって、氣もちもまた移り変わるもの。


ある団体に所属していたのですが、自分の氣もちややりたいことと決定的にズレてしまったので、抜けさせてもらいました。
会の方は「当初からこの会は変わっていない、なぜやめてしまうのかわからない」と。

あえて答えるなら、年月が経っても「変わらなかったから」こそ、自分には釣り合わなくなってしまった。
だから、どちらかに落ち度があるわけではないし、仕方のないことだと思っています。
恋愛でも、氣もちの冷めてしまったものを責めてみても、埒が明かないのと似ている。

その旨を伝えたつもりだけど、うまく言えなかったのかもしれない。
残念ながら、わかってもらえなかった様子。
それも含めて、もう仕方のないことなんだろうなと。

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(↑今回も、写真は特に本文とは関係ありません、たぶん)



何となく、ものごとには「期限」というのがあるんじゃないかと思っています。

昔、小学生の頃によく遊んでいた友だちがいて。
中学生になって、それぞれ違う学校に行ったから、会う機会もなくなって。
あの頃はそういうのが何だか「軽薄なんじゃないか?」とか思っちゃったりして。

ふと、電話をしてみたんだと思います(記憶がもうだいぶ薄い)。

なんか当然、相手の反応もトーンが低い。
ちょっと傷付いた感もあったけど、それ以上に「これでいいんだ、離れた縁はほっといてもよかったんだ」って、妙に納得できて清々しかったというか。

ご縁って、無理につなぎとめるとか、できないんだなぁって。
とは思いつつ、その後も同じような痛い目(?)も、数多くあったけど(笑)



今年は「チームで動く」というのも、テーマのひとつ。
それは「狎れ合い(なれあい)」とは違う、あくまでもチームは「個の集合体」であるということ。

だから、目指すものが変われば、チームも当然流動的になる。
それでいいんだと、最近は特にそう思います。


「今」という瞬間に、偶然的に集まったメンバーというのは、不思議とある種の〈正しさ〉を感じたりして。
その場合の〈正しさ〉は、人によるジャッジを超えている、本当の〈正しさ〉。

自分がいるべきでない、やるべきでないことを「やめる」ようになってから、そういう場面が確実に増えてきていると感じています。


自分は、自分のことにだけ責任をもてばいい、ということ。
「やらされている感」で動いていると、余計な〈カルマ(業)〉をつくり出すことになってしまうのだとか。

また、他人への干渉や心配なども、やはり新しい〈カルマ(業)〉を生んでしまう。
〈カルマ(業)〉は悪いわけではないけど、わざわざ宿題を増やしても仕方がない。
(と、ぼくは捉えてますが)


「卒」は、「死/death」を表す漢字。
元々の意味から離れるかもだけど、「卒業」ってのは「〈カルマ(業)〉を解消」していくことなんだって、そんな風に捉えてみる。

本当の自分の人生を引き受け、取り組んでいったら、いずれ死が訪れる。
いつか死ぬ日は来るのだから、そのときは大きな「卒業」を迎えられるように、日々自分を貫いていきたい。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん