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とむやんの氣まぐれ雑想記

“探幸王”を目指して、さまざまな想いを綴ります☆

Let 'Em Eat Cake


受動喫煙の防止策を非公開で議論した自民党厚生労働部会で、たばこの煙に苦しむがん患者の立場を訴える議員の発言に、「(がん患者は)働かなくていい」というヤジがあった、というニュースを見ました。

ヤジを言った自民党大西英男衆院議員は失言と認め、謝罪。
ただし、「喫煙可能な店で、無理して働かなくていいのではないか、との趣旨だった」と釈明、発言の撤回はしなかったという。



先に断っておくけれど、これについて「かばう」つもりはまったくありません。
けれど、こういう失言などの問題を、きちんと追及できていないのは、個人的にとても残念です。

かと言って、こういうときに「疑ってかかれ」というのも、それはそれでしんどい。
真に受けるでもなく、鵜呑みにするでもなく、「話半分」ぐらいの感覚でいいんじゃないか、と以前書いたことにも関連しそうです。

話半分。 - とむやんの氣まぐれ雑想記


こういうとき、逆に決めつけて断罪するような方法では、かえってのらりくらりと「逃げられて」しまったり。
なので、もうひとつ「相手の上手(うわて)に行く」ことを、地道にやっていけたらいいんじゃないか?と考えています。

残念ながら、日本の大手マスコミの人たちは、その辺のことにあまり関心がないようですけどね。
それとももしかして、あえてやってるいるんじゃないかって、穿った見方すらしてしまいます。



さて、最初のニュースのことに話を戻します。

この発言を受けて、がん患者の団体が反発をしたと言います。
「がん患者は働かなくていい」という風に捉えて、昨年成立したという改正がん対策基本法に逆行すると受け止められている、というのですが。

大西議員の釈明を見ると、一応「話半分」でも聞く耳をもってみると、その受け止め方はちょっと言葉の表面だけを捉え過ぎかなと思います。

つまり、「がん患者は働くな」と言っているわけではなく、「何もわざわざ喫煙可能なところを選んで働くことはないだろう」ということのようです。

でも、ちょっと待って。
それはそれで、実は結構問題ある発言だと、ぼくは思います。

それって、マリー・アントワネットの「パンがないなら、お菓子を食べればいいじゃない」発言に似たものを感じるのです。

ひとつ補足しておくと、この発言はマリー・アントワネットのものではないのだそう。
ちなみに、この台詞はジャン=ジャック・ルソーの自伝的な『告白』に、「たいへんに身分の高い女性」の言葉として紹介されたことが典拠となっているようで。
もしくは、「ルソーの考えたアネクドート(小咄)だ」との説もあるみたいです。

いずれにしても、「いかに庶民感覚とズレているか」を表している言葉としては、とてもわかりやすいと思います。

もし、本氣で「喫煙可能な店で、無理して働かなくていいのではないか」と考えての発言だとしても、それはそれで問題ありです。
それはがん患者に限らず、庶民がどういう労働実態なのか、もしくはなぜ今「受動喫煙の防止策」を話し合わなければならないのかが、全然わかっていないのですから。

「鬼の首を取ったかのよう」に追い詰めたり、論破してスッキリしたくなるのはわかるけど、それでは問題は本当の意味で解決しない。
その辺のことをただ叱責するのではなく、質問等を通してつまびらかにする、そういう手法をもっと学んでいきたいものです。

そういえば、「刑事コロンボ」ってそういう感じじゃなかったかな?
冴えない見た目、ユーモアを交えた駆け引き、相手を油断させ焦らせて自滅させていく。

帰るかと見せかけて、「もう1つだけお聞きしたいことがあるんですが…」と、相手をイライラさせるシーンは、特に印象的ですよね。


結局「印象操作」に終始してしまうのは、本当につまらないことだと思います。
それでは残念ながら、太刀打ちできない。


そうそう、江戸時代中期に米不足が深刻化したとき、北町奉行の曲淵景漸(まがりぶちかげつぐ)が、「昔は米がないときは犬を食った」「町人は米を食わずに麦を食え」と放言、江戸市中での大規模な「打ちこわし」に発展したという話があるそうです。
ところが、これもまた発言の真偽は不明、風説が流布したものではないかとの説が有力なようで。

真偽不明な点はどうかと思うのですけど、今とは全然違って、町人は「ちゃんと」不満が爆発したんですね。
もちろん、「打ちこわし」という手法がいい、と言っているのではありませんよ。

弱者の立場を無視した、もしくは寄り添うことのできない論理での「放言」が至るところで聞かれる昨今、それにどう対処していくのか。
これからもいろいろ考えて、書いてみたいと思います。


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↑写真は先日、久々に行ったcafeネンリンで撮らせてもらったもの。

先述の「お菓子を食べれば」発言の「お菓子」は、「ブリオッシュ」を指していたらしいです。
リング型のドーナツは、19世紀中頃に登場したとされているので、どっちにしてもマリー・アントワネットとは関係がありません(笑)


                    せれんでぃっぽ☆とむやん

〈個活〉のススメ。


先日書いた、「ちくちくスイーツの会」、行ってきました☆

「ちくちくスイーツの会」。 - とむやんの氣まぐれ雑想記


とにかくおもしろかった♪

話も、最初にテーマに掲げていた〈モテ〉にとどまらず、くだらないことを大真面目に、いっぱい喋っていっぱい笑った一日でした。
ウクレレのセッションタイムもあったり、幸せな珈琲ブレイクがあったり。

話の内容も含め、また改めて書くつもりでいます。



その「ちくちくスイーツの会」で、初めましての方に1月+2月の「わたし誌」を渡しました。
(今まだ3月+4月分ができていない、もう5月後半ですけどね…)

わたし誌。 - とむやんの氣まぐれ雑想記


そしたら、「ブログ読んで、知ってます」と、嬉しいお言葉♪
こういう地道な楽しみは、見返り的なことを求めてはいなくても、それでも反応があるとやはり嬉しくなるものです。



「ちくちくスイーツの会」の次の日の日曜日(昨日、2017.5.21)。
アトリエイチイチを主催する友人が、「月イチスケッチの日」という企画を始めたので、行ってきました。

ichi◯ichi/Blog


ぼくは珈琲のセットとウクレレをもって、場所は琵琶湖畔の緑地公園。

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ただみんなで集まって、スケッチしたいときに各々スケッチをするだけ。
でも、それだけだからこそ、その友人が告知を出したときの反応がすごかった。

みんなスケッチというものをしてみたい、ということもあるのでしょう。
そしてそれ以上に、そういうゆるい会こそ、みんなが求めているものでもある、そんな氣がしています。

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結局集まったのは、大人子ども合わせて21人。
集まるべくして集まった会というのは、なんて居心地がいいんだろう。
(ぼくも一枚だけ描きました)

「ちくちくスイーツの会」もまさにその感じだったし、その主催側である友人3人が「月イチスケッチの日」にも来ていたのもまたおもしろい。

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いろいろな点でつながっている、人と人だけでなく、何か大きな流れ。
それぞれが一応完結している短編、でも一冊を通してリンクしている部分がたくさん見つけられる小説、そんな印象。

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そういえば、「ちくちくスイーツの会」主催の友人は、文字通り「ちくちく」の続きをしてました。
その感じがまた、よかった☆


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あれをしちゃいけない、これをしなきゃダメ、そういう制約や強制が何かと多いご時世だからこそ、こういう会が必要とされているんじゃないかな。
普段は抑圧されがちな、本当にやりたいことだったり、自分の本音だったり。

子どもって結構、そういうオトナの姿を見ているんだと思います。
すぐにそれを察知して、ますますやりたいようにやる。

ウチの長男は、バーベキューしに来ていたご家族の子どもと、虫捕りしたり野球したりして。
大人の描く絵に影響受けて描く子がいたり、マイペースに自分の世界観で描く子がいたり。

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言うまでもなく、多様性って自然と生まれてくるもの。
人がこねくり回し過ぎてしまうと、わざとらしくなって、おもしろくなくなってしまう。

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それぞれの描いた作品を木の下に並べて、青空展覧会。
いい感じにバラバラで、統一感がないっていうのもまたいいな、って。

変に「毛色の違う」、はみ出すものを嫌う風潮があるだけに、尚更そんなことを思ってしまうのかも?



誰の言葉だったかな、「変革は辺境から起こる」んだそうです。
この場合の「辺境」を、どう定義するのかな。

ぼくは、「変革は〈個活〉から始まる」と言いたい。
「個」というのもまた、「辺境」と近いニュアンスをぼくは感じるので。

〈個活〉とはもちろんぼくが勝手につくった造語で、要はひとりで好き勝手に楽しくやっていること、と言えばいいのかな。
かと言って、特に変革を起こそうとしているわけではなく、誰に頼まれたわけでも、マーケティングの結果でもない。
拡大路線でもないし、隠れてコソコソやるわけでもない。

「ちくちくスイーツの会」もそういう感じ、「月イチスケッチの日」も、そう。

「月イチスケッチの日」主催のあーちゃんと喋ったとき、「誰も来なくても、たぶんひとりでもスケッチしに行くと思う」と言っていて。
一方で、「でも、自分ひとりで描きに来たら、きっとここまで集中できなかった」と。

だから、「場」や「機会」は提供する、あとは受け取る側の自由意思に任せる、委ねる。
どちらの会も、真似して違う人が違う会をやってくれたら、それもまたおもしろい、というスタンスだったり。
コピーレフト」的な感覚と言っていいだろうか、ぼくの「わたし誌」もそんなつもりでいたりします。



もう一例だけ。

ぼくの敬愛する「なないろつーしん」発行人のななっちゃんが、「ナナイロつーしん映画部」というブログを、今年の3月から始めました。

ナナイロつーしん映画部 – @和室上映会


彼女はときには映画館で、ときには「和室上映会」で、一日に何本も映画を観たりしているそうで。
つまり、基本ひとりっきりの上映会。

ブログをちょっと見ただけでもわかるように、ジャンルなどにあまり偏りがなく(本人的にはあるのかもしれない)、幅広いのが魅力だなと思います。
正直、自分では絶対選ばないだろうなと思う映画もあって、でも彼女がオススメしているなら観てみたい。

この「ナナイロつーしん映画部」もまた、反響が大きいようです。


そうそう、もうひとつだけ。
ぼくが以前、「【個別的】くらしとせいじカフェ」と称して開いた会も、妙に反響がありました。

【個別的】くらしとせいじカフェ☆ - とむやんの氣まぐれ雑想記


まあ、よくよく考えてみると、ぼくが今やっていることの半分以上が、〈個活〉なんですけどね。

ぼくが勝手に「師匠」だと思っているみうらじゅんさんは、まさに〈個活〉の達人だと言えるでしょう。


これから、ますます〈個活〉がおもしろくなるんじゃないかな、期待も込めつつ。



最後に、おまけ。
「月イチスケッチの日」、ブログ仲間のたろちゃんが似顔絵を描いてくれました♪

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これをさらっと描いてしまうたろちゃん、すごいなぁと改めて。
しかも、いい感じで美化してくれてますね(笑)

そして、たろちゃんの長男くんも、ささっと似顔絵を描いてくれたのです。

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自分でも、これは似てると思う。
いや、いい意味で似てる似てないを超えている。

こういうのは、本当に嬉しいものですね、ありがとう♪


                    せれんでぃっぽ☆とむやん

〈普通〉の人。


ぼくは〈普通〉の人にはなりたくない。
たぶん、なりたくてもなれないだろうし、今までもそうだった。


なんて言ったら、「でも、〈普通〉って何なの?」と、あなたは首を傾げるかもしれない。
もしそうなら、それはいい傾向だ、と個人的には思う。

そう、そもそも〈普通〉なんて「ない」んじゃないか、「幻想」なんじゃないかと、ぼくも思う。
けれど一方で、たとえそれが「幻想」だとしても、漠然としてはいても、世の中には確実に〈普通〉という基準がある。

そしてその〈普通〉は「高嶺の花」ではない、〈普通〉の人が〈普通〉の暮らしをする、それは「権利」に近い感覚すらもっているんじゃないか。

最近は、「すぐ権利だ権利だと言う」と批判する人がいるが、ぼくはそう思わない。
けれど、もし〈普通〉が「権利」として当たり前、と思っているとすれば、それは思い違いだと言いたい。

例えば、いわゆる途上国の人々を考えれば、〈普通〉が実はかなり贅沢なんじゃないか、と思えてきたりしないだろうか?


けれど、現代の日本において、〈普通〉は簡単に手に入りそうにも思える。
できるだけ波風を立てず、メンドウを避け、不条理だと思ってもガマンして、その代わり陰口やお酒に逃げたりして。

そうやって必死で追い求めても、それでも〈普通〉はなかなか手に入らないのか。
それとももう手にしているのに、イメージした〈普通〉と違うからと、いつまでも探し続けているのだろうか。

〈普通〉でいたいと思う人は、そのことを検証しようとはしない。
だから、〈普通〉とは何ぞや、もしくは共通認識としての〈普通〉とは?という定義付けを、ここではあえてしないでおく。



高校の国語の時間に、先生が質問をしても、誰ひとりとして手を挙げなかった。
黙ってうつむき加減で、教科書を見つめているばかりだ。

ぼくはその先生(男性)が好きだったし、授業もおもしろかったので、せっせと手を挙げた。
今でも憶えているのは、「戦争はなぜいけないのか?」という質問。
このときも、教室にはぼくしかいないのかと思うくらい、周りは静かだった。

たぶん、こういうときは「黙って無関心を装う」のが得策で、それを繰り返していれば、本当に無関心に「なれる」のだろう。
それこそ、〈普通〉の人の〈普通〉の生き方。

そうやって、ことあるごとに「ぼくは〈普通〉には生きられない」ということを、受け入れていったような氣がする。
昔はそれでも、そういうことがコンプレックスだったときもあって、まるで「貧乏くじ」を引いた氣分だった。

でも今、つくづく思う。
〈普通〉なんてぼくにはつまらない、ぼくは〈普通〉の人になりたくないし、なりたくてもなれないだろう。

なんてラッキーなんだ。



ところが、そうも言っていられなくなってきた。
〈普通〉でない人は、社会からはじき出される、そんな時代が再びやってくる氣配。
それはまるで、行き過ぎた潔癖症みたいだ。

潔癖症を悪く言っているわけじゃない。
ただ、それが強迫観念的に、すべての「菌」をワルモノと思い込んでしまうような、それは「潔癖症」ともまた違うのかもしれない。

いずれにしても、〈普通〉の人であろうとする今までの暗黙の了解さえ、これからは通用しなくなる。

いや、そもそも通用していたときがあったのだろうか?
まあいい、どっちにしても以前よりも簡単に、〈普通〉というものがその手からサラサラとこぼれ落ちていくだろう。

これからは、自分の主張ひとつしただけでも、〈普通〉の人ではいられなくなる。
全然、大袈裟な話じゃない。

「〈普通〉であることを証明する」なんて、たぶんできない、〈普通〉が何なのか、誰にもわからないのだから。
それなのに、「〈普通〉でないレッテルを貼る」のは、なんとたやすいのだろう。

印象操作なんて、いくらでもできる時代。
〈普通〉の人が、〈普通〉の生活を守るために、簡単に「人を売る」だろう。
本当に、それは全然杞憂なんかじゃない。


今日、「最近また強くなった、学校行事に積極的なパパに対する周囲からの不審なまなざし」という記事を読んだ。
結びに、「本当世知辛い世の中ですよ!」とあるのだが、「世知辛い」なんて生易しいもんじゃない。

「ピンクの靴を履いている中年男性は珍しい」というだけで職質されるなんて、世も末だと思う。


そして今日、近くの小さなコミュニティセンターの印刷機を使わせてもらったのだが。
受け付けで、「どんな内容ですか?」と聞かれ、内容をチェックされた。
今まで何度も使わせてもらっているが、こんなことは初めてだし、何の権限があるというのだ?

はっきりと犯罪者という人がいるとして、その人が目立つピンクの靴を履いているだろうか?
10数枚の印刷をしに、わざわざ地域のコミュニティセンターに行くだろうか?

そんなことで犯罪が抑止できると考えているのなら、相当にピントがズレている。
犯罪防止以外の理由があるんだとしても、プライバシー侵害だと思う。

もし、印刷するものが政府に批判的なものだったら、印刷を止められただろうか?
もしくは、こっそり通報されたりしたのかもしれない。

残念ながらこれからますます、そういうことが頻繁に起こってくる。
その先は、冤罪ばかりが増えていき、本当の悪行は見逃されていくわけだ。

それが冤罪かどうかなんて、チェックさえされなくなる。


例えば、隣人が氣に入らなかったら、何かの疑いで通報すればいい。
ひとりの市民が「嫌疑」をかけられたとき、それを払拭するのは意外とむずかしい。

政治家など、権力のある人にとっては「嫌疑」など揉み消すことも簡単なのだろう。
だから、もしかしたら本氣でわかっていないのかもしれない。

メディアやその視聴者などは、もう「無罪の推定」など消滅してしまったかのようだ。
「容疑者」を、犯罪者扱いしてしまう傾向がますます強くなる。
もし、晴れて無実が証明されても、メディアは取り上げないし、周囲の偏見は消えることはない。

「メディア・リンチ」や「インターネット・リンチ」と呼ばれるものが、当たり前のようになってしまった。
どんなに〈普通〉に徹していても、「嫌疑」がかけられた時点で、ひとりの市民の〈普通〉なんてあっけなく潰される。

悪意のある「正義」の横行、と呼んだらいいのだろうか?
そういう「私的制裁」が、いつの間にか「解禁」されたかのようだ。



何だか、今日の文章は「ただ不安を煽っている」と捉える人もいるかもしれない。
もしこれがただの杞憂なら、単なる被害妄想だと言うなら、それはそれでいい。
そして杞憂だと思いたい人にとっては、無視したいことかもしれない。

けれどいつか、「こんなはずじゃなかった」と、ぼくは言いたくない。

だからこそ、ただ不安になるのではなく、変えていこうとすればいい。
逆に言えば、変えていきたいと思っているから、こんなことを長々と書いている。


さっきfbで、「国連プライバシー権に関する特別報告者が、共謀罪(テロ等準備罪)に関する法案はプライバシーや表現の自由を制約するおそれがあると懸念を示す書簡を安倍首相宛てに送付した」という記事を見た。

市民ひとりひとりの意識が、とても重要になってくる。


今回も勢いに任せて書いたので、全然まとまらなかった。

最後に、ノーム・チョムスキーの言葉を引用して、終わりにしようと思う。
【お望みなら、好きなだけファンタジーにふけることができます。しかし、選択するのはあなたです。】(映画『チョムスキー 9.11』公式カタログ/p55)

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                    せれんでぃっぽ☆とむやん

「ちくちくスイーツの会」。


考えることが多過ぎて、逆に何を書けばいいのか、わからなくなる。

今はまさに、「無理が通れば通り引っ込む」で、こちらの思考が麻痺してしまいそうだ。
こんなときだからこそ、考えるのをやめたくないし、やめたりはしない。
このままで、いいはずがない。


この社会を「自分のもの」と思い込んでる人たちは、完全に市民を小馬鹿にしている。

ちなみに、「馬鹿」には語源の俗説として、史記の「指鹿為馬(鹿をさして馬となす)」からと言われているらしい。

秦の二代皇帝の時代、趙高という宦官が、「珍しい馬が手に入りました」と、鹿を皇帝に献じた。
皇帝は「鹿ではないのか」と訪ねたが、趙高は「馬に相違あるまい?」と周囲の者に聞いた。
彼を恐れる者は「馬だ」と答えたが、彼を恐れぬ者は鹿と言い、後に暗殺されてしまったという。

まさに、今に通じる話じゃないか。

でも、今日はこの話がしたいわけじゃない。
この先、「鹿だ」と〈馬鹿正直〉に答えられない風潮が、ますます強くなりかねない。
だからこそ、本当に賢く生きる術を、考えなくてはいけない。

簡単に言えば、難解なことや否定批判だけでは、どうも次に進めない
楽しいことを淡々と、もしくは耽々とかもしれないが、やっていくだけだ。



前置きが長くなってしまった。
今日書きたいのは、「ちくちくスイーツの会」のこと。

「ちくちくスイーツの会」とは、ブログ仲間のたろちゃんの家(京都桃山)で、ちくちく針しごとをしたり、お喋りしたり、そんなゆるい(もちろんいい意味で)集まり。
たろちゃんのパートナーのあっちゃん主催で、undertreeのすこやかなおやつもある。

何がいいって、まず名前がいい。
それに、「ちくちくしない人も」大歓迎、子どもも大歓迎。

7回目の今回、ぼくはゲストとして呼んでもらうことになった。
ちょっとエンターテイメントな、トークセッション形式。
なんて光栄なことだろう♪

「ちくちくスイーツの会」にはサブタイトルがあって、「ちょこっと政治とくらしの話をしよう」となっている。

何を話そうか?
たろちゃんと話したいのはどんなテーマだろう?と考えて…。


〈モテ〉について、話したいと思う。
そう、異性に〈モテ〉る〈モテ〉ないなどと言う、その〈モテ〉について。

〈モテ〉なんて、「政治」や「くらし」に関係あるのか、訝しく思うだろう。
こじつけるわけでもなく、〈モテ〉は重要な意味をもつ、とぼくは本氣で思っている。

そもそも、〈モテ〉をどう定義するか、そこから話す必要があるかもしれないけど。

いずれにしても、正攻法では通用しないし、何よりおもしろくない。
真面目に、大いにふざけて、「いい加減な」話ができたらと思う。

ちょっと驚くような意外性こそが、キーになるんじゃないか。
世の中、実は「驚かしたもん勝ち」なんだと、最近秘かに思っている。
(ここで言う「勝ち」というのは「勝ち負け」というより、「成功」とかにニュアンスが近いかな)


興味ある人は、是非「ちくちくスイーツの会」へ。
5月20日[土]の13時から18時(だいたい)、途中参加&離脱自由。

ぼくの話を聞かなくてもいいし、ちくちくしてもしなくても、ケーキだけ買いにくるのでもいい。
ちょっとでもピンと来たら、ご連絡ください、詳細お教えします。

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先月の「ちくちくスイーツの会」は、妻が参加。
写真は、そのとき買ってきてくれた、いちごのショートケーキ♡
undertreeのおやつ、ほんと美味しいですよ。


そうそう、あっちゃんがやってる「みるまに‐mirumani‐(数秘と刺繍)」と、「undertree (すこやかなおやつ)」。
5月27日[土]に京都の選佛寺というところで、『うむ』というイベントの本堂マルシェに出店予定だそうで。
なかなかおもしろそう、ぼくは行かれないのだけど、氣になる方はそちらも要チェック☆


                    せれんでぃっぽ☆とむやん

自分なりの、マルシェの楽しみ方。


ここ最近はマルシェイベントが人氣で、もちろん流行りに便乗しただけってモノもあるだろうけど、傾向としてはとてもいいなと、個人的には思っている。
ということは、以前にも書きましたが。

ほっと縁市《東京・赤羽》と、これからのマルシェに思うこと。 - とむやんの氣まぐれ雑想記


それぞれがさまざまな趣向を凝らして、来場者も各々の楽しみ方を見つける。

「思考停止な消費」ばかりが推奨される今の「一般マーケット」では、そういうことはなかなか経験できないだろう。
多くの人が、そんな現状に嫌氣が差したり飽き飽きし始めているのだと思う。

当然、そこはまだまだ過渡期なのだろうけど、それだけに「変革の時期」にこそドップリ浸かってみると、かなりおもしろいんじゃないか。

最終的に、時間的にも空間的にもとても小さいながらも、自分たちのコミュニティを構築していく、その第一歩であり、「これこそがマーケット」になっていくだろう。



まあ、大袈裟な考察はこれくらいにして。
ちょっと自分なりのマルシェの楽しみ方を、今回は書いてみたいと思う。

言うまでもなく、あくまでも「こんな楽しみ方もある」という一例であって、自分も常にこうあらねばとか、これが正しいなどというものではない。


ぼくにとってのマルシェイベントの原点は、「東京朝市アースデイマーケット」だと言っていい。
埼玉にいたときは、毎月のように通っていた。

渋谷駅、もしくは原宿駅から少し歩いたところ、代々木公園のけやき並木に「竹テント」がずらりと並ぶ。
大都会の人混みを進んでいくギャップが、個人的には好きだった。

ここでの出会いや買いものが、自分たちに与えた影響は計り知れない。
今のライフスタイルの原点でもあるかもしれない。


そんなアースデイマーケットも、滋賀に来てからはなかなか行くことがなかった。
昨年の春、たまたまタイミングよく開催していたので、久々に行くことができた。

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一年前なので、一番下の子も、まだ幼い感じがする。
(もちろん、今でも幼いのだけど)


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こんな風に、「竹テント」のブースが並ぶ。
この竹でつくるテントがまたおもしろい取り組みなのだけど、滋賀の友人がそれをもっと身近な形にバージョンアップさせていて、その辺はまたいずれ書きたい。

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以前ほどは「顔馴染み」の出店者さんは減ったけど、このときも何組かの出店者さんと「再会」を楽しんだ。

当時は長男を連れて、妻と3人で行くことが多かった。
月一の開催なので、長男に「大きくなったね~」と声を掛けてもらったり、たくさんの出会いと別れがあった。


そんな中、ぼくたちの「買いものの仕方」というのが、だいぶ変わっていったように思う。

ひとつは、ここでの買いものが、自分たちの月の出費の大半を占めるようになったこと。
アースデイマーケットでは、服や雑貨も買えるので、マーケットに通う度に服装も「それ風」になっていった氣がする。

もうひとつは、「残りものに福がある」を、実感したこと。

最初はほしいものを確実にゲットしようと息巻いていたのだけど、むしろ残っていたものにこそ、「ご縁」があることに氣付いた。

マーケットというのは、その回によって、売れ行きがまちまちだったりする。
そもそも、いわゆる「客足」だって、天候やその他の理由で波があるもの。

いつもは即完売してしまうものが、その日はまだ残っていたりだとか、そういうときにこそ買う、という風に意識的に変化していった。
必然的に、「人とはちょっと違う行動」って、実は喜ばれたり、自分自身も嬉しいことがあったり。

だから、滋賀に来てからも、マルシェやそれ以外のときも、「残りものには福」の精神でいるようにしている。
ときには「確実にゲット」することもあるし、買いそびれてちょっと残念だなって思うこともある。

でも、「ご縁」に従ったときの方が、どうやら自分には心地いいと今のところ思っている。



そんなわけで、「残りものには福」作戦、先月のことをひとつの例として挙げてみる。

草津にあるスムースと言う木造住宅の会社が、毎月第一日曜日に事務所兼ショップの敷地内で開催する、「スムースマルシェ」というのがある。
この「スムースマルシェ」は立ち上げ当初から結構な賑わいで、3年が経った今でも根強い人氣を誇っている。

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よくあるマルシェよりもちょっと早めの14時終了なのだけど、昼前にはもう完売になるお店がたくさんあったりする。

ここのおもしろいところは、来場者の多くがとてもオシャレだったり、普段あまり接点のない感じだったりする。
つまり、他のマルシェではあまり出会わない、「独自の客層」という印象がある。

実際、会場は洗練されているし、出店もとても魅力的だったり。

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ただのブームではなく、きちんと理念をもって開催しているんだろうな。
だからこそ賑わい、続いているんだとぼくは理解している。


そんなスムースマルシェ、先月ぼくは13時頃に行った。
出店者さんに「来るの遅いよ~」と言われたり、それがまた楽しい。

実際、この日も完売やsold outが目立つ。

「茶ノ木パン」のパンは既に完売していたけど、チャイはまだ残っていたので、早速買う。
「一丁焼きこたろう」のたい焼きと、室内でいただく。

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「結び月」のカレーがかろうじて残っていたので、それもいただく。
もうこの時点で、かなり満足。

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あとはお土産、自分用と妻用と。

まずは自分用に、「La chaine(ラ・シェーヌ)」のタルト ・オ・フレーズ。
Facebookで見て、これは食べたい!と思っていたので、残っていて嬉しい。

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崩れないように、もって帰るのに苦心しつつ。

そして、自転車でもって帰るには難儀なものが、もうひとつ。

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「ウル―ウール」の季節のお花。
パンはいつもすぐに売り切れてしまうので、買えなくて残念。

でも、こういうところで氣軽に花が買えるのはありがたい。
記念日に花屋に行って…というのは結構ハードルが高いので、「いい花があったらプレゼントする」ということにした。
妻は喜んでくれたので、買って帰った甲斐があるというもの。

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「MANMA」のレモンケーキとスコーンは、夜の大人のおやつ用に。


とまあ、こんな感じで、終了間際もそれはそれでかなり楽しめる。
人も少ないので、出店者の方とお喋りもしやすいし、並ぶこともない。


スムースマルシェ、次回は実は明日の開催。
GW最終日の5月7日[日]、10時から14時まで。

ぼくも行くつもり、ただちょっと体調がイマイチなのでどうしようかな。

スムースマルシェ、まだ未体験の方は、是非どうぞ。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん

「こどもの日」と、《香味Labo》のこと。


今日は5月5日、こどもの日。
(旧暦五月五日は、5月30日ですが)

お昼頃、あかね軒さんで柏餅(と、どら焼きもひとつ)を買ってきました♪

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(↓以前に書いた、あかね軒さんのこと)

季節の和菓子☆ - とむやんの氣まぐれ雑想記


あかね軒さんは「御餅菓子」屋さんなので、餅が本当に美しい。
(↓写真はちょっと間抜けた感じがしますが…)

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「なんちゃって」的なノリではあるのですが、先月から家で「お茶会」をしていて。
あかね軒さんの主菓子で、毎月季節の和菓子をいただくことにしています。
(あかね軒さんの主菓子は、予約制だそう)



本当は、「こどもの日」に絡めて、憲法の話の続きでもちょこっと書くつもりだったのですが。
先週から、家族が寝込んできた順番が、どうも回ってきたらしく…。
ちょっと熱っぽいので、ひとつ告知だけして、今日は締めたいと思います。


以前、《香味Labo》という「思い付き」のことを書きました。

香味Labo☆ - とむやんの氣まぐれ雑想記


珈琲をもっと氣軽に楽しめたらいいなという趣旨で、「愛好会」や「珈琲サークル」のようなものができたらいいなと。
今までは、「自宅アパートde珈琲スタンド」や、フェアトレードコーヒーの販売などをしてきました。

それに加えて、珈琲のことやカフェのこと、淹れ方や道具についても、何かの形で紹介したり、情報を共有したりできないかなと考えていました。

ということで、《香味Labo》のFacebookページを今日、立ち上げてみました☆


珈琲だけでなく、お茶だったりカカオだったり、番外編的にスパイスやハーブのこともUPしてみたいと思っています。

ページの方には、早速ひとつ投稿してみました。
あかね軒さんのどら焼きを、珈琲淹れて、いただきました。

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それで、《香味Labo》のFacebookページのURLを貼り付けようと思ったんですが。
うまくいかないので、また後日試してみるか、別の方法を探ることにします。

追記【2017.5.7】
ページのユーザーネームをつけてみたので、これなら飛べるかなぁ?

https://www.facebook.com/enjoy.coffee.labo/


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                    せれんでぃっぽ☆とむやん

憲法記念日。


今日、5月3日は憲法記念日
せっかくなので、今日は「憲法」のこと。


憲法」の話になると、決まって「憲法改正」論議になってしまう。

でも、そもそも「憲法」って何のためにあるのか、そこが案外語られない。


たとえば、第99条。

憲法を守る義務があるのは、天皇、大臣、議員、裁判官、公務員。
国民には義務はありません。


ぼくも、10年ほど前にこれを知って、とてもビックリした。
知ったきっかけは、『この国が好き』という、鎌田實さんの本を読んだから。
上の文章は、その本のオビに書かれたもの。

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その本の「あとがきに代えて」の中で、永六輔さんが「99条が憲法の要」という話をされている。

ぼくの周りでは、それを知らない人はほとんどいないけど、今でも知らない人はたくさんいるし、知ったとしても頭の中が簡単には切り替わらなかったりする。

学校で、少なくともぼくはそういう風には習わなかった。
むしろ、「国民の三大義務」なんて教わり方をするから、誤解が生じるんじゃないだろうか。
(「義務」という言葉を、改めて考えてみたい)


そして、その「憲法」を守らなかった権力者はどうなるのか?
そこがイマイチわからないし、改憲論争の前にすべきことなんじゃないのか。

(「付随的違憲審査制」や「憲法裁判所」について、調べてみないとなぁ)



最近では、タレントなどが不倫をすると、ものすごいバッシングするくせに。
憲法を無視したような発言や法案が、現政権では特にスルーされたりしている。

これじゃあ、ただの「正義の矛を振りかざした、弱い者いじめ」じゃないか、とさえ思う。
(そのことについては、また改めて掘り下げてみたい)


「権力」をもてば、誰だって暴走しがちなもの。
それによって、さまざまな歴史的悲劇が繰り返されてきた。

まず、そのことを知っておく必要があるんじゃないか。
そして、だからこそ「憲法」という、歯止めが大事なんだよね。

一時期、「ブレーキのない自転車」ってのが問題になったけど。
今はまさに歯止めの効かない、誰もブレーキをかけられない政治になっていて、それを許してしまっている状態だと言える。
本当にそれでいいの?

これからは、「上からのお達し(ちなみにこれは「重言」なのかな?)」で動くことをやめる、自分で考えて人や世間に流され過ぎない。
そういうことを踏まえないと、「憲法」の本当の意味が見えてこないんだと思う。



考えていたことがいろいろあるんだけど、どうも思うようにつながらない。
たぶん、「憲法」そのものについてもそうだし、「人権」や「権利」について、まずはもっと考えてみたらいいんだろう。

それには、本当の意味での自主的な「憲法私案」づくりとか、できならいいな、なんてことも思っている。


(以前、「憲法」について書いた記事は、こちら↓)

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