とむやんの氣まぐれ雑想記

〈探幸王〉を目指して、さまざまな想いを綴ります☆

2023年を振り返る。


2023年もまた、ブログを全然書けなかった。
この振り返りも、あと1時間ほどで年越し、という中で焦って書いている。



今年のことで、書き残しておきたいのは。

フリーペーパー「音沙汰」を出したこと(8月と12月)。
音楽のソロ活動で、芥知之介を名乗り、初のライブ「音沙汰LIVE」をしたこと。

野洲のル・シエルが年内で閉店と聞き、曲をつくりライブをしたこと。
そのときの名義は、芥知之介とLe Cielラバーズで、オリジナル曲は『フカフカ』というタイトル。

インボイス制度」が導入されてしまい、暗澹たるきもちになった。
地道な音楽活動もやりづらくなるだろうけど、なおさら自分の「オリジナル曲」を売るようなマネはしたくない、と思った。
ちょうどそのとき、岡本太郎は自分の絵を売らなかった、と知った。
金もちの部屋に飾られるだけでは、作品の意味がない、と。

音楽はその点、広がることができるわけだけど、それはそれで「お金にならない」という問題にもなるだろう。
今だって、いくらオリジナル曲をつくったところで、一銭の儲けにもなっていない。
それを、ライブなどで披露して、チケットや投げ銭などで稼がない限り。

でもともかく、金のために曲を書く、ということは元々できないのだ。

『フカフカ』も、あくまでもル・シエルに対してのLOVE SONGだ。
(内容についてはまた、別のブログに書くつもりではいる)

ル・シエルのライブで披露して、ライブ自体は交通費+アルファをいただいた。
それとは別に、企画呼びかけのひとり、よんちゃんから「たまパン」のシュトーレンをもらった。


うちにとって、このシュトーレンは特別なものだ。
けれど、今年は買うタイミングがなく、諦めていた。

オリジナル曲を書いた報酬が、これ、という単純な話じゃない。
だけど、結果的には自分の「ほしい」と思ったものが報酬として手に入った。

これは何だか、とても示唆的に思えた。
これからのひとつのモデルケースとして捉えてもいいのではないか。

もうひとつ書いておくと。
12月29日、望年会に参加するため滋賀に行った。
ル・シエルはその日入れてあと2日で閉店。

その何日か前に、きんちゃんは「新作ケーキ」をつくっていた。
そのfb投稿を見て、「これは曲になる」と思った。
これは、何としても新作ケーキを食べなくては。

『最後の新作』という仮タイトルでつくりはじめた曲は、まだ完成していない。
けれど、今日の時点で8割くらいはできてきている、ように思う。

そのことは、曲が完成したらまた書こう。

で、その日に新作ケーキを喫茶スペースで食べた。
ちゃたくんと、タルトレットと半分こずつ、玄米珈琲と。

ふと、座った席の後ろ、似顔絵や色紙などを見た。
30周年のときに贈った、寄せ書きがあって、ぼくも書いていた。
贈ったことは何となく憶えていたけど、何を書いたかはすっかり忘れていた。

メッセージには、「そして、いつか演奏しに行きたいです」と書いていた。
どういう形であれ、結局それは叶えられたのだ。



自分以外のことでは。
ビートルズの「最後の新曲」がリリースされたこと。
ちなみに、『最後の新作』は、そのことも念頭にあった。

そして、パレスチナのこと。

今ここにざっと書いたことが、ぼくの中では不思議とどれもリンクしている。

これまでは、そういったリンクが「負の連鎖」になり、問題は悪化していくばかりに思えた。
今もそれは断ち切れていないわけだけど、でも変化の兆しはそこここにある。

2024年は、ようやく「すべてをひっくり返す」タイミングになりそうだ。
いや、なりそうというか、ラストチャンスなのかもしれない。

いろいろな組織や価値観や、ダメなものは総とっかえしようじゃないか。
そういう年にしよう。

という決意をして、2023年の振り返りとする。

2023年にやりたいこと、のための心がまえ。

特別お題「わたしの2022年・2023年にやりたいこと


自分にとっての2022年は、漢字一文字で表すなら「失」、だったと思う。
有り体に言うなら、「踏んだり蹴ったり」の年。
でも要は、いろいろと見「失」っていたんだな、と氣付く。

「失うこと」は、わるいことばかりじゃない、とは思うものの。
それでしか「氣付きを得られない」みたいな流れは、あまり好ましくない。
早めに再起動or軌道修正できた方がいい。

だけど、2022年はもう「なるべくしてなった」、という感じだ。
昔の感覚を忘れて、それより前のあまりよくない時期にまで戻ってしまった。

「GET BACK」はよかったけど、戻り過ぎた。

で、端的に言えば、2023年は「やりたいことをやる」年にするつもりだ。
そんなこと「何をいまさら?」なのだけど、ほんとに見失ってた。

結果的に、これも仕方ないとは思うのだけど、ブログもほとんど書けなかった。
これは痛い、ブログに記録を残しておくと、案外助かることが多いから。



「やりたいことをやる」には、まずは「時間持ち」になること。
「金持ち」ではなく、「時間持ち」というこの言い方、果たして誰が言い出したのか?

昔からおもしろい言い方だと思っていたけれど、実践編となるとダメだった。
でも、今年はもうやる!と決めた。

それは、ウィリアム・レーネンさんのツイートに影響された、というのもある。
「アイデアは48時間以内に形にする」というようなこと。
正確に知りたくて、ツイートを調べようとしたら…

レーネンさん、現世を旅立たれたとのこと(アカウントは消えていた)。
(レーネンさん、ありがとう)


ともかく、そのツイートを見てから、1月のあいだだけでも心掛けてみたら。
何だかおもしろいことになってきた。

実際にやりたいこと、やることは、またの機会に書くつもり。
そうそう、「書くこと」もまた改めて意識しようと思っている。


奈良の東急ハンズで、一目惚れ的に買ったノート。
TO DOは、「やらなきゃ」じゃなく、「やりたい!」と捉えることにする。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん

「青春ノ帝国」


最近読んだ本。

『青春ノ帝国』/石川宏千花

 

 夕暮れの職員室。
 一本の電話が
 私をあの夏の日へと連れ去った。
 けっして忘れることのない
 14歳の、あの夏の日に。




そうして、中学二年生の頃の記憶が綴られる。

主人公関口佐紀(さき)、弟の朋典(とものり)。
その朋典が通う一風変わった《科学と実験の塾》の塾長、久和(くわ)先生。
26歳になったばかりで、右目が義眼、けれど特にかくそうともしていない。
助手の百瀬(ももせ)さん、もう30歳で、本人いわく。〈大好きなだんなさま〉とのふたり暮らし。
そして、奈良くん。
久和先生の甥っ子で、佐紀の同級生。

佐紀は弟のお迎え係として、坂の上にある一軒家の塾に足をはこぶ。
「週にたった二日しかない、救いの日。」
「その日だけを待ちわびて、惨めで惨めでしょうがない毎日を、どうにかやり過ごしている。」


【どうしてあのとき、なんであんなことをしちゃったんだろう】
このお話の、大きなテーマのひとつ、がこれだと思う。
そしてそれは、青春のテーマそのもの、かもしれない。
闘い抗うべき本丸、その苦しさはいつまで続くのか…。

歩き出すこと、歩きつづけること。
「そうしているうちに、やがて見えてくる新しい眺めがあるはずだ。」

「そんなにすぐには変わらない、と覚悟した途端に、こんなにも急加速で、目に映る風景が変わりだすなんて。」

最初の、「わかっている。わたしに絶望なんかはない。ただ、惨めなだけ。」から、「しあわせだった。ただただしあわせだった。」となるまでの展開、見事だなと。
正直途中、結構つらくて読むのやめようかとさえ思ったりもした。

ただ終盤で、そのしあわせを得た代わりに、あるものを失ってしまう。
それは引き換えに、ではなかったかもしれないけれど、佐紀はそう感じてしまう。
そして…、ハッピーエンドとはいえないエンディング。
そのへんは、好き嫌い分かれるところ、かもなぁ。

個人的には、すごくもやもやした。
それは、小説としてのあり方に文句があるということではなく。

でも、「人の気持ちを思いやることができる人たち」が報われないとしたら?
それはやり方が微妙にまずかったのか?それとも、この不明瞭な結末をアンハッピーと決めつけなくてもいいのか?

やっぱり、こうではないもう少しハッピーな結末を探してしまう。
けれどもそれは、小説そのものを否定しているわけじゃないんだ。
書き手もまた、勝手に書き換えられないお話、なのかもしれないと思うから。

そのもやもやも含めて、読んでよかった、とこれを書きながらまた思う。

今調べてたら、この著者はまさに「14歳」に向けて小説を書いているそう。
もし自分が14歳のときに読めていたら(実際にはムリだけど)、どう感じただろうなぁ。

                    せれんでぃっぽ☆とむやん

青春48


ずいぶんと久々の投稿になってしまった。
正直もう、ブログは書けないんじゃないか、と思ったほど。
どう書けばいいのかさえ、わからなくなってる。

PCに直接打ち込むのではなく、ノートに書き留めるスタイルに戻した方がいいのか。
その辺は改めて考えたい。



ここ最近、いろいろなことがあり過ぎた。
考えること、書かなきゃいけないと思うことが多くて、かえってこんがらがって。

その辺はぼちぼち書きたいのだけど、さてどうなるだろう。



今回は、自分の誕生日のことを記録しておきたい。
実はもう、ちょっと忘れかけている。

メイコが買ってきてくれたDimancheのプリン。


コーヒーは、届いたばかりのSisam Coffee。
新作のNeighbor’s Special Asian Blend。
(フィリピン、ミャンマー、タイ、東ティモールブレンド



晩ご飯は…、何をつくったんだったかな。
好評だったはず、それでデザートまでいきつかなかった。

で、冷やしておいた「フライパンでつくるチーズケーキ」は、翌日に。


これがまた大好評だった。
自分でも、予想以上に美味しくできて、びっくり。
次の日にもち越しにして、かえってよかった。


コロナ禍に入って、落ち込むことが多かった。
それは何でだろう?とずっと考えていたのだけど。

あるとき、ふと氣付いた。
パンデミックになっても、ニンゲンは大して変わらなかった。
システムを更新するのにいい機会だった、かもしれないのに。

実際、一年目はどの国も厳しめの外出制限をかけたから。
都市部でも山がきれいに見れたり、鳥のさえずりが聞こえたりした。
逆に言えば、これまでニンゲンは好き放題し過ぎていた。

けれど、二年目になると、もうすっかり「喉元過ぎれば熱さを忘れる」。
気候変動や自然破壊に関して、またも何の対策もやろうとしない。

その憤りの反動で、すっかり氣分が落ちてしまうことが多かった。


もちろんそこは、今でも絶望的になることはある。
それでも、また少し浮上しようと思えた。
やっと。


そんなとき、この本に出逢えたのはかなりラッキーだった、かもしれない。


かがみの孤城』/辻村深月

詳しくは、また書くかもしれない。
結構分厚いので、読みたいと思いつつ、怯んでいたのだけど。

ほんとに読んでよかった、自分には今がいいタイミングだった。
(読了は7月はじめ)

かなり平たく言えば、「助け合う」ということは必要だし、それがきっとできる。
そんなことを言っても、今のご時世、冷笑されるだけかもしれない。
でも、だからこそ。

ぼくは、すごく力をもらった。


48歳。
年は関係あるような、ないような。
多少は「吹っ切れた」部分もある。
「いよいよここからだ」という氣もしている。


追記:
タイトルは、こないだ思い付いた。
8月に入ってから、帰省のための「青春18きっぷ」を窓口で買うときのこと。
「青春」はともかく、「18」は何だか気恥ずかしい。
それで、ふと「青春48きっぷ」だなぁ、と思ったのだった。
まあ、それだけの話。

                    せれんでぃっぽ☆とむやん




猿と蟹と、トリクルダウン


ここ最近、【トリクルダウン】について考えている。

きっかけは、Twitterでさかいとしゆきさんという方の投稿を見たこと。
【トリクルダウン】という言葉を初めて使ったのは、ユーモア作家のウィル・ロジャース、だそう。
このことは、Wikipediaの「トリクルダウン理論」にも出ている。

ところが、真逆の意味合いで紹介された言葉なんだとか。
富裕層をさらに裕福にしても「滴り落ちません」よ、「トリクルダウンしませんよ」、と。
むしろ、困窮層に渡しなさい、すぐに最上部に届いてしまうけれど、少なくとも貧困層の手を通っていくから、と語っていたと。

これはすごく腑に落ちた。
以前から、【トリクルダウン】なんて荒唐無稽、と思ってた。

ちょうどちょっと前に、ふと氣付いたことがあって。
滴り落ちる…?あれ?これって、何だかどこかで聞いたことがあるような…。

そうだ、「猿蟹」じゃないか。



ということで、図書館で「猿蟹」ばなしの絵本を探してみた。
思いの外たくさんあったので、4冊に絞って借りてきた。

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(左から)
①『さる と かに』 神沢利子/文 赤羽末吉/絵 BL出版

②『かにむかし』 木下順二/文 清水崑/絵 岩波書店

③『さるかに』 松谷みよ子/文 滝平二郎/絵 岩波書店

④『さるかに』 松谷みよ子/文 長谷川義史/絵 童心社


4冊それぞれ、結構お話が違う点がある。

そもそもまず、タイトルが③と④以外、全部違う。
逆に、「猿蟹合戦」のタイトルのものはなかった。

これは、③の『さるかに』の最後に解説があって。
【江戸時代には、かたき討ち思想が強くなり、赤本にしたてられて「サルカニ」合戦」となってしまいます】ということだそうだ。


お話の違いとしては、まず出だし。
④『さるかに』、蟹がまずにぎりめしをひろう。
すると、猿が「もっといいもん」として、柿の種をみせびらかす。
猿が「とりかえっこするか」ともちかけ、とりかえる。

ぼくがイメージしていたのは、これ。
①『さるとかに』もほぼこの流れ。
③『さるかに』では、蟹は一度断っている。
それをだまして(柿の実ざらんざらんなれば、くいほうだい)とりかえるから、今回の趣旨に一番近いと言える。

ところが、②『かにむかし』では、蟹がはじめから柿の種をひろう。


そして、柿の実がなってからのこと。
蟹は実を取ろうとするが、がしゃがしゃとはいのぼっては落っこち、はいのぼっては落っこち、のぼることができない。
ここは、4冊ともほぼ同じ。

問題はそれを見ていた、猿。
①『さるとかに』②『かにむかし』では、「もいでやろうか」と申し出る。
(とは言っても、返事を待たず木にのぼる)

③と④では、猿は山から駆け下り木にのぼって、真っ赤な実を喰いだす。


一方、逆に4冊ともほとんど変わらない描写がある。
それは、蟹が柿を育てるところ。
蟹は、水をやったり肥しをかけたりしながら、脅す歌を歌う。

実はここ、「猿蟹」ばなしの最初の見せ所のようだ。
あとがきの解説によれば、遠野地方には実際「なり樹攻め」というのがあるんだそう。

トリクルダウンと「猿蟹」を考えたとき、ぼくは蟹を困窮層の側ととらえた。
でも、改めて読んでみると、脅された柿こそがこの国の底辺を象徴しているように思えてきた。



④『さるかに』を、下2人に読んであげたら。
(4冊のうち、この一冊だけ読んだ)
特に末っ子は「このさる、きらい」と憤っていた。

そりゃそうだろう、あまりに身勝手で横暴過ぎる。
猿が投げつけた青い柿で、母蟹がつぶれて死んでしまうのだし。
(それ自体は、不慮の事故っぽくは描かれているが)

改めて読んでみて、今まであまり意識していなかったことに氣付いた。
それは、猿が住んでいるのは囲炉裏のある家、だってこと。

このお話の猿って、実はニンゲンのことなんじゃないか。
この地球上において、もっとも身勝手で横暴で、動物からも器物からも恨みをかっている、かもしれない存在。



今回は【トリクルダウン】のことなので、話を戻すと。

【トリクルダウン】なんて、言葉の出所をたどってみても、「あるわけがない」ことは明らか。

「猿蟹」は話によって、バリエーションは結構さまざまあるのだけど。
結局、猿に好き放題取らせても、絶対蟹には「滴り落ちない」だろう。

それなのに、最近では猿の肩をもつような言説が出てきたりして、驚く。

ネットでは、青い柿投げつけられた!と文句を言うと、「取ってもらったんだからまずは感謝しろ」とか、「じゃあ自分で取ったらどうだ」なんてリプがついたりする。
(もちろん、喩えです)
なんなら、「青い柿もこうしたら活用できますよ」とか。
それ、ライフハックにもならないから。

「エクストリーム擁護」なんて言い方もあるけれど、猿の肩をもつってことは、たぶん何らかの「利害関係」があるんだろう。
もしくは、強いもの大きいものにすぐ擦り寄りたくなる性分なのか。

蟹の仇討ちには、くまんばち、くり、うしのくそ、いしうすが助太刀してくれる。
これもバリエーションがあり、①と②では桃太郎のようにきびだんごをあげている。
また、②では「はぜぼう」も参加する。

お話としては、「仇討ち」をする流れでいいのだけど。
現実では、それより前で止めたいところ。
猿が勝手に木にのぼって柿をとることをやめさせないと、悲劇は繰り返される。


ずる賢い猿たちの言う【トリクルダウン】なんかに、いつまで騙されているつもり?


                    せれんでぃっぽ☆とむやん

Ground Coffee


買いものは楽しい。
どこかの街に行って、雑貨屋さんとか巡るのも好きだけど。
近くのスーパーやドラッグストアの棚を見ていくだけでも、結構楽しい。

新型コロナで動けなかった時期があっただけに、今は余計にそう感じる。

もちろん、「潤沢な資金」があるわけじゃないので、何を買うかはかなり吟味する。
それと、〈マイボイコット(もしくはマイ不買運動?)〉をひとりずっとやっているので、買わないと決めているものも多い。
〈マイボイコット〉のススメ。 - とむやんの氣まぐれ雑想記 (hatenablog.com)

まあでも、ある意味「本氣」で選んだり買ったりするから、より楽しいわけで。

で、いわゆる「見切り品」のチェックは必ずと言っていいほど、やる。
フードロス削減の意味もあるし、安く買えるのはありがたいから。

先日も、コーヒー(粉)があったので、買ってみた。
(密かにこれを「救出作業」と呼んで、やっている)

ちなみにぼくは普段、コーヒーは「豆」で買う。
手軽さを求めて、ドリップバッグを買うこともあるけれど。
(ゴミが増える点はよろしくないが)

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「レギュラーコーヒー」の文字の下に、GROUND COFFEEとある。
これ、英語で粉コーヒーのことだそうで、今回調べてはじめて知った。

スーパーの見切りで、粉を買うのははじめてのこと。
正直どんなものかなと。



早速淹れてみたけれど、そこまでひどくない。
いや、思っていた以上に美味しい。

でもね、やっぱり豆で買った方がいいよ。


そこで前から不思議に思っていたことを、また改めて考える。

スーパーのコーヒー売り場には、コーヒーミルが設置してあったりする。
それなのに、豆のままで売っている商品が少ない。
ん~、何のためにあるんだ。

コーヒーは粉にしてしまうと、劣化(酸化)が早い。
最近の、どのコーヒー本を見たってそのことは書いてある。

それなのに、なんでスーパーのコーヒー豆は粉にされたものばかり売られているのか。
そして、それを誰が買うの?

たぶんだけど、売る側としても粉は早く捌かないといけないので、フードロス的観点でも厄介なはず。
でも結局、豆のままだと売れない、ということだろう。

家にコーヒーミルがない、というのはもちろんよく聞く。
でも、自分で淹れて飲みたい人は、買うことを検討した方がいい。

そこにこだわらないのは自由だけど。
ミルは買わない、そこは譲らない、でも家でコーヒーを淹れたい??
という思考回路が、ぼくにはどうも理解できない。

批判とかじゃなくて、ほんとわからない。

そもそも、スーパーでコーヒー豆を買う感覚もよくわかっていない。
確かにまあ、今回買ってみて、そこまで悪くはなかった。

何だろう、たとえばコンビニのコーヒーが美味しくなって、自分はそれで充分という人がいても。
ぼくは賛同しないかもしれないけれど、それはそれで理解できる。

コーヒーを家で淹れるというのは、正直めんどうなわけで。
それでも淹れたいのは、やっぱり美味しいのを飲みたいからだと思うのだけれど。

専門店でなくスーパーで買う、豆ではなく粉を選ぶ。
家にミルがないから、でもお店で挽くことはしない、粉で買う。

ん~、やっぱりよくわからない。


ただ、その「消費者」のよくわからなさが、今の社会システムとすごくつながっているなぁと思ってしまった。
めんどうなことを引き受けない、いやそもそもそんなに「めんどう」なことなのか?
それを考えてもみない、ということなんだろう。

きっと、「問題」として浮上してきていないから。
ある意味、「困ってない」「不便」を感じていない、ならば現状維持でいいわけだ。

だけどそれ、本当にまったく「違和感」を感じていないんだろうか?

違和感から問題に氣付き、別のやり方を模索して、よりよいものにしていく。
現状をちょっとでもいい状態にして、次世代に渡していく。

どうも、そういう発想自体が、現代人には欠けているんじゃないだろうか。

コーヒー(粉)からそこまで考えるのかと思われるかもだけど。
買いものって、世情がいろいろ見えてくるものだと思う。
(だからこそ買いものは楽しい、と主張しておく)

いわゆる「win-win」って、ほんとは案外むずかしくなく、訝しげに思う必要もない。

コロナ禍になって、今までのシステムって全然よくなかったよね、ということが可視化されたはず。
じゃあどうしよう?もっといい方法ないかな?って。

そこを考えないと、いつまでもパンデミックは終息しないんじゃないかな。
それとも、この現代社会は今のシステムとともに心中するつもりなんだろうか。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん

キシダ式Songwriting Notes


2月はほとんど何もできなかったから。
3月はとにかくいろいろやりたい、はじめたい。


というわけで、もうひとつブログをつくった。

以前、曲づくりや音楽のことを中心に書くために「note」をやっていたのだけれど。
系列?の「cakes」がやはりいろいろとひどくて、看過できないので。
「note」はやめることにした。

このブログで「とむやん歌づくり」として書いてはみたものの。
そこはわけた方が自分としても見やすいし、まとめやすい。

それで、あるブログを開設しようと思ったら、SMS認証が必要というのであきらめ。
(ケイタイもっていない人なんていない、という世の中になってしまったね)

サイトをつくるのはどうかと、JIMDOでページをつくってみたけれど、ぼくにはどうも合わない。

結局、はてなブログに2つ目のブログとして開設。
名前も「歌づくり」から「キシダ式Songwriting Notes」に変更した。
キシダ式Songwriting Notes (hatenablog.com)

まだ2つしか書いてない、これからじゃんじゃん書く、はず。

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追記:
ソングライティングブックを、ノーツに変更。
これに関しては、BookよりもNotesの方がしっくりくる氣がして。
書き溜めたものが、いつかBookになったらいいな、という思いは残しつつ。
2022.4.2


                    せれんでぃっぽ☆とむやん