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とむやんの氣まぐれ雑想記

“探幸王”を目指して、さまざまな想いを綴ります☆

埼玉さんぽ《浦和》

ひとやすみ


今日(2017.3.25)は浦和へ。

埼玉に住んでいた頃は、何かと行く機会も多かったように思う。
近年、パルコができたあたりからかな、ほとんど行くことはなくなっていた。

そんなわけで、久々の浦和。


行く前にネットで、地図を見ていたら氣になる名前を見つけた。
「魔女のコッペパン」、これはぜひとも行ってみたい。

前回も書いたように、最近『コッペパンの本』を読んだ影響もあるし、「魔女」というのも個人的にスルーできないキーワードだから。


今回も三男を連れて行ったら、待ち構えていたようにすぐ寝てしまった。
場所をちゃんと憶えていなかったので、ちょっとウロウロして、ようやく到着。

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意外と、というと失礼だけど、けっこう原材料にこだわっている。
ちょっと悩んで、「抹茶と有機あんこ」をセレクト。

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今のコッペパンって、比較的「ふんわり」系が多いような印象がある。
ここのはどちらかというと、噛み応えがしっかりあって、でもパサパサした感じではなく。

これ、近所にあったら通っちゃうな、きっと。

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その帰り道、レコード屋さんを発見。
「askatasuna RECORDS&Co.」、看板も外観もいい雰囲氣。
中古のCDやレコード、古本も扱っていて、かなり氣になる。

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残念ながら子どもを抱っこしながらなので、EPコーナーのビートルズ関連だけ物色。
ポールの「MAYBE I'M AMAZED」、前からほしかったやつがあった♪

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高架下をくぐり、商店街を左に曲がると、駅周辺とは思えないような裏路地がある。
そこは以前からお氣に入りの路地で、そしてそこをまた小道に入る。

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もうひとつのお目当ては、「SOLA COFFEE ROASTER」。

スペシャルティーコーヒーの専門店で、コーヒーを飲むこともできる。
外のベンチでも、店内用と同じカップで提供してもらえた。

今回飲んだのは、エチオピアの「イルガチェフェ・ウォッシュド」をドリップで。

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かなり軽めの爽やかな酸味、しつこさが全然ないし、衝撃を受けるほどの美味しさ。

カップを返して、外観の写真を撮ってもいいか聞いてみたら、オーナーさんだろうか、とてもいい笑顔で了解をもらえた。
いい対応をしてくれるお店って、クオリティー的にもいいんだよね、やっぱり。

「ここに来るためにだけでも、また浦和に来たい」と、そんな風に思う。

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パルコにも寄って、アトレもちょこっと覗いてみる。
そしたら、パルコに期間限定で「魔女のコッペパン」が出店していた。

もうすでに、有名店なんだな。

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個人的には、大型店舗にはもうほとんど用がない。
ひとつだけ、そもそも浦和に来ることにした目的があって、でもそれは残念ながらタイミングが合わなかった。

まあ、それは仕方がない。

ともかく、帰省したときにはまた浦和をぶらぶらと歩いてみたい。
正直そんなに期待していなかっただけに、大きな収穫があったような一日だったな。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん

東京さんぽ《駒場東大前》

ひとやすみ


ただ今、埼玉の実家に帰省中。
子ども3人と、今回も青春18きっぷの旅。



そして、今日(2017.3.22)は三男を連れて、都内へお出かけ。
渋谷から歩いて、駒場東大前へ。

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昔、何度か来たはずなんだけど、全然憶えていない…。

今日は日本民藝館駒場公園には行かず。

ル・ルソール(Le Ressort)というパン屋さんでパンを買って、そこから目の前の駒場野公園へ(名前が紛らわしいですが)。
パンはちょっと値段高めですが、素材にもこだわっているみたい。

個人的に、特に美味しかったと思ったのは、あんパン。

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和菓子を食べているような感じ、甘さもちょうどいい。
餡は確か、オーガニックと書いてあったような。

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普段食べているパンより、ちょっと上品な、ちょっと背伸びした感じ。
子どもは関係なく、バクバク食べてましたが(笑)

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駒場野公園の入り口には、コヒガンという桜が開花し始めていました。

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日差しは暖かかったのですが、風が強くて、座っているとちょっと肌寒い。
あまり長居せず、来た道を戻ります。

途中で氣になってた、コッペサンド専門店にも寄ってみました。
半地下の店舗、黒板がかわいくてパシャリ(了解を得ています)。

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あんホイップをひとつ買って、少ししてから食べましたが、結構美味しかった。
もそっとした感じの昔のコッペパンとは違う、ふわりとした食感。

先日、『コッペパンの本』を読んだばかりだったので、なんか嬉しかったな~☆
(店内にも当然のように、『コッペパンの本』が置いてありました)


その後は古本屋さんにも立ち寄って、渋谷への帰り道はわざとちょっと遠回りして。
目星を付けたコーヒーショップは、オシャレな感じに氣後れして、入るのはやめて。


帰りに抱っこのまま寝てしまって、しかも氣を付けていたつもりが靴を落としてしまって、戻って探したりして。
いろいろあったけど、楽しかったな。

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途中何度も抱っこはしたけど、三男もよく歩いてくれました。

さて、次はどこへ行こうかな~☆


                    せれんでぃっぽ☆とむやん

ゴリラから学ぶべきこと。

ひとりごと


今月の初め、山極壽一先生のお話が京都で聞けるというので、行きたいと思った。
京都大学総長である山極先生は、ゴリラ研究の第一人者として知られる。
(ぼくは面識もないし教わったこともないけど、「先生」とさせていただく)

残念ながら、場所や時間等々の問題で、結局行くのは断念。
でも、不思議な縁があるのか、そのとき読んでいた本2冊それぞれに、山極先生の名が出てきて驚いた。

そして同じ頃、たまたま行ったコミュニティーセンター内で、山極先生のゴリラの絵本と「出会った」。

『ゴリラが胸をたたくわけ』
山極先生の文、阿部知暁さんの絵。

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ゴリラが、なぜ両腕で胸を叩く「ドラミング」という行為をするのか。

端的に言えば、敵に対する脅しや宣戦布告ではなかった。
むしろ、争いを避けるための手段だったりもする。
ゴリラは一般的なイメージよりも平和的で、高度な社会性をもっているらしい。

人間たちは、動物園に送るために子どものゴリラをたくさん捕らえた。
それを救うためにドラミングで立ちはだかったゴリラたちは、鉄砲で容赦なく撃ち殺された。
その上、勝手に「凶暴な野獣」と見なされ、映画『キングコング』などの影響もあってますます暴力的だと誤解をされていく。



本当にひどい話。

ただ、こういうことって、ブーメランのように戻ってくるもの。
それは、〈因果応報〉であり〈自業自得〉である。

ちなみに、〈因果応報〉も〈自業自得〉も、必ずしも「いい/悪い」をジャッジしてはいない。
それより、〈自業自得〉なんて、「得」という漢字すら入っているのに、どうして今は悪い意味合いでしか使われないんだろう?
長くなるので、その辺のことはまた別の機会に。

ともかく、命を何とも思わず殺戮しようとするマインドは、その逆の「恐怖」もセットになっているもの。



ぼくたちがSFなどでイメージする異星人は、十中八九「好戦的で侵略的な」残忍な性格をしている。
映画『インデペンデンス・デイ』然り、映画『マーズ・アタック!』然り。

単純に映画として「絵になる」っていう事情などもあるだろう。
でもやっぱり、それは自分が「好戦的で侵略的な」ことの〈裏返し〉なんだと思う。
映画『プレデター』などは、象徴的かもしれない。

藤子・F・不二雄の少年SF短編『絶滅の島』は、それをはっきりと描いている。

調べてみたら、ホーキング博士ですら同じような見解だというから、ちょっと残念。
この発言もまた、ぼくがここで言いたいことの〈裏返し〉を示してくれている。

コロンブスがアメリカ大陸に上陸した際に発生した先住民族の虐殺のようなことが、地球でも起こりうる」
「高度な文明をもつエイリアンは、征服し植民地にする惑星を探すためとしている」



高度な文明をもっているのなら、友好的で平和的な宇宙人であると想像できるはずだ。

『アミ 小さな宇宙人』という小説の初めの方に、まさにこういう話が出てくる。
ぼくもそれまでは、やはりステロタイプ(ステレオタイプ)な「インベーダー(侵略者)」のイメージが強くて、どうしても偏見を拭えずにいた。

だから、わからない人には本当にわからない話だと思う。

そして当然、この記事でぼくが言いたいことも、ちゃんと伝わらないだろう。
もちろん、それで構わない、「人を変えよう」とかそんなつもりはない。


ただ、自戒的な意味も込めて。

ゴリラに対する無理解と偏見と、それによる理不尽な殺戮という忌まわしい過去から、学ばなければいけないことがある。
そして、ゴリラの平和的で高度な社会性から、自分たちのあり方を見直したい。

「ゴリラができているのに、どうして人間にはできない(できなくなった)んだ?」
そんな単純な〈問い〉に対して、〈答え〉となるべき行動を選択していきたいから。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん

〈試行錯誤〉

ひとりごと ABCのためのD


今のぼくは、「議論」というものを求めていない。

もちろんそれは、やりたい人同士でやる分には、全然問題ない。
(その辺のことは以前にも書いたことがあるけど↓)

win-win - とむやんの氣まぐれ雑想記


このブログでもそうだけど、もし違うと思われるなら、それはそれで仕方がない。
以前は言葉の食い違いなどを整理して、説明しようと努力したこともある。

ぼくはそれを「議論」のつもりではなく、「すれ違いの修正」のように考えていた。
でも、相手はそれを「議論」として必要とし、どんどん違いを強調していく。
つまり、自分の方が正しいと主張したいだけ、そういうことが多かった。



ぼくが今、したいと思うのは「対話」なんだと思う。

単なる言葉の違い、ってわけでもない。
前回も書いたけど、「ディスカッション〈discussion〉」の語源は「打ち砕く」という意味のラテン語らしい。

対話の「ダイアログdialogue」は、ギリシャ語(dialogos)が語源。
diaは「~を通して」、 logosは「言葉」。

言葉を通して、二人以上が共通の話をすること。

もっと言えば「たわいない会話」や「雑談」。
けれど、だからこそ交わされる深刻なことも、かえって向き合うことができる。


調べていたら、『ダイアローグ 対立から共生へ、議論から対話へ』という本があるという。
やはりそういう流れが、時代的にも来ているのかもしれない。



これからは、言葉を通してだけじゃない、例えば「音楽を通して」なら?

〈ダイアムジカdiamusica〉とでも言えばいいのだろうか?
(ディア?ダイア?調べてみたけど、それらしいのは出てこなかった)

音楽なんてまさに、対決よりも共演の方がいい。

ぼくにとっての最高の共演は、「プリンス・トラスト」という1987年に開かれたチャリティーコンサートでの、「While My Guitar Gently Weeps」。
ストラトキャスターを弾くジョージ・ハリスンと、珍しく?レスポールを弾くエリック・クラプトンの掛け合いのギターソロ。

確か高校生の頃だったか、借りたビデオで何度も何度も繰り返し見た記憶がある。

それぞれの積み重ね、音楽にしても人生にしても、そういうものがあるから出せる音、旋律。
そして、それにしがみつくのではなく、惜しげもなく音に乗せて解き放ってしまう、そんな感じがする。


もちろんそれにはあまりにも遠く及ばないけど。
最近は友人とセッションなどをする機会が増えて、そういうときはとにかく楽しい。

先月のオーガニック&つながるマーケットでも、nanaotoの二人が「一緒にやろう」と言ってくれた。

ワクワクをわかち合う。 - とむやんの氣まぐれ雑想記


nanaotoの曲は基本、循環コードなので合わせやすい。
音を探しながら、隙間に音を足していく。


そういうセッション的なことでなくても、みんなでワイワイとやるのは楽しい。
最近、ウクレレはレッスンよりも〈サロン〉という形でやる方が、自分には合っていると思う。

昨日(2017.3.18)もcafe salon STILLROOMでの月一のウクレレサロンがあって。
みんなで聞き合ったり一緒に弾いて歌ったり、まさに「対話」的な場だった。

ウクレレとは違う話で盛り上がったり、そこがまたいい。

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お喋りでも音楽でも、料理でもそう。
「打ち負かす」理論が横行し過ぎて、「調和」に目がいかなくなる。
かと言って、「調和」を意識し過ぎるあまり、全体がボケた感じになることもある。

そこを「ああでもないこうでもない」と、〈試行錯誤〉する楽しさもあるし、ポンと一発で「これだ!」ってできちゃうことがあるのもおもしろいし。


「餅は餅屋」、そういう面は確かにある。
でも、何でも専門家に任せておけばいいという、そういう時代が変わりつつある。
プロには一目置きながら、さあ自分たちは何を楽しもう?



〈試行錯誤〉、なるほど改めてよく見ると、すばらしい言葉だと氣付いた。

「試行」は試しに行うこと、「錯誤」は間違うこと。
まず何より、行動すること、それに尽きる。

そして、間違いがあるからこそ、新しいものが生まれる。
間違いかどうかをその都度ジャッジしていると、試すこともイヤになってしまう。

「錯誤」はニュアンスとして、「すれ違う」ことを指している。
そう言えば、「間違う」だって「間が違う」と書くんだった。

違うものは違うままでいい。
どっちがより正しいか、そんなことはっきりさせてみたところで、どんぐりの背比べにしかならないだろう。

むしろ、違いを肯定的に捉えた方が、音楽も料理もぐっとおもしろくなる。


〈試行錯誤〉に生きる。
それが傍からは〈時代錯誤〉に見えたとしても、案外すぐ時代の方が追い付いたりすることもある。
それぐらいに思ってみると、何だかますます楽しくなってきた。

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                    せれんでぃっぽ☆とむやん

明日明後日の、告知いろいろ。

おしらせなど


先週の金曜日、喉が痛いなと思ってたら。
土曜日の夜に熱が出て、日・月とずっと寝ていました。
ようやく回復してきたけど、まだ油断できない感じ。

今週は予定をいろいろ入れていたので、意外にみっちり。
どれもゆるい企画ではあるのですが。

寝込んでて、あまり告知できていませんでしたので、一氣に書き出します。



2017.3.16 am
まず、明日の午前中は「どんぐりシェア会」。
どんぐり倶楽部については、妻のブログに少し書かれています↓

どんぐり倶楽部スタートの会|まなくらブログ


ぼくもちょこっとだけ顔出す予定。
10時から12時、参加費は500えん。
自宅アパート1Fにて(滋賀県栗東市川辺)。



2017.3.16 pm
午後は「オルタナティヴ・ブックカフェ【ABC】」を開催します。
自宅アパート2F(滋賀県栗東市川辺)。

13時から16時の間、好きな時間に来てもらえればと思います。
出入り自由、〈カフェ〉の要素を強調した形です。

ぼくが今紹介したい本があって、それに関連した本の販売もします。
(一番紹介したい本は、販売用がないのですが…)

本はもちろん、買っても買わなくてもOK
自分のオススメの本を一冊もってきて、ゆるく本の紹介や本を通じての話をする、いつもの流れでももちろん大歓迎。
今回はテーマを決めましたが、脱線もご自由に☆

テーマは、「弱点満点!」です。

ドネーション制〈ドリンクつき〉
(そのときの直感、お氣もちで。お金でもお金じゃなくても)

ブックカフェ【ABC】については、過去記事をご覧ください↓

ブックカフェ「ABC」☆ - とむやんの氣まぐれ雑想記

 

《滋賀・栗東》オルタナティヴ ブック カフェ




2017.3.17 pm
金曜日の午後、「【個別的】くらしとせいじカフェ」をまたやります。

【個別的】くらしとせいじカフェ☆ - とむやんの氣まぐれ雑想記


場所はcafe salon STILLROOM内をちょこっとお借りして(滋賀県栗東市安養寺)。
14時頃から16時頃までの間。

ドネーション制、そのときの直感、お氣もちで(お金でもお金じゃなくても)。
カフェ通常営業中ですので、要ワンオーダーでお願いします。



2017.3.17 pm
そしてその後、夕方16時からはウクレレサロン。
場所は同じく、cafe salon STILLROOM(滋賀県栗東市安養寺)。

料金は2000えんでドリンクとおやつが付きます。
前半はミニ発表会、後半は課題曲をみんなで弾きます。

参加はちょっと…という方も、16:00〜17:00にカフェ利用で来れば、見学ができます。
(その場合は要ワンオーダーでお願いします)

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ざっと書きましたが、ひとつひとつ説明不足かもしれません。
氣になる方は、ブログやfbへのコメント等々、是非お氣軽にご連絡ください。

あとはもう直感で、びびっときたら、来てみてください☆


                    せれんでぃっぽ☆とむやん

卒業。

お題 ひとりごと ABCのためのD

今週のお題「卒業」


↑「今週」、となっているけど、実は先週のお題。
しかも、ちょっと脱線した感じになるかもですが。


昨年2016年は、いろいろなことから「卒業」しました。
実際にはやめていないにしても、自分の氣もち的には区切りが付いた(付けた)ことが結構ありました。

そのときはやめない選択をするにしても、なあなあで続けてしまうのは、個人的にはあまりよろしくない。
世間的には、「継続してこそ」という風潮がありますけどね。

自分で続けたい、続けられるようにと考えられるなら、それはきっと意味のあること。
でも、人から「続けた方がいいよ」と言われれば言われるほど、やめたくなる天邪鬼な性格なもので。

いずれにしても、自分が今の感覚として「やりたいのかやめたいのか」、確かめるのは重要だと思っていて。

すべての事象は移り変わっていって、氣もちもまた移り変わるもの。


ある団体に所属していたのですが、自分の氣もちややりたいことと決定的にズレてしまったので、抜けさせてもらいました。
会の方は「当初からこの会は変わっていない、なぜやめてしまうのかわからない」と。

あえて答えるなら、年月が経っても「変わらなかったから」こそ、自分には釣り合わなくなってしまった。
だから、どちらかに落ち度があるわけではないし、仕方のないことだと思っています。
恋愛でも、氣もちの冷めてしまったものを責めてみても、埒が明かないのと似ている。

その旨を伝えたつもりだけど、うまく言えなかったのかもしれない。
残念ながら、わかってもらえなかった様子。
それも含めて、もう仕方のないことなんだろうなと。

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(↑今回も、写真は特に本文とは関係ありません、たぶん)



何となく、ものごとには「期限」というのがあるんじゃないかと思っています。

昔、小学生の頃によく遊んでいた友だちがいて。
中学生になって、それぞれ違う学校に行ったから、会う機会もなくなって。
あの頃はそういうのが何だか「軽薄なんじゃないか?」とか思っちゃったりして。

ふと、電話をしてみたんだと思います(記憶がもうだいぶ薄い)。

なんか当然、相手の反応もトーンが低い。
ちょっと傷付いた感もあったけど、それ以上に「これでいいんだ、離れた縁はほっといてもよかったんだ」って、妙に納得できて清々しかったというか。

ご縁って、無理につなぎとめるとか、できないんだなぁって。
とは思いつつ、その後も同じような痛い目(?)も、数多くあったけど(笑)



今年は「チームで動く」というのも、テーマのひとつ。
それは「狎れ合い(なれあい)」とは違う、あくまでもチームは「個の集合体」であるということ。

だから、目指すものが変われば、チームも当然流動的になる。
それでいいんだと、最近は特にそう思います。


「今」という瞬間に、偶然的に集まったメンバーというのは、不思議とある種の〈正しさ〉を感じたりして。
その場合の〈正しさ〉は、人によるジャッジを超えている、本当の〈正しさ〉。

自分がいるべきでない、やるべきでないことを「やめる」ようになってから、そういう場面が確実に増えてきていると感じています。


自分は、自分のことにだけ責任をもてばいい、ということ。
「やらされている感」で動いていると、余計な〈カルマ(業)〉をつくり出すことになってしまうのだとか。

また、他人への干渉や心配なども、やはり新しい〈カルマ(業)〉を生んでしまう。
〈カルマ(業)〉は悪いわけではないけど、わざわざ宿題を増やしても仕方がない。
(と、ぼくは捉えてますが)


「卒」は、「死/death」を表す漢字。
元々の意味から離れるかもだけど、「卒業」ってのは「〈カルマ(業)〉を解消」していくことなんだって、そんな風に捉えてみる。

本当の自分の人生を引き受け、取り組んでいったら、いずれ死が訪れる。
いつか死ぬ日は来るのだから、そのときは大きな「卒業」を迎えられるように、日々自分を貫いていきたい。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん

「氣」、使い過ぎ?

event ひとりごと


前回書いたように、3月3日は自宅で【ABC】を開催しました。

こんなゆるいイベントでも、来てくれる人がいて、本当に嬉しい。
ありがとうございました☆



そのときに喋ったこと、ちょっと付け足して書き残しておこうと思います。
「氣遣い/氣を使う」ということ。

ところで、上の二つ、漢字が違うのだけどお氣付きでしょうか?
厳密に言えば、〈氣を遣う〉は間違いなんだそう。

それでふと思ったのだけど、〈氣遣い〉と〈氣を使う〉は若干ニュアンスも違うんじゃないかな、と。
(ちなみに、「氣」を旧字体にしているのはいつものことなので、スルーで)

本来どちらも、「相手のことを思いやる」意味合いのはず。

けれど、〈氣を使う〉となると、神経をすり減らしている感じがある。
なぜだろう?と考えると、どうやら「自分の意にそぐわない」ことを「やらされている感」が含まれているんじゃないだろうか。

例えば、〈空氣を読む〉といったことも、本来は大切な感覚だったのでは?と思う。
なのに、いつしか自発的な部分よりも、「暗黙の強制」に押されて「氣を使わざるを得ない」状態になったりする。
そうなると、しんどくなるのは当然のこと。

「風を読む」場合は、「風に流される」ってことじゃない。
どう流れているかを知った上で、どっちへ進むのか舵を取る。


キーになってくるのは、やはり「人からどう見られるか」ってこと。
人の評価を氣にすることがイコール、〈氣を使う〉ことになってしまっている。
自己保身的で、空回りしている感じ。

対して、〈氣遣い〉というのは「できる範囲で自発的にする」、という感じ。
それなら、あまり氣疲れしなくて済むんじゃないかと思うのだけど。



ポリティカル・コレクトネス【political correctness】という言葉がある。
日本語では「政治的妥当性」などと訳される。

職業・性別・文化・人種・民族・宗教・ハンディキャップ・性別などなど。
それらの違いによる偏見や差別を防ぐため、中立的な表現や用語を使おうということ。

この「PC」自体は、本来とてもいい動きだったのだと思う。
けれど、やはり過度に反応してしまうケースが多く、「言葉狩り」だとの批判もある。


さて、ここで言いたいのは、いつものことだけど、「二元論」的議論じゃない。
それがいいとか悪いとかの問題じゃなく、あくまでもバランスの問題。

社会全体が過剰に反応し過ぎて、アメリカでも氣疲れしている人が増えているらしい。
そしてそれがどうも、「トランプ旋風」の原動力にもなっているとか。

言うまでもなく、暴言を許していいわけじゃない。
そのために、自発的に言い換えようというのが、「PC」の意図だったはず。

それなのに、「もうウンザリ」した人たちが逆方向に急旋回してしまう、その氣もちはわからないでもない。

ある種の〈正しさ〉というのは、どうも窮屈さを覚える。
押し付けられた〈正しさ〉に従って動くと、結局は自発性が削がれてしまう。
(〈正しさ〉をどう定義するかは、非常にむずかしいところ)


日本での「PC」は、職業名の言い換えなどで特に、馴染みがあるだろう。
保父/保母」が「保育士」に、「家内」や「主人」は使うべきではない(「妻や夫、パートナーやつれあいはOKだそう)など。

こういうことは大事なことだけど、場合によっては「言い換えさえしておけばいい」ということになり、問題がすり替えられてしまいかねない。
言い方に氣を付ける以上に、そのことに意識を向けられたらいいんだろうな。


最後にもうひとつだけ。
人にお土産などを渡すときの、「つまらないものですが」という言い方、今ではもう「NG!」なんだそう。

「つまらないものを贈るなんて失礼な」って、本氣でそんな風に思うかな?
確かに、自分を低くすることで相手を立てるという「謙遜」のあり方はどうかと思うし、時代遅れということでいいとは思う。

ただ、「恩着せがましく」ないように、相手に余計な氣遣いをさせまいとする、そういうのってそんなに悪い〈氣遣い〉じゃないって思ったりする。

何となく、〈氣を使う〉ことがしんどくなってきて、〈氣遣い〉まで億劫になってしまう、今はそんな傾向もあるのかも。
現状で、みんなもう充分過ぎるほど〈氣遣い〉しているはず、なんだけどなぁ。

誰かが変に「がんばっちゃう」と、結局みんな「氣が抜けない」。
実はそういうのが一番、周りが〈氣を使う〉んだよね。

しかも、そういう人に限って「氣遣いができないヤツだ」とか、「アイツにはやたら氣を使う」とか、人の悪評を流す。
そういうただの「やっかみ」とか「妬み嫉み」とかで、人のことをとやかく言うと、自分の首が余計に締まるのにね。


そんなこんなで、まとまりそうでまとまらなかったけど(笑)
今日のところは、この辺で。


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(↑あかね軒の桜餅、関西はやはり道明寺ですね)


                    せれんでぃっぽ☆とむやん