とむやんの氣まぐれ雑想記

“探幸王”を目指して、さまざまな想いを綴ります☆

平和を築き上げるために。


最近ますます、すばらしいご縁に恵まれていて、本当にありがたい。
自分の実感としては、11月11日のライブを起点に「もう一段階上がった」ような、そんな氣さえしている。

そう、「Peaceful Night」と銘打ったあの日から、人との出逢いもどんどんすごいことになってきている。



「平和を築き上げるために、何ができるのか?」
それは常に考えてきたテーマだし、これからも問い続けていくだろう。

今までも薄々感じていたことではあったけれど、今回ふと書いておこうと思った。
今日のこの投稿が記念すべき?100個目だから、ってのが実は一番の理由だったりする。
(そんなわけで、氣合入り過ぎて、今回ちょっと長め)



最近、「出逢い」についての自分なりに大切だなと思ったことを、ここに書き残しておこう。


ひとつは、たぶん時間も距離も、あまり関係がなくなってきている、ということ。
単純に言えば、近くたって逢わない人には逢わない。
いいとかわるいとかではなく、時が経って「あんなに逢ってたのに」という人と急に縁遠くなったりもする。
かと思えば、遠方の人が急に訪ねてきてくれたり、そのときには不思議と距離も時間も飛び越えてしまった感じがする。
久しく逢っていなくても、それと感じさせないとか。


もうひとつは、上のことと多少関連するけど、過去の縁がどれだけあろうがなかろうが、今現在の縁にはあまり関係がない。
言葉としてうまく言えてるのかわからないけど、縁はいつだって「今ここ」から始まる、と言えばいいだろうか。
縁というものに詳しい人なら、そんなこと常識なのかもしれないし、もっとちゃんと表現できるのかもしれない。

いずれにしても、それは昔からあったことだけど、初めてお逢いしても以前から知っていたように感じるなんてことも多々ある。
もしくは、今までにも何度も逢っているはずなのに、ある日を境に急に「出逢い直した」ように、縁がぐっと濃くなることもある。


そして最後に、これは本当に個人的なことなのだけど、最近はステキなご夫婦に出逢うことが多い。
単純に、サラリーマンなどの仕事をしている男性とは、なかなか出逢う機会自体が圧倒的に少ない。
平日にどこかへ行くと、たいていぼく以外は女性なので、それはそれで嬉しかったりはするのだけど。

別に、「結婚」とか「家族」とか、そういう括りに幻想をもっているわけじゃない、どちらかと言うと、個人的にはそんなことは「どうでもいい」。
だけど、ご夫婦に出逢うことが増えてくると、「平和を築き上げる」ということがどういうことなのか、より見えてくる氣がする。



平和とは、さまざまな実践や経験であり、その中で実感していくこと。
以前にも書いたけど、たとえば結婚式、たとえばマルシェ。
ご縁のありがたさをしみじみ実感できる場所にいるというそのことこそ、平和への大きな一歩なのだと思う。

平和な時間というのを過ごしたことがなければそれを「いい」とは思えないだろうし、「いい」と思えなければそれを持続させたいとは思わないはず。

「平和という到達点がある」と考えるよりは、植物を育てるような感覚で捉えるといいのかもしれない。
花の見頃や実の食べ頃をいつにするのか、収穫すればまた次を育てていく。

地道で近道のない方法だけど、焦れば焦るほどかえって悪影響になりかねない。
ただ坦々と、それがまだ丸い小さな塊にしか見えない種だとしても、愛を注いでいくだけ。

思えば、夫婦関係とか家族というのも、到達点があるわけじゃない。
だから、「こういうのがいいんです」という理想像のようなものを押し付けられると、鬱陶しく感じるのだろう。
当人は「善かれ」と思ってやっているんだろうとしても。

それよりはむしろ、その過程の「ある瞬間」に出逢わせてもらうことの方が、「理想への道筋」がわかって嬉しいものだ。
そうすれば、違うということはそのままに、共通項があれば憧れたり影響を受けたりしていく。
だから、いい夫婦の到達点としては、「離婚」ってことだってありえると思うわけだけど、この辺はまだ世の中の常識からはだいぶかけ離れているかな。
ともかく、「縁」というのは、今の世間の価値基準でははかることはむずかしいものだ。

だから単純に、男性側女性側双方の意見や言い分が聞けるのは、本当におもしろい。
世の中的には、ジャッジすることが当たり前になり過ぎて、そのくせ片方の言い分だけで判断しようとする。

受け取り方でこうも違うものなのかと思うけど、渦中にいて自分サイドからしか見ていないときは氣付けないものだ。



先日、友人の家に家族でお邪魔して、お昼ご飯を一緒に食べたりした。
とてもステキな住み方暮らし方だなぁと、その時間と空間を堪能させてもらった。
お手洗いも置いてあるものひとつひとつ、その配置だとか、とてもかわいらしくて、思わず撮らせてもらった。
(後日、「隠し撮りさせてもらったよ」と伝えたら、言い方がよくなかったせいで危うく誤解されるところだったけど)

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「豪華」とか「贅沢」とか、そういうものを全否定するつもりはない。
けれど、ある種の「豪華」や「贅沢」は、「平和の一歩」を妨げてしまいかねない。
それをやめるということではなく、マインドをちょっとずつ変えられるといいんじゃないだろうか。

世間一般で言われる「豪華」や「贅沢」ではないけれど、そのお邪魔したお宅や、よく遊びに行く友人の家も、本当にステキだなと思う。

クルーザーやプールのある広い庭や、そういうものに囲まれた生活は経験したことがないのでよく知らないけれど。
多分、そういう暮らしを明日からどうぞと言われても、正直困ると思う。
(まあ、そもそもそんな申し出なんてあるわけないにしても)

先日は「くるくる」という、フリーマーケット的な会にお邪魔してきた。
(ちなみに、その会場となった友人宅もまたステキなお家だったりする)
「くるくる」とはまさに「言い得て妙」で、本来「マーケット(市場」)も「コミュニティ(社会)」も、くるくると循環させるのが望みであり、目指すものなんじゃないのかな。
誰かの不要なものが、誰かのほしいものだったり、誰かが得意だったり好きなことでそこに参加したり。
これが「縁」の縮図であり、「平和」への途中過程なんだと思う。

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コーヒーを淹れて、そこに身近な誰かのつくった美味しいスイーツがあったり。
そのコーヒー豆は、エクアドルの森の中で育った「ちょっとすごい」コーヒーだったり。

本当の意味で人や自然を邪魔しない、それどころかいいところを引き立て合うような、そういう「誰もが幸せな生き方」というのはちゃんと実現できる。
それを感じて、「幸せだなぁ」と思わずつぶやく、そんな日がどんどん増えているし、増えていけばいい。



ちょっとまとまらないけれど、今日はこの辺で。
本当は一昨日(2016.11.22)の「いい夫婦の日」に投稿する予定だったけど、それもまあよしとするか。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん