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今日(2018.3.1)は前回の続きというか、補足というか。
〈シンクロニシティ〉について、いろいろ付け加えたいなぁと思っていたら。
伯宮さんのブログで昨日、〈シンクロニシティ〉のことが書かれていたのです。
これこそ、〈シンクロニシティ〉?それとも、たまたま?
いずれにしても、そこには興味深いことが書かれていました。
伯宮さんは、「〈シンクロニシティ〉を重要視していない、ほとんど無視している」と。
ちなみに、続きもUPされていました。
シンクロの続き こんなことって起こりうるんですね|里山成功哲学コラム
伯宮さんの指摘が、ぼくの思っていることと一致しているのかはわかりませんが。
確かに、〈シンクロニシティ〉を意識し過ぎて、振り回されるのはよくないことです。
〈シンクロニシティ〉はあくまでも「起こった」ことが重要なのであって、「起きたかどうか」ばかり氣にしていると、本末転倒ではないかと思います。
つまり、「悦に入る」ために〈シンクロニシティ〉が起きるわけではなく、目的とする喜びの「副産物」のようなもの、と言えるかもしれません。
〈シンクロニシティ〉について、以前こんなことを書いていました。
ここでもやはり、「〈指標〉と捉えて人生がより円滑になるなら、いいんじゃないかなぁ」と、同じ主旨で書いていましたね。
実は、自分ではすっかり忘れていたのですけど(笑)
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改めて、〈シンクロニシティ〉とは何かを考えてみたいと思います。
〈シンクロニシティ〉は、カール・グスタフ・ユングによって提唱された概念の英訳。
日本語では、「意味のある偶然の一致」や「共時性(きょうじせい)」などと訳されることが多いようです。
たぶん、この辺が誤解を招くと言うか、理解されないところなんじゃないでしょうか。
というか、そもそもぼくも理解できているか、正直わかりません。
なので、これはあくまでもぼくが考える一つの説です。
正しくないかもだし、信じなくていいし、興味がなければどうぞスルーしてください。
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〈シンクロニシティ〉において重要なのは、単なる「偶然」とは言えないような現象が起こったこと、ではなくて。
その「偶然」に思えることは、実は双方が引き合って起こしていることだということ、そしてそれが不思議に思えてしまうこと、ではないでしょうか。
ユングは、個人的な無意識ともうひとつ、集合的無意識(普遍的無意識)があると主張しました。
つまり、人の意識は深層的につながる領域がある、ということ。
繰り返しますが、ぼくは専門家ではないので、正しいかどうかはわかりません。
話半分で読んでもらえると助かります。
さて、この深層的につながっている領域にアクセスすれば、テレパシー的に「離れていてもキャッチできてしまう」わけです。
しかも、本当はむずかしいことではなくて、ラジオのチューニングよりも簡単かもしれない、そんな風にぼくは思っています。
どちらかと言うと、テレビのチャンネルに近いイメージ。
見たいものがあったら、番組表を見てチャンネルを合わせますよね。
その「見たい番組」がブラウン管に映ったからといって、過剰に一喜一憂する人は最近ではあんまりいないんじゃないかな?(笑)
〈シンクロニシティ〉って、その程度のことかもしれません。
けれど、スイッチを入れてチャンネルを合わせさえすれば、「見たい番組」が見れる。
「それって、実はすごいことだよなぁ」なんて感謝してみる、そういう楽しみ方。
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〈シンクロニシティ〉は、出発点でも到達点でもなくて。
だから、テレビのチャンネル合わせで言えば、〈シンクロニシティ〉は番組そのもの、コンテンツではない。
あくまでも「チャンネルが合っていることの〈確認〉」なのだと思います。
わかりにくいので、もう少し全体の流れから考えてみます。
あることを達成しようとする、それを「電車での旅」に例えて。
(↑写真は先日、日野で撮った近江鉄道/ガチャコン)
ぼくは埼玉の実家に帰るとき、よく「青春18きっぷ」を利用しています。
だいたい9~10時間ほどの旅、乗り換えは6~7回。
この場合、まずは実家の最寄り駅を目指すこと、たどり着くことが「目的」。
電車の場合は、乗り換えの度に確認をしなくてはいけません。
この電車で合っているか、どこに向かいどこで降りるのか。
終点で降りることもあるし、途中で乗り換えることもあります。
一度、乗り換えて別のホームから列車に乗り込んだのに、今来た路線を逆戻りする電車に乗ってしまったことがありました。
そのときは長男がすぐ氣付いてくれたので、よかったのですが。
人生でも、「本当にこれでいいのか?」と迷うことがあります。
「自分のやりたいことはこれなのか」、「この方法でたどり着けるのか」。
その点は電車とは違って、人生はもっとシンプルな氣がします。
目的をチャンネル合わせのようにセットすれば、ちゃんとたどり着けるのです。
それなのに、「どうやってたどり着こうか」を思い悩み過ぎているみたいです。
とは言え、迷いがあると微妙に方向がズレたりもします。
そのときに〈指標〉があれば、軌道修正したり、確信したりができるわけです。
止まった駅の名前を見たり、車窓から富士山を見たり。
電車でも停車する度に駅の名前をチェックする必要はありませんよね。
チャンネル合わせがあっていれば、何度も見なくてもいいのです。
(電車の場合は、山科で琵琶湖線に乗るはずが湖西線に間違って乗ってしまい、なんてことも多々ありますが)
見ても見なくても、路線(チャンネル)が合っていると、停車駅を順番に進んで行きます。
それを不思議に思う人は、あまりいませんね。
そしてもちろん、まったく見なくてもいいのです、寝ていてもいい。
(伯宮さんが「ほとんど無視している」というのは、この感じでしょうか)
起きたら終点近くの駅を過ぎたところだった、そんなときも驚きはしないでしょう。
「もうここまで来たのか、案外早いなぁ」と思うことはあっても。
「〈シンクロニシティ〉探し」に夢中になる必要がないことは、こういうことだと思います。
あまり深読みをせず、意味を考え過ぎないこと。
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長くなってしまい、説明が回りくどくなってしまいましたが。
〈シンクロニシティ〉は、「今あるべき自分でいる」ことが軸。
そこを信じることができれば、〈シンクロニシティ〉はどうでもいいんです、きっと。
それで、実はこれの続き「その2」を書く予定だったりします。
もっとややこしいかもしれないこと、今の常識では考えられないようなこと。
だけど、そこまで含めて考えてみると、〈シンクロニシティ〉のおもしろさがわかるかも?しれません。
せれんでぃっぽ☆とむやん