とむやんの氣まぐれ雑想記

〈探幸王〉を目指して、さまざまな想いを綴ります☆

神さまの時間調整。


「神さまの時間調整」。
この言い方は、斎藤一人さんの動画(音声)で知りました。
言葉は違うけど、浅見帆帆子さんも「何かの時間調整」という言い方で、本田健さんとの対談で語っていたり。

「起こったことは全部マル」などなど、拡大的に捉えてみると、本当に多くの人が指摘していることです。

先日のRAKUICHIでのコーヒー出店でも、お一人は待てずに帰られ、もう一方はもうどこかへ行かれてしまいました。
前回書いたように、こちらが遅いので申し訳ないのですが。

30年続くかはわからないけど。 - とむやんの氣まぐれ雑想記


でも実際、タイミングというのは「神さまの采配」だと思っているので、何ともしようがないのです。
(ぼくが言う「神さま」は、特定の宗教ではなく、あくまでもイメージ的なもの)



30代の頃、ぼくにとっての「バイブル」だった、ひろさちやさんの『「狂い」のすすめ』。
その中で特に、イスラム教の「イン・シャー・アッラー(インシャラー)」について書かれたところが大好きです。

「もしも神が望んでおられたなら」という意味の言葉で、イスラム教徒は未来のことを言うときには、必ず言わなければいけないとされているそう。

ひろさちやさんは最初、この言葉が好きではなかった、と書いています。
なぜなら、イスラム教徒のガイドさんが遅刻をしても、「神が望んでおられなかったのだ」と、謝罪もしないのだとか。

けれど、後で考えてみると案外論理的だと、ひろさちやさんは氣付きます。

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人間努力で何ごとも何とかなる、というはある意味危険な考え方かもしれません。
ぼく自身、それを手放すようになってからは、イライラすることが格段に減りました。

そして、「これでよかった」と思うことでますます、ビックリするような「偶然」がどんどん起こったりします。



例えば、長男と南草津まで行く用事があって、でももうちょっとのところで電車が行ってしまいました。
走って急いでいたら間に合ったのかもしれませんが、それでケガでもしたらイヤだし、焦るのをやめたのです。

そうして乗り込んだ次の電車で、京都に向かう友だちの子ども2人と会いました。

会ったから何?というわけでもないのですが、そういうことがあると「やっぱり、これでよかったな」ってつくづく思ったりします。
ちょっとしたことだけど、長男も嬉しかったみたい。

一本遅らせてなかったら、そしてその車両でなかったら、出会えていないんですよね。



例えば、草津駅前のエイスクエアで買いものを済ませて、STILLROOMでのイベント(ブックカフェ〈ABC〉)に向かおうとしたとき。
自転車で小道に入ろうとしたら、後ろから声が聞こえます。

振り向いてみると、女性が手を振って横断歩道を急ぎ足でこちらに向かってくる。
その方とはたぶん面識がなく、けれど共通の友人がいることから、憶えていてくださったみたいでした。

近々開催される政治関連のイベントがあまり集客できていないらしく、たまたま見かけたので声をかけた、とのこと。

エイスクエアでの買いものを、もしもっとスムーズに済ませていたら、きっと出会わなかっただろうと思います。
その方とはその後お会いしていませんが、何だか不思議ないい経験をさせてもらいました。

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(↑写真は、その日のSTILLROOM)



斎藤一人さんは「神さまの時間調整」について。

何かを忘れて取りに戻ったとして、でもそれでも「ツイてる」んだよ、って。
もし自分の思う「時間通り」に動いていたら、交通事故にあっていたかもしれない。


いわゆる「シンクロニシティ〈synchronicity〉」と言われるもの。
シンクロニシティを味方につけると、本当に人生がおもしろくなる。

ぼくは実際、最近シンクロニシティだらけです。

シンクロニシティを起こすコツは、「ツイてる」って言うこと。
そうやってスイッチを入れるだけで、「神さまの時間調整」がたくさん起きてることを実感できると思います。


一人さんも言っているけど、「焦る/焦らされる」のって、本当によくない。
前々回にUPした「ピースミーティングテーブル」の中でも、そういう話が出ました。

ピースミーティングテーブル。 - とむやんの氣まぐれ雑想記



すべてがうまくいってる。
だから安心して、人生を楽しんじゃおう☆


                    せれんでぃっぽ☆とむやん