とむやんの氣まぐれ雑想記

〈探幸王〉を目指して、さまざまな想いを綴ります☆

輝かしい日々に。


年月を振り返るとき、「もう」なのか、「まだ」なのか、毎回考えるわけですが。
7年、やはり「もう7年」か、という想いの方が、個人的には強い氣がします。

2011年3月11日。
あの日のことは、忘れることはできないけれど。

このブログで今まで、震災や原発事故のことって、実はほとんど書いていないのです。
7年経っても、どう言葉にしていいものか。

その意味では「まだ7年」、ということかもしれません。


(↓2016年の長男の誕生日に、ちょこっと振り返ってみたことはありました)

長男の誕生日に思うこと。 - とむやんの氣まぐれ雑想記




先月のオーガニックマーケットでの、ピースミーティングテーブルで。

ピースミーティングテーブル。 - とむやんの氣まぐれ雑想記


後半でぼくは、〈絶望〉の話をしました。
まだ自分の中でも消化できていなくて、うまく喋れませんでしたが。


「絶」は人が刀で糸を切る形から、「それ以上続けない」という意味。

何となく、〈絶望〉という言葉だと、ちょっとつらい印象ですが。
でも、望みが一度「絶たれ」ても、また歩き出すこともできる。

そして、そのどん底の経験があれば、その後は何があっても「大丈夫」って思える。

「崖っぷちありがとう!!最高だ!」って、松岡修造さんの名言があるらしい。
もちろん、みんながそう思えるわけではないし、押し付けるわけではなく。

自分はその境地に行けたらいいな、なんてことを思ってみたり。


ただ、〈絶望〉とか「崖っぷち」とかって、あまり言わない方がいいんでしょうねぇ。
「ピースミーティングテーブル」で言ってしまってから、「しまった」と思ったものの、後の祭り。
(喋ってしまったことは仕方ないので、「今後は」ということで)


〈絶望〉の裏側にこそ「希望」があって、人に向けるのはその「希望」の側。
例えば〈孤独〉とかもそうだけど、仮面(ペルソナ)の裏にはそういうある種の「ネガティブ」を秘めているもの。
そして、それ自体は殊更言わなくてもいいこと、なんでしょう。

それは、「強がり」とか「やせ我慢」とか、そういうことではなく。
また、「もっとつらい人もいるから」とか、そういう遠慮とかでもなく。

ある種の〈覚悟〉、ということなのかもしれません。

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(↑写真はたまたま今月撮ったもの、内容とは無関係です)



誰かを犠牲にしたり、その犠牲を前提にした社会なんて、もう懲り懲り。
それを変えるために、3.11以前からもいろいろやってきたつもりではいたのです。

それでも、ある種の〈本氣度〉が全然足らなかったんだと、今は思います。

じゃあ、その〈本氣〉ってどんなだろう?
もしかしたら、「顔で笑って心で泣く」ってこと、かもしれない。
この慣用句って、本当はニュアンスが違うんだろうけど。

それって、〈我慢〉とも違う。
ある意味での〈代償〉、みたいなものだろうか。


震災後、〈危機感〉に煽られ、焦りや不安ばかりが自分の中に渦巻いていました。
そのときが一番つらかったし、それでは何も変わらなかった、変えられなかった。

いわゆる、じっくり「腰を据えて」というスタンスが重要なのだと、改めて思います。

結局、その年の夏に滋賀に移住することになり、滋賀に定住することにして。
それもひとつの「腰を据える」やり方だったし、ぼくたちにとってはそれがよかった。

〈絶望〉のいいところは、そこに向き合ってみると、感謝できることにたくさん氣付けるということ。
以前書いた、「感謝の棚卸し」ともリンクする話ですね。

感謝の棚卸し。 - とむやんの氣まぐれ雑想記




実は、震災の後の心境を歌詞にしたオリジナルソングがあります。
以前、「歌詞はまた別の機会に」と書いたのに、結局まだ載せていなかったので。

ROOM - とむやんの氣まぐれ雑想記



完成から2年が経ってしまって、「今さら」な感じですが。
せっかくの機会なので、最後に歌詞を貼り付けておきます。

ストレートに心情を語る、のではなく。
「失恋の喪失感と、そこから立ち直る」、そんな風に解釈できる歌詞にしました。



そうそう、歌詞の前にもうひとつだけ。

昨日、2018年の3月11日は、「守山わくわくマルシェ」に行ってきました。
お目当ては、「パン工房まひろ」の天然酵母パン☆

「パン工房まひろ」の郁子さんと喋っていると、本当にいろいろな氣付きをもらうことがあります。

(↓昔、こんな記事も書いたりしました)

人生はタカキビのコロッケ☆ - とむやんの氣まぐれ雑想記

手間隙。 - とむやんの氣まぐれ雑想記



今回もいい話をいろいろ聞かせてもらいました。

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(↑あんぱんと、初めて挑戦したグリークコーヒー)


ぼくがさっき言いたかった〈覚悟〉って。
「幸せになっていいよ」という許可を自分に与えること」なのかな。
「やりたいことやっていい」し、「どうせ自分にはムリ」なんて思わなくていい。

今日、たまたま出会った方とも、そういう話になったのです。
「またいつか」はもう巡ってこないかもしれない、というようなこと。
震災後は特に、多くの人がそのことを痛感したんだと思います。

焦ってやることはない、だけど今やれることは後回しにしない。
逆に、今できないということ、それにもちゃんと意味がある。

これも以前、「神さまの時間調整」で書いたこと。

神さまの時間調整。 - とむやんの氣まぐれ雑想記
(今日は過去のブログ記事のオンパレードになってしまいました)

今、自分が「やりたいこと」と「やるべきこと」って、実はちゃんと一致する。
あとは、自分に「OK」を出すだけ、なんでしょう。


これ以上書くと終わらなくなるので、今日はここでやめておきます。
やはり、「どう言葉にしていいか」わからないものほど、長くなってしまうものです。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん



  輝かしい日々に

出会わなければよかったなんて 悔やんでも
時が経てば都合よく 忘れてしまうから
本当のしあわせ 見失うままに
道をあやまった

見上げた空は染まった 紅くどこまでも
鳥は何も知らないで 彼方へ飛んでいく
茫然としながら 覗いた箱には
希望が映った

偽りを続けて 命まで預けて
何も学ばないのなら
お互いに無理して 気付かないふりして
何を得たというのだろう?

輝かしい日々に お別れ
素直にもう言えるよ ありがとう
あたたかい陽射しに 抱かれ
ぼくは次へ 向かっていくよ


軽く涙をぬぐった 夢をあきらめて
同じ嘘を信じても 元には戻れない
不自然な理屈を 押し付けた先に
未来はなかった

街に灯りがともった 夜の静けさに
君のことを考えて しばらく目を閉じた
闇雲に答えを 探すのはやめて
小さく歌った

不要なものばかり 不幸なものがたり
いつ終わりにするのだろう?

〈ソロ〉

取り残された心は ふるえている
行き場のない淋しさに ゆれている
もういいよ そっとしておいてあげて

新しい扉は開かれた

季節を変える風 の力
ここからまた明日へと 旅立とう
眺めのいい丘の 上から
ぼくは次へ 向かうよ

輝かしい日々の 想い出
素直にもう言えるよ ありがとう
受け継いだ光を 紡いで
ぼくは次へ 向かっているよ