とむやんの氣まぐれ雑想記

〈探幸王〉を目指して、さまざまな想いを綴ります☆

失恋状態ってなんなんだ?


ひと月以上前だけど、友人の家での【ABC】に参加してきた。
(【ABC】については、こちら↓)

ブックカフェ「ABC」☆ - とむやんの氣まぐれ雑想記


オルタナティヴ・ブック・カフェ【ABC】」なのに、最後までほとんど「本」が登場しないという、まさかの展開。
参加者が少人数で顔見知り同士だったからか、最初からアクセル全開な感じだし。
まあ、それはそれでかなりおもしろかった。

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参加してくれた友人が放った、「オレは常に《失恋状態》」という言葉。
これが全員に、小魚の骨が喉に刺さったように、残る。

しかも、当の本人はそれ以上うまく言葉で表せないという。
だから、各々が思い浮かべるイメージが、どこが同じでどこが違うのかも定かでない。

けれど、かえってそれがまた興味深い。

判然としないのに、それでも「わかるなぁ」と思える何かがある。
そして、それをもう少しクリアにしたくて、今日もまたあれこれ考えている。



《失恋状態》とは、なかなか「言い得て妙」だ。
これは単純に、「恋愛」に関することに限らない(はずだ)。

そもそも、「恋愛」というものの境界線が、実ははっきりしないのではないか。
例えば、一目惚れで買ったギターを大切にする感情は、恋愛のそれと絶対的に違うとは言い切れない氣がする。

だからこそ、「仕事と私、どっちが大事なの?」なんて、何だか古いドラマに登場しそうなセリフが存在するんじゃないのか?なんて、ふと思ったり。
それは単に「混同してるだけ」との反論もあるだろうが、やはり境がわかるようでわからないものなんだろう。

そう言えば、「一目惚れ」だって「絶対信じない」という人もいる。
それをれっきとした「恋愛」だと信じる人との間に、どうしても「壁」がある。
つまり、恋愛の境界線は人それぞれ、共通する「正解」なんてない、と言える。


そう考えると、《失恋状態》とは単なる比喩ではない、ということに氣付く。
対象が、友人であったり肉親であったり、本だったり仕事だったりもするだろう。
相手が人とも限らず、目に見えるものとも限らない。

そんな風に考えると、ますますおもしろくなるけれど、どんどんわからなくもなる。



さて、一度立ち戻ってみよう。

《失恋状態》って、要は「想いが果たされない、やるせなさ」かな、と定義してみる。
じゃあ、その「想い」って?
それをここで書くと長くなるので(実際書いていたら収集つかなくなったので、二つに分けた)、続きものにしてみる。


それで、これもふと思い付いたことがあって、それだけ書き残して今回はとりあえず終わりにしよう。


逆に、「想いが果たされる」とはどういうことなのか?
その点、恋愛ならわかりやすい、ように見える。

相手も、自分と同じような「想い」をもっていてくれたなら、それは失恋にはならないはず。
もっとも、伝えなければ《失恋状態》にもならない代わりに、「両想い」にもならない。

じゃあ、その「両想い」ってなんなんだ?
異性が相手の話なら、実際の細かいすれ違いは置いておくとして、「お互いが好意を寄せていて、そのことが確認できている」状態なんだろうと思う。
お互いが「何となく好きでいてくれているんだろうな」という「両想い」もあるのだろうけど、それだって何かしらの表現行為がないと、なりたちにくい。

特に女性は、それを確認したがるものだ。
それもそうだろう、当然「氣変わり」することはあるわけだし、疑い出せばどんどん不安になってくる。

けれど、その「氣変わり」は当然自分にもあることを忘れてはいけない。
ところが、その自分に対する確認が、案外なかったりする。


自分がどれだけの「想い」をもっていたのか。
例えば、あんなに好きだったのに、振り返ってみれば自分でも不思議なくらい、なぜだったかわからない、なんてことがよくある。
相手がどう想ってくれるか以上に、自分の想いの変化に自分が追い付かないとき。
それって実は、結構手痛い《失恋》なんじゃないか、と思えてくる。

その「想い」だけが、自分のコントロール下にあるはずのものなのに、そこが揺らいじゃうと、次に何かするときに二の足を踏んでしまう。



そもそも、このときの【ABC】は、「さびしさからはじめよう」をテーマにしていた。

《失恋状態》を「想いが果たされない、やるせなさ」と定義してみたけど。
ここまでくれば、実は対象が問題なのではなくて、自分自身の問題なんだと氣付くはずだ。
つまり、自分の中のさびしさや孤独に向き合い、それとうまく付き合うことができなければ、いつまでも自分に裏切られることになる。
それが究極的に言えば、《失恋状態》なんだろうと、ぼくには感じられた。

対象を通して、結局自分自身を見つめ直したりしていく。
もしそこを起点としなければ、他人の評価でしか動けない、そんな風になりかねない。
そうなれば、着る服のテイストや好みの音楽を相手の趣味に合わせてコロコロ変えるようになってしまったりして。
影響されて心からそれが好きになったのなら問題はないだろうけど、ただ氣に入られようとするだけなら、もうその時点で自分自身への裏切りが始まっているとも言える。


《失恋状態》と表現した友人は、「オレはこんなもんじゃない、もっとすごいんだ」という想いがどこかにあるんじゃないか?
実際、その不完全燃焼っぽさが漂っているし、傍から見ても「そうだよ、まだまだすごい可能性が掘れば出てくるよ」と思う。
彼に会ったぼくの周りの人の多くが、実際そんなようなことを誰もが口にする。

実は今日、その友人の誕生日なのだ。
彼はこれから、ますます花開くだろうし、もうそのスタートを切っているのは感じている。

今回の記事が、彼への何かしらのエールになれば、それがぼくなりの誕生日プレゼントになるのかなとも思うし、まあそれはどちらでもいいことだ。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん

ワクワクをわかち合う。


今日(2017.2.19)は第三日曜日、オーガニック&つながるマーケットしがに行きました。

先月のマーケットが雪で中止、企画されていた野外寺子屋も延期となり。
(昨日の記事も雪で延期って話、この冬なぜか週末に大雪になりますね)

タイトルがちょっと長くて。
「学び」をみんなで語ろう
子どもたちと一緒に「育ち学ぶ場」をつくるお母ちゃんたち座談会。

妻のメイコもトークのメンバーに加えてもらい、そしてなぜか直前にぼくが司会進行役を仰せつかり。
(なんだかんだ言って、案外こういう流れはキライじゃないのかも)


一時間ちょっとの間だったけど、とても実りの多い座談会でした。
何しろ、メンバーそれぞれがおもしろ過ぎた☆



トークの振り返りは、憶えていない部分も多々あるし、何しろ一時間分あるので今日のところはやりませんが。
そこからちょっと発展的に、思い付いたことを今回は書き残しておこうと思います。


今日のトークの中で、「頼る/頼らない」という言葉も、ちょっとしたキーワードとして出てきました。

言葉として、「委ねる」とか「任せる」とか、さまざまな言い換えもできるでしょう。
この辺はまた改めて整理できたらおもしろそうですが、今日はざっくりと。

今の社会では、政治も教育も誰かや何かに「頼り」過ぎている部分があるかも?
もっと自発的に、自主的にできることがある、やりたいことがある。
ここもざっくりですが、そういう流れから「自分たちで教育の場をつくっちゃおう」となったのは、ある意味自然なことかもしれません。

一方で、もっと他者に「託した」方がいいよねってことも、出てきている。

同じようだけど、ちょっとの違い、そこに「ズレ」があるように感じます。
(今日のトークの内容は、その「ズレ」を戻すヒントがたくさんあった)


今回のトークでも、「ワクワクすること」をやる、というのが大きなテーマとしてありました。
そういうことって、一人で背負うより「わかち合い」たくなるもの。
(独り占めしたくなるときもあるけど…、シェアして食べた方が美味しい、とか)

ところが、「やらなきゃいけない」ことは、「押し付け合い」になりがち。
そして、誰かが「貧乏くじ」を引かされ、誰にとっても後味の悪い結果になっていくことが多い氣がします。


最近騒がれている「PTA問題」も、庇護する側は「子どものために」と言います。
でも、本当にそうなのかな?
その「やらなきゃいけない」ことは本当に誰かのためになっているのか、「やらなきゃいけないこと」なのか、そこまで探ろうとしません。
結局、必要のない本当の意味での無駄なことを押し付け合う構図となる。

原発は、まさにその典型だったはず。
(ここも今日のところは掘り下げずにおきます)

「ワクワクすること」をやっていく、もしくは「ワクワクする人」がそれを請け負う。
そういう流れがいいと、氣付き始めている人が増えている。



前々回などに書いた、ドネーションのことなども、この辺と絡めてまた考えてみたい。
例えば、「貝=お金」で「任せる」というのが「賃」になる、そこから考えてみてもいいのかも。

それから、知り合いのご夫婦といろいろ話していたときにふと出てきた「わらしべ長者」の話。
そこから「わらしべ通帳」という、新しい(たぶん)地域通貨的なもののアイデアとか。

今日のところは備忘録に留めておくことにします。

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(↑写真はマーケットで食べたガレット、美味しかったな~♪)


                    せれんでぃっぽ☆とむやん

うみうた。


今日(2017.2.18)は、二十四節気でいうところの「雨水(うすい)の日」。
お雛さまをこの日に飾ると、「良縁に恵まれる」との言い伝えがあるそうですね。

そして、暦的にはもう春がやってきますよっていうことらしく。
(今年は雪が多いので、どうなんでしょうね)

雪が雨に変わってくる季節の変わり目、「雨水」。
水は生命の源、そこから「母」が連想され、子宝や子孫繁栄などの意味が加わってきたようです。

というわけで、今日は「産む」ことについて。


このブログでも何度か書いた、夫婦デュオの「nanaoto」。

みんなタレント☆ - とむやんの氣まぐれ雑想記
(↑以前は「ななおと」で紹介)

2月11日に、日野のステキな古民家カフェda-naでライブ!ということで楽しみにしていたのですが。
その前日に日野では大雪、残念ながら春に延期となってしまいました…。


実はこの日、友人のダンサーericoちゃんとコラボを計画していたのです。
ぼくは音楽担当。

彼女は出産一ヶ月前、ということでダンスのテーマは、「うむひと」。

ダンスに曲をつける、しかもそのイメージに合わせて、というのはやったことがない。
今回はコード進行を何となく決めて、そこから発展させていきました。
いつもは歌詞先行なので、あえてやったことないやり方をぶつけてみよう、と。

友人のちさちゃんが詩を書いて、ダンスのイメージのドローイングをアトリエイチイチのあーちゃんが描いて。
そしてダンスを何度か見て、ぼくはまた歌詞と曲を練って…。

コラボでは歌詞は使わないつもりでしたが、つくってしまいたかった。
そのときの勢いって大事だし、期限に間に合わせられるのかどうか挑戦したかった。

結果としては、前日にほぼ完成。
後で最後の部分を転調させることにしたので、歌詞の一部を変えましたが。



それで、ライブのことに話が戻ります。

日野までは行かれない、でも栗東草津では全然雪が降っていない。
ということで、急遽ダンサーericoちゃん宅でのゲネプロ的なライブをすることに。

「nanaoto」は春にリベンジだけど、ericoちゃんは出産前にやっぱり踊ってみたい、ぼくもそれに合わせてみたかった。
(来たかった方もたくさんいらっしゃったと思います、申し訳ないけど今回は関係者とその周辺の方にだけお声を掛けました)

コラボもとてもいい仕上がりだったと思います、必死だったのであまり客観的には観れなかった。
ライブは最高でした、今年の「nanaoto」は一段とすごいことになってる☆

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(↑今回のためにつくられたという渾身のBEST版CD、これまたすごくいいです♡)



最後にまたオリジナル曲の話に戻ります。

タイトルは、「うみうた」。
途中で「産み」から「海」のイメージ、そして今日の冒頭にもつながるけど、「水」のイメージが何度も出てきて。

それぞれのコラボ、「うたう」「おどる」「えがく」を入れて、古民家da-naの語源「与える」も入れようと決めていて。
自分は子どもを「産む」経験はしたことがないけど、でも「産まれる」方の体験は全員あるわけで。
まあ、憶えている人は極々稀でしょうけども。

「うむ/うまれる」を一回客観的に見て、そこからイメージを膨らませてみました。

最後に歌詞を載せます。
自分としては、今までの中でもかなりいい出来じゃないかと、思ってたりします☆


                    せれんでぃっぽ☆とむやん

うみうた

intro】

わたしは、うたう
しずけさに 浸りながら
降りそそぐ 音に
言葉を与える

あなたは、おどる
よろこびに 満ちあふれて
くり返す 声が
鼓動と重なる

ずっと ひとりきり
かなしみに暮れて
じっと 耐えていた
殻に 閉じこもった ままで

間奏】

わたしは、えがく
何度でも 愛を込めて
美しく 強く
理想をもとめる

そっと 手をのばし
ほほえみに触れて
やっと 氣付いたの
深く 信じあって いたこ

あなたは、ねむる
つかの間の 夢の中で
おだやかな 波に
身体をゆだねて

outro】

ドネーションのこと。


前回書いた《香味Labo》、一昨日昨日と「開店」してみました。

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一昨日は何だかいろいろな要因が重なってか、ありがたいことに満員御礼でした。
狭いアパートなのでぎゅうぎゅうな感じでしたが、和氣あいあいとした楽しい時間になりました。
ありがとうございました☆



本題の前に、ちょこっとご報告。
このブログ、スマートフォンからだと字が小さくて見づらい、と教えてもらいました。

なので、設定を変えてみたのですが、どうでしょう…?



さて、本題。

この《香味Labo》は、「ドネーション制」にしてみています。

ドネーション [donation]」は辞書によれば、「寄付」や「贈与」のこと。
語源は、ラテン語で「差し出す」という意味の言葉。

まだまだあまり聞き慣れないし、やっぱり抵抗のある方もいらっしゃるかと思います。
でもだからこそ、実験的にやってみたいなと、前々から思っていました。


何の実験かというと、いわゆる「貸し借り」に関すること。
「貸しをつくる」とか、「借りがある」とかの、「貸し借り」。

一般的に、誰かに「借りがある」状態のままっていうのはイヤなものかもしれない。
「借りを返したい」という氣もちが、いつしか「返さなきゃ」という強迫観念になってしまったり。

たぶん、ヴァレンタインデーを考えるとよくわかる氣がします。

最近はすっかり女性同士のイベントになっているけれど、どちらにしても「お返し」が「あって当たり前」で、もう最初から「見返り」が前提になってしまっている。
こういうイベントって、別に「アリ」だとは思うのだけど、どうしてどんどんつまらない方に行ってしまうんだろう?


まあ、それはさておき。

言葉的にも似ているからか、書いているうちに「貸し」と「借り」がごっちゃになって、わからなくなってくる(笑)
なので、これはまた別の機会に、また。


ともかく、「貸し借り」というのをあまり意識し過ぎず、そして「見返り」を求めることから離れてみるのがいいようです。
心から「やりたい」と思うことを日頃からしている、もしくはそういう意識でいれば、打算的な思考回路ではなくなる。


打算で動くことが、なぜあまりいいことにはならないかと言うと。
結局のところ、人生ってたぶん「借りを返していく」こと、に尽きるんじゃないかな。
(と思って調べてみたら、永六輔さん作詞の『生きているということは』に、まさにその言葉がありました)

この身体も含めて、すべてが「借りもの」だということ。
そして日々、どれだけの「恵み」を、しかも「無償」でいただいているか。
そのことに氣付くことこそが、その人を真の意味で「豊か」にするみたいです。

その「豊か」な人は、経済的にも恵まれていることが多いようで。
その「恵み」はいただいたものだから、返していくという考えを元に行動している。

ノブレス・オブリージュ」は、その典型かもしれません。
( [noblesse oblige]、直訳すると「高貴さには義務が伴う」というようなこと)


「お金」にフォーカスしてみても、単に等価交換のために支払うわけじゃない。
いや、等価交換を考えてみても、たとえば商品を買うにも人件費とかいろいろなものが含まれているわけで。
富士山などで買うジュースが通常より高いとか、まあそんな感じとか。

その辺は、「等価」ということを改めて考えないといけないわけですが。
ざっくり言えば、その「等価」って、結局のところ「千差万別」。

じゃあ、その感覚の違うまま、むしろその人のそのときのフィーリングを第一にしてみたらどうなんだろう?というのが、ドネーションの理念でもあるんだと思います。



ここまででも、結構長くなってしまいましたが、もうひとつ。

等価交換を考えるなら、当然「お金」じゃなくてもいい。
「お金」は交換をスムーズにする上でも、とても助けになる存在ではあります。

ただ、普段の支払いのときも、「お金」だけを交換しているわけではなく。

例えばだけど、最近はカフェなどで会計するとき、「美味しかったです」と一言添えるようにしています。
(まだまだ言えなかったり、忘れてしまうことも度々ですが)

その逆の極端な例を挙げれば、考えやすいかもしれません。

一時期、「給食費を払っているんだから、いただきますと言わせないで」という、本当かどうかわからないようなことが話題になりました。


《香味Labo》では、来てくださった方に喜んでもらえるように、できるだけのことをしたい。
だから、それに反応があればやはり嬉しいし、今後の励みにもなります。

小銭でもお札でも、自分のところで穫れた野菜でも、お菓子つくってきたよでもいい。
それはいわゆる「等価」かどうかはわからないけど、お互い嬉しい氣もちになれたらいいなと思うのです。

もしくは、今はお金に余裕があるから多めに入れておこうでも、また今度入れるねでもいい。

そもそも、来てくれたということ、それが何よりも嬉しいのだから。
そんなわけで、最初はちょっとビビるかもしれないけど、氣軽に実験感覚でドネーションを楽しんでもらえたらと思っています。


だいぶ長くなってしまったけど、ドネーションについて今思うこと。
今後もまた補足的に書いていこうと思います。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん

香味Labo☆

今週のお題「新しく始めたいこと」


昨年のちょうど今頃だったか、思い付きで始めた「自宅アパートde珈琲スタンド」。
当初は名前もなく、手探り状態で何度かやってみて。

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本当にただ、自宅のアパートを開放しているだけなので、別に「ステキな」わけでも取り立てて「売り」があるわけでもなく。
(むしろ散らかっていて、申し訳ないくらいですが…)
それでも、来てくださる方々がいて、本当に嬉しい限りです。



昨年末から、何か「愛好会」のような、「珈琲サークル」のような形でやりたいと思い始めて。
今回のブログお題が「新しく始めたいこと」だったので、それに絡めて今後の展開を書いてみます。



コーヒーって、つくづく「正解がない」なぁと思います。
一定の正攻法というか、その人にとってのセオリーというのはあるかもしれない。
けれど、それもまた変化していったりして、そこがまたおもしろい。

これはコーヒーだけでなく、紅茶なども同じ。
ただ、紅茶はちょっと「正解」に近いものがある氣がして、より敷居が高く感じていたりはする。

いずれにしても、最終的に「美味しい」と思える、やっぱりそこが重要。


そんなわけで、コーヒーや紅茶などに関しての交流の場としての役割を以前よりも強調してみようと思っています。
《香味Labo(こうみらぼ)》と名付けて、今までのように不定期での開催。

教室のようには教えたりできないけど、自分なりの淹れ方やコツはお話できます。
また、飲み比べしたり、コーヒーの自家焙煎の試飲とかもしてみたい。
今までと同じ、ただコーヒーや紅茶を飲みに来たり、お喋りしにきたよというのも嬉しいです。
そうそう、「どこどこのカフェ、とてもよかったよ」なんて情報交換もしたい。
(お氣もちでドネーションも大歓迎♪)


そんな自宅アパートde珈琲スタンド《香味Labo》。

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今週の2月14日[火]、15日[水]のだいたい16時から18時の間に、滋賀県栗東市の自宅アパートで。
今回はオーガニック&フェアトレードの紅茶やココアの販売もある予定です。
(コーヒー豆は、今回は販売用はありません)

ちなみに、14日[火]の10時半からは【ABC】を開催予定ですので、そちらもよろしくお願いします☆


                    せれんでぃっぽ☆とむやん

「我」とは?


一昨日(2017.2.9)は京都へ。

誠光社でのビブリオトークが第一の目的、でも行くからには他もいろいろ廻りたい。
ラッキーなことに、見たかった写真展が期間中だったので行くことができた。
(ビブリオトーク等は、また機会があれば別のときに)

以前、このブログにもちょこっと書いた、フォトグラファーのオザキマサキさん。

〈時間〉というもの。 - とむやんの氣まぐれ雑想記


彼の写真展が京都のギャラリーヒルゲートで、明日までの開催。
「オザキ マサキ 写真展 没後1年、京都で初女さんに会う。」

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前回、前々回の投稿にも関連するかもしれないけど、言葉にはある種の〈力〉がある。
でもだからこそ、「数打ちゃ当たる」ようなものではない、それはたぶん誰もがそう感じているはずだ。

それを踏まえても、やはりひとつの言葉が「発散する〈力〉」というのは、かなりのエネルギー量だと思う。

例えば、何か氣に食わないことがあって、それを誰かに愚痴ったとする。
それで一見、その本人は「発散」された氣がするだろう。

けれど、本当にそうなのか。



オザキさんは寡黙、というわけでもないが、ぼくみたいにベラベラ喋るでもない。

写真についても、聞いた話によればシャッター音が邪魔になるんじゃないかと、最小限しか撮らなかった、と。
それは古いモデルのカメラで、シャッター音はうるさくも不快でもない、それでもそうしたと聞いた覚えがある。


例えるなら、小川の水を掬おうと手を伸ばす。
それがその小川の流れに致命的な作用となってしまうかもしれない、それを最小限に抑えようと、そっと掬う。

オザキさんの写真の一枚一枚に、表面的ではないそんな「優しさ」を感じる。


だから、当たり前だけど、写真一枚一枚がベラベラと語るような感じはしない。
流れの瞬間を切り取っていないから、その掬った一枚一枚にはまだその流れが続いているように思える。

実際、オザキさんとお話して、その中で何度かの沈黙の時間があったけど、それが妙に心地よかった。



彼はそこに「いるようで、いない」/「いないようで、いる」。
仏教でいうところの「小我」に全くとらわれていない、そんな感じがする。
(何だか字面で見るとイマイチな感じだが、自分にとっては「褒め言葉」のつもり)

「無我」という言葉もあるが、それに近いのかもしれない。
正確に認識していないので違うかもしれないけど。

そうすると、「我」というものの定義を改めて考えてみたくなる。



写真でここまで心を揺さぶられることって、ぼくは今までそんなになかったかもしれない。
佐藤初女さんのことも以前から聞いて知ってはいたのに、ぼくはこれまで氣もちが向くことがなかった。

けれど、それはそれで自分にとってはよかったなと思う。
オザキさんの、そこに「ないようで、いる」視点から佐藤初女さんと〈出会う〉ことができた、その方がぼくにはよかった、と。
もちろん、ご本人にお会いできる機会があれば、その方がよかったのだろうけど。


こういうことは特に、うまく伝えるなんてムリな話かもしれない。
オザキマサキさんの写真、実際に見てもらえたらと思う。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん

「D」の補足。


昨日書いた、〈言葉〉について。

ABCのための「D」 - とむやんの氣まぐれ雑想記

 

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言い足りない、書き切れない部分があったので、ちょこっと補足。

しかも、このタイミングでちょうどいい(?)事例があった。


今日(2017.2.8)のニュース。
南スーダンのPKOに参加する陸上自衛隊の日報で、「戦闘」が報告されていた問題。

稲田朋美防衛相は衆院予算委員会で、「戦闘行為」の有無について、こう答弁したという。

「事実行為としての殺傷行為はあったが、憲法9条上の問題になる言葉は使うべきではないことから、武力衝突という言葉を使っている」。

これはつまり、「憲法違反だってわかってるけど、〈言葉〉を選べば問題ないでしょ?」っていうようなこと…?


昨日の記事で、「もっと遊び心を発揮して、新しい言葉をつくってもいい」と書いた。
言葉遣いなどの間違いに対して、そんなに怒らなくても、というようなことも書いた。

けれど、政治家のこういう発言は全然別ものだと言いたい。
「遊び心」じゃなく、言葉を「もてあそび」、市民をバカにしている。
「間違い」などではなく、明らかに意図的にはぐらかそうとしている。

それとも、本当にわかっていないのか?
そうだとしたら、もう〈言葉〉の問題云々ではなくなる。

漢字の読み間違いは、まあいい。
けれど、権力をもつものの〈言葉〉遣いは、「乱れ」程度で表現できるものじゃない。

いわゆる「若者言葉」には眉をひそめるクセに、「政治家言葉(造語だけど)」の姑息な手段は見て見ぬふりをする。
それとも、こちらも本当にわかっていないのかな?

日本語の乱れを真剣に危惧するなら、批判すべき相手をちゃんと考えた方がいいとぼくは思うけど。

そして、そういう大人のあり方を、子どもというのはよく見ているものだ。
まさに、「人の振り見て我が振り直せ」と、刃が自分に返ってくる。


ぼくが言いたかったのは。

例えば新年の挨拶に「あけおめ」と言われても、「あけましておめでとうございます」と返す。

もしかしたら、子どもたちには言い直させるかもしれないなぁ。
でも、基本は相手に「言い方がなっとらん」とは言わないでおこう。
そういうことを言う人がダメだ、と言うわけじゃない、むしろそれはある意味ありがたい存在なんだろうと思う。
(ちなみに、ぼく個人は別に「あけおめ」はキライじゃない)


「言葉」は大切にしたい。
けれど、その想いを人に押し付けるのは、やり方としてあまりうまくないかな、って。
個人的にはそう思う。

言葉遣いのステキな人がいたら、そんな風になりたいと、そっちの連鎖を起こしたい。
若いときなんかは反発もしたくなるし、簡単に変わるわけじゃないけど。


ひとつ、たぶん重要なことを書き忘れていた。
「遊び」ってのはある意味、「命懸け」なんだと思う。
言葉で「遊ぶ」ってことは、伝える相手に、そして「言葉」そのものに、敬意をもてるかどうか。

こんなことに「命懸け」だなんて、それこそ〈言葉〉を軽んじてると思う人もいるだろう。
そうかもしれない。
ただ、それに関してはあくまでも自分自身の問題だ。
ぼくが「命懸け」をどう定義しているのか、そしてどう行動するのか。


権力者は、〈言葉〉ひとつで人の命や国の行く末を左右しかねない。
そういう意識と覚悟は、やはりもっていてもらいたい。

だから、言葉が上滑りしたような答弁ばかりの国会は、うんざりする。
でもだからこそ、そこから目をそむけたくはない。

言うまでもなく、「言葉は刃物と同じ」。
便利な道具にもなるし、殺傷能力のある武器にもなる。
結局のところ、使い手のあり方が問われる。

と書いてみたものの、かえってわかりにくくなってしまった…。
刃物を使わない人からしてみたら、「怖い」印象ばかりが強調されてしまうだろうな。

肥後守で鉛筆を削らなくなった現代、同じように〈言葉〉もだいぶ追いやられているのかもしれない。
それをどう取り戻すのか。



とまあ、補足のはずなのに、ますます収拾がつかなくなってしまった。
それだけ簡単な、単純な問題じゃないってことではある。

とにかく、こんなことを念頭に置きつつ、「ABCのためのD」で言葉ひとつひとつに再注目していけたらと思っている。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん