読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

とむやんの氣まぐれ雑想記

“探幸王”を目指して、さまざまな想いを綴ります☆

win-win

ひとりごと


半月ほど前だったか、たまたまこんな記事が目に留まった。

なぜ「win-win」と言いながら近づく人間にロクな奴がいないのか - まぐまぐニュース!


この記事の、「提案する側から言い出すのはおかしい」、というのはよくわかる。
ただ、「自分と相手しか見えていないから」というのは、個人的にはちょっと「弱い」かなと思った。

端的に言えば、「双方」どころか、結局「自分」しか見えてないから、じゃないかな。
「ロクな奴がいない」って言うぐらいだから、そっちの方がしっくりくる。
(この記事に対して批判したいわけではない、あくまでも)


すごく単純に言えば、「三方よし」というのはとても優れた考え方だと、改めて思う。
「売り手よし、買い手よし、世間よし」という近江商人の心得は、滋賀に来て知った。

ここで重要なのは、あくまでも「心得」だということ。
これは自分が心掛けていることであって、相手がどう思うかは問題じゃない。

自分のことばかり考えてても商人として成功しないよ、ということだろう。
それは経済が「経世済民〈世を經(おさ)め、民を濟(すく)う〉」の意味だったことを考えても、至極当然だと言える。

f:id:serendippo:20170225125333j:plain

(↑写真はSTILLROOMのハニーラテ、本文とは関係ありません…)


ビジネスなどの世界に限らず、こういうことは多い。

例えば、「我欲をなくしたい」という人に限って、妙に「利己的」だったり。
「自分はいいから」と遠慮するようでいて、そのくせ人を押し退けて前に出てみたり。

自己犠牲的なことを言う人ほど、後になって「なんで私ばっかり」って言い出したり。
結局それは、自分がしたいことじゃなくて、自分が人からしてほしいことなんだよね。
常に視点が「自己中心」でしかない。

プロポーズの言葉として、「あなたを幸せにします」っていうのも、これに似ている。
それなら、映画『釣りバカ日誌』の有名なセリフの方が、信ぴょう性がある氣がする。

「ぼくはあなたを幸せにする自信なんかありません。でも、ぼくが幸せになる自信はあります!」

なんか、これって一見とても自己チューっぽく感じるかもしれない。
でも、どうも自分のことを言わない方が、実はかえって自分のことしか考えられない、そういう傾向が強いみたい。
逆説的だなぁ。



それって何なんだろうと、ここ最近考えている。

自分にもまだまだそういう部分があるし、改善したいと思っているから。
そして、「win-win」という考え方がダメなんじゃなくて、ちゃんと優れた点を踏まえて実行できたらいいんじゃないかな。


例えば、「議論」。

日本人は「議論」が苦手だとよく言われている。
確かに、「事なかれ主義」的な傾向が強く、そもそも自分の主張を積極的にしようとしない。

それはそれでどうかとは思うのだけど、一方で「だからこそ議論を」というのも、何か違うなぁと、個人的には思う。
いや、それはそれでいいんだけど、自分がそう思えないのは別のところに理由がある。

というのは、そういう「議論したがる人」って、実は「議論」ができない人が多い。
少なくとも、ぼくの実感としては、そう。

そういう人は、まず大抵「人の話を聞こうとしない」し、「違う意見を受け入れようとしない」。

「議論」って、ぼくの捉え方だと、まずお互いの主張を出し合う。
そこに相違点があるのかとか、納得できる点を見つけたりとか、そうやって意見を交換するものなんじゃないかと思う。

その先に、違う点に関してどちらがより理に適ってるとか、辻褄の合わない点を指摘したりとか。
場合によっては、その考え方は間違ってるとか、こっちが正しいとか。

そのどこまでを「議論」の範疇のするのかは、人によってさまざまだろう。

ただ、「ディスカッション〈discussion〉」の語源を調べていくと、「打ち砕く」というのが出てくる。
それが本当に元になってるのかちょっとわからないけど、何となく納得がいく。

言葉の違いというのは、重箱の隅をつつくようにはしたくないけど、それでもやっぱり重要だなと思う。
なので、「議論」よりも「対話」を、ぼくは言葉として選びたい。
(対話についても、また改めて書こうと思います)

話を戻そう。

「議論をしたがる人」って、結局のところ「自分の意見を聞いてほしい」だけだったりする。

「対話」の感覚があれば、「相手の意見を聞くこと」にこそ、そこに違いがあればなおのこと、おもしろいと感じるものだろう。
(もちろん、「議論」という言葉を使うことが問題ではないし、ちゃんとそこを超えて使っている方もいる)

美輪明宏さんの言葉に、「自分に思いやりが足りない人ほど相手に思いやりを求める」というのがあるそうだ。
それは、「思いやり」に限らず、この「議論」に関してもそうだし、他の言葉を当てはめることもできるだろう。



相手を操作することはできないし、できたとしてもしない方がいい。
操作ではないけど、変えるのは自分自身だけでいい。

相手を自分の「思い通り」にしようと、氣付かないままに要求してしまっていることがある。
それが上記の「ロクな奴がいない」にもつながるし、「思いやりが足りない人」にもつながる、そんな風に思う。

「心得」は、自分がワクワクするから勝手にやることであり、それが相手にも喜ばれればなおいい、ってこと。
win-win」も、概念として理解した人なら、生き方そのものがそうなっていくだろう。
だから、言葉としても安易に使う必要がなくなる。



長くなってしまったが、最後にひとつだけ。
ぼくがステキだなと思った「win-win」的なエピソードを紹介して終わろうと思う。

友人のちゃたくんと、彦根のウモレボン市に出店したときのこと。

出没、スロウウォーカーズ! - とむやんの氣まぐれ雑想記


(そういえば、そのときのことが「しがトコ」でも紹介されていて、ぼくらも載せてもらっています↓)

神社に本好きが集う!年に一度の古本フリマ「ひこねウモレボン市」イベントレポート! - しがトコ


場所は護国神社の境内。

ぼくとちゃたくんは、それぞれの手もちの古本を並べて出店した。
ちゃたくんはその横で、似顔絵描きもする。

前半は友人知人も来てお喋りしたり、交代で他のブースを見て回ったり。
会場全体もにぎわっていて、観光でたまたま来たという年配の方もちらほらいる。

後半になって少し落ち着いてきた頃、ぼちぼちと似顔絵のお客さんが来る。

やはり観光バスで来たという、年配の男性が似顔絵を描いてもらっている。
ちゃたくんは、年配の人ほど描くのが嬉しくなると言う。
しわのひとつひとつを丁寧に色鉛筆で重ねていく、その人の年月を確かめるように。

その男性は笑うでもなく、特に会話も弾むわけでもなく、ただ座っているという感じ。

ところが、完成した絵をちゃたくんが見せると、顔をほころばせた。
それまでが、傍から見てちょっと表情が読めない感じだっただけに、正直ぼくは意外だった。

男性がお金を渡し、ちゃたくんが似顔絵を渡す。
双方ともに喜びがじわじわとあふれ出ていて、見ていたこちらもじんわりとあたたかくなった。

これが本当の「win-win」なんだろう、ぼくが心掛けたいのはこういうことなんだ。
細かく定義する必要もない、ただあの日の実感を羅針盤のように、そっちへ向かおう。


f:id:serendippo:20160913231839j:plain
(写真も撮ったはずだけど、iPadに眠ったままなので、使い回しで↑)


                    せれんでぃっぽ☆とむやん