とむやんの氣まぐれ雑想記

〈探幸王〉を目指して、さまざまな想いを綴ります☆

〈依怙贔屓〉社会。

トピック「共謀罪」について



共謀罪」の趣旨を盛り込んだ改正組織犯罪処罰法の成立について。
安倍晋三首相は今月15日、「国会審議を踏まえ、国民の生命、財産を守るため適切に、効果的に運用していきたい」と述べたそうだ。

ここで言う、「国民」とは誰のことなんだろう?

共謀罪」に反対しない人というのは、自分がその「国民」に間違いなく含まれていると、信じているのだろう。
ある日突然、その「枠」からはみ出してしまうなんて、想像すらしないはずだ。

でも、ここ最近の安倍政権を見ていて、「身内に甘い」と感じないだろうか?
つまり、やたらと〈依怙贔屓〉をするってこと。
(「えこひいき」って、こういう漢字なのかぁと、敢えて使ってみる)


たとえば、安倍政権や与党の方々が、自分の上司だったらと考えてみたらどうだろう?

〈依怙贔屓〉をする先生や上司って、昔からいたし、当然嫌われていた。
けれど、自分が「依怙贔屓される側」だとしたら、もしかしたらまったく氣にならないのかもしれない。

そういう人は、自分が〈依怙贔屓〉から「除外」されるという苦い経験はないのだろうか?
もしかしたら、常に〈依怙贔屓〉されるように、「がんばって」るのかもしれない。


マスコミもネット住民も、与党などにはどうも「甘い」。
逆に、野党に関してやけに辛口で、そのことにさえ自分で氣付くこともできない。

それもまた、〈依怙贔屓〉なのだということに。


そしてそれって、いわゆる〈ダブルスタンダード〉ってやつじゃないのかな。

つまり、〈依怙贔屓〉社会を目指したいのだろうか。
ぼくにはそう思えてならない。



内心の自由が脅かされるとの懸念に対し、「犯罪成立要件は明確で厳格になっており、恣意的に運用されることはない。懸念は当たらない」と、官房長官が答えていた。

〈恣意的〉とは、思い付きや自分勝手ではない、ということ。

今後、「不当な検挙」などがあったとしても、「恣意的な運用ではない」「その指摘は当たらない」と答えるだろうことは、火を見るよりも明らかだ。

「恣意的な運用ではない」というのは、奇しくも「内心の自由」の〈ダブルスタンダード〉を表してくれている。
つまり、「身内」や「お友だち」には「恣意的ではない」といい、排除したい相手に対しては、「意識的な行為」だと断定する。

〈恣意的〉かどうかなんて、どっちにしても証明がむずかしいのだ。
「内心」って、「はい、どうぞ」と言って、見せられるものではないのだから。

もしくは、そこを見せられるとしても、結果「プライバシー」にまでドカドカと踏み込まれてしまう。

本当に、そういう社会で暮らしたいの?



かつて、この国が戦争へとひた走る、その流れに抵抗した人もたくさんいた。
そして、その人たちは徹底的に「弾圧」された。

一方で、国や戦争を賛美していれば、一応「依怙贔屓される側」でいられた。
だから、抗うよりも懐柔されることを選んだ人も多かった。

その人たちを責めることは、簡単かもしれない。
でも、今この状況になってみれば、その段になってから責めてみても、遅いかもしれないと思う。


共謀罪」は「現代の治安維持法」だとの指摘は、決して「思い違い」などではない。
前回も書いたけど、時代背景が変わろうが、人の辿る歴史というのは似通ってしまうところがある。

だからこそ、そこから学んで、「同じ轍」を踏まないことが重要なのではないのか。
その「轍」は、「この道しかない」というその「道」に、くっきりと跡がついているように思える。

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ぼくは〈依怙贔屓〉社会なんて、まっぴらごめんだ。
横暴でめちゃくちゃな〈依怙贔屓〉政権を交代させ、「共謀罪」法を廃止したい。

その上で、次世代にはもっとワクワクする社会を、「お返し」したいと思う。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん

晴れたら琵琶湖でウクレレ弾いて。

今週のお題「晴れたらやりたいこと」



いろいろ書きたいことがあり過ぎて、下書きばかりが溜まっていく。
今回はお題をやって、ちょっと弾みをつけよう、なんてことを考えたりして。


それにしても、梅雨入りしたというのに、雨が降らない。
それはそれで、ちょっと心配になる。


今日(2017.6.16)は、cafe salon STILLROOMでウクレレサロン。

最近は毎回のように見学に来てくれる人がいて、それがまたとても嬉しい。
(カフェの通常営業時間からスタートしているので、その時間に来れば見学ができる)

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以前は「ウクレレレッスン」という形でやることが多かったのだけど。
今も要望があればやるけれど、「サロン」という形態の方がよりいいなと思っている。

前半は発表の時間にしていて、それがぼくにとっても楽しみで。
ウクレレを練習する上で、人の演奏を聴くというのは結構重要だったりもする。

もうひとつ、日野の向町cafeでやらせてもらっている、「ウクレレ!みんなでウクレレ♩」も、同じような形態に変わってきた。
場所もメンバーも違うので、もちろん雰囲氣もまた違うのだけど、それがおもしろい。

(次の「ウクレレ!みんなでウクレレ♩」は6月25日[日]の10時から)




以前から、「ウクレレピクニック」を滋賀でやりたいな~と思っていた。
ウクレレピクニック」という名称は、横浜の赤レンガ倉庫イベント広場で大々的にやっているので、別の名前を考えた方がいいのかもしれないけど。

「ピクニック」というものを、もっと日常的にしたいなぁとも思っている。
そして、琵琶湖畔でみんなでウクレレ片手に集まったら、楽しいだろうなぁ。

今やっているウクレレサロンの延長上で、こじんまりとやりたい。


以前、京都を拠点に音楽活動されているロビン・ロイドさん主催の、「カリンバピクニック」というのに参加したことがある。
鴨川の通称「三角こうえん」に、好きな時間に来て自由にカリンバを弾く、というイベント。

いい感じのゆるさで、とても楽しかった。
あんな感じで、できたらいいなと夢想している。


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(↑写真の日付を見たら、2012年だった)

その「カリンバピクニック」のチラシには、「雨が降っても、川に流されない限りはそこにいるよ」とロビンさんの言葉が書かれていた。
さすがに、ウクレレで雨の日はやらないかなぁとは思うけど、そのスタンス自体がとても好きだな。


晴れたら、というか。
晴れの日に、「びわウクレレピクニック」をやりたい。

お題の趣旨とは、ちょっと違うかもだけど。



さて、昨日も書いたけど、もう一度告知。

日曜日(2017.6.18)は10時から16時まで、小さなマーケットTreeがあります。
場所は栗東市安養寺にある、cafe salon STILLROOM。

ぼくはちゃたくんと、SLOW WALKERsでの出店。
ぼくは今回コーヒーではなく、冷たいドリンクを出す予定。
ちゃたくんは絶品フレンチトーストとドーナツ♡

ウクレレももっていくので、ご要望があれば弾きます。


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                    せれんでぃっぽ☆とむやん

「理想」をもとめて。


一昨日(2017.6.13)は、友人宅で開催の「くらしとせいじカフェ」へ。
京都大学人文科学研究所の藤原辰史先生による、食堂付属大学第5講座でした。

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「食堂付属大学」とは、「大学に食堂が付属している」のではなく、「食堂に大学が付属していてもいいんじゃないか」という、藤原先生のちょっとした言葉遊びから。

でも、「食堂を起点として、そこに大学の講義がある」というのは、実はかなり本質を突いていると思います。


5回目となる今回のテーマは、「ナチスの食と農の政策」。
「ちょっとお堅い話」と先生は仰っていたけれど、今回もとてもわかりやすかった。

そのうち、あまいろチャンネルでラジオとして聴けるようになると思うので、氣になる方はそちらをチェックしてみてください☆
(今までの2~4は、すでにUPされています)

あまいろチャンネル ――声をつなぐ市民ラジオ - YouTube




そんなわけで、今回細かいことは書きませんが。
お話を聞いて、心掛けていたいと思ったことだけ、ちょっと書いておきます。


ひとつは、「委縮しない」ということ。

言論が統制されていくと、自主規制的になったり、変に「空気を読む」など、これからますますそういったことが懸念されます。

日本音楽著作権協会JASRAC)は、「音楽教室からの著作権料徴収を正式発表」したり、「美容室などにBGM利用の著作権手続きを求める法的措置を実施」したとのこと。

また、朝日新聞共謀罪特集に、「二次創作漫画、委縮?」というのがありました。
共謀罪テロ等準備罪)」は「著作権法違反にも適用され、パロディー漫画などは特に萎縮するのではないかという懸念」が広がっているそうです。

そういう流れを見ていると、全然他人ごとではない。
正直、委縮したくなる氣もちもわかります。

共謀罪」が参院本会議で成立する前から、もうすでにこうした動きがある。

日本のマスコミは、すでに「自主検閲」や「自主規制」で骨抜き状態。
だからといって、「共謀罪」法の成立が影響ない、わけがない。

ジャーナリスト個人や、市民ひとりひとりは、こうした「圧力」によってじわじわと委縮させられていきかねない。

先日は、内部告発者を守秘義務違反で処分する可能性があると、文部科学省副大臣が発言したりもしています。
「私が確認していないものは行政文書じゃない」と言い、それが行政文書なら「処分する」というわけ。

他にも、スマイリー・キクチさんのことや、再注目されている「横浜事件」のことなど、考えてみるべきことはたくさんあります。
(『横浜事件を生きて』という映画があるそうです)


委縮すれば、それはまさに相手の思うツボ。
もう多くの人が言っていることですが、今が正念場でしょう。

委縮させるために、市民をますます「分断」していくことが考えられます。
こういうときこそ、「対話」を大事にしていきたい。


そしてもうひとつは、「次の時代を見据えて、備える」ということ。

藤原先生が仰った言葉そのままを憶えていないので、これも自分なりに解釈します。

結局、現政権を支えているのは「まだマシ」という感覚なんじゃないかなぁ。
それのどこが「マシ」なんだ?と思ったりもするけれど、それを否定してみても反発されるだけ。

以前、ブログで紹介した、ぼくが今年つくった歌があって。

うみうた。 - とむやんの氣まぐれ雑想記


その歌詞に、こんな一節を入れました。

 わたしは、えがく
 何度でも 愛を込めて
 美しく 強く
 理想をもとめる

これはまさに、次の世代に託したい未来のことを思って書いたもの。
「マシ」な世界などではなく、「理想」的なものにしたい。

その「理想」とはどんなものなのか、そこはきっとそれぞれあるはずだから。
多くの人と「対話」して、深めていけたらいいなぁと思っています。



今回の「共謀罪」法成立の流れは、民主主義を踏みにじる行為。
憲法や民主主義を、そして市民を蔑ろにしたらタダでは済まないよ?と示すことも大事なのではと思います。


共謀罪」について、「今とは時代背景が違う、戦前の治安維持法と比較して不安を煽るのは間違いだ」という意見も見受けられます。

他のことでも言えることですが、不安を煽っているのは、「共謀罪」に反対している人たちではありません。
審議をまともにしないで、担当大臣でさえ内容を把握できていないことこそが、不安そのものなはずです。

「印象操作だ」という印象操作に、振り回されている場合じゃない。



書きたいことが山のようにあって、でもなかなか追い付きません。
とりあえず、最後は告知をして、今回は終わりたいと思います。


ちょっとした思い付きも、今回で3度目。

以前、このブログでも書いたけど、「【個別的】くらしとせいじカフェ」をまたやります。
要はその時間に来たい人に来てもらって、お喋りしませんか?という、ゆるい呼びかけです。

【個別的】くらしとせいじカフェ☆ - とむやんの氣まぐれ雑想記


6月21日[水]、滋賀県栗東市のcafe salon STILLROOMにて。
14時頃から終了の17時頃まで、すみっこにいさせてもらおうと思います。


ドネーション制、そのときの直感、お氣もちで(お金でもお金じゃなくても)。
カフェ通常営業中ですので、別途要ワンオーダーでお願いします。

誰も来ない時間帯は、名刺代わりに毎月つくっている「わたし誌」づくりをしている予定です。
ウクレレももっていくので、店内の邪魔にならなければ、オリジナルソングを歌ったりもするかも。

まったく個人的な、実験的なものなので、どう展開するのか今回もまったく読めません。
その時間帯だと行かれないので他の時間に等々、不明な点とかもじゃんじゃんお聞きください。

なお、ゲリラ的にやってもいいのですが、今回も了承いただいています。
webcal://www.facebook.com/ical/u.php?uid=100002428517351&key=AQDZqhp2BXcnLCIX

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ちなみに、STILLROOMは今週もお世話になります。

明日(2017.6.16)は16時から、ウクレレサロン。
日曜日(2017.6.18)は10時から16時まで、小さなマーケットTreeがあります。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん

十年一昔。


十年一昔(じゅうねんひとむかし)、というけれど。

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今日は6月6日、長男の誕生日。
あれから10年が経つとは、歳月の流れよりも、ただただ信じられない感じがする。

一年前の今日も、ブログを書いたのだけど。
あのときとはまたちょっと、心境が微妙に違う氣がする。

長男の誕生日に思うこと。 - とむやんの氣まぐれ雑想記



長男のときは、妻がまだ東京の教員をしていた頃だったので。
昼間などは、ぼくがいつも一緒にいて、「一対一」という構図が多かった。

楽しい思い出もたくさんあるし、申し訳なかったなと思うこともたくさんある。

そうでなくても、最初の子というのは、よくも悪くもチカラが入ってしまう。
今がいいのかどうかはわからないけれど、余計なチカラはだいぶ抜けてきたように思う。

10年という月日の、そのときは「今現在」に振り回されているだけかもしれなくても、「小さな積み重ね」ができていくのだろう。
それを変に大切にするでもなく、かと言って無視することもできない。

ともかく、「正解」を知りたいわけじゃないってこと。

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長男は小学校4年生、だけど学校には行っていない。
一年生のときからほとんど行かなくなり、今は放課後に少しだけ時間をつくってもらったりしている。

最初の頃は妻もぼくも、長男を学校に行かせようと無理強いしてしまった。
今振り返って、それは間違っていたとつくづく思う。

長男も、「あの頃は行きたくないことをうまく言えなくて、それがつらかった」というようなことを、最近になって言っている。

ぼくも、そうじゃないことを薄々わかっていながらも、でも「ただの怠け」なんじゃないかと思ってしまっていた。
今なら言える、それがたとえ「怠け」だったとしても、イヤイヤやることに何の意味がある?と。

二年生になって、担任の先生が変わって、初めは熱心に「復帰」できるように毎日来ていただいた。
けれど、親の方はもう「明らめて」いたし、その担任の先生もゆっくりと関係性をつくっていってくれた。
おかげで、彼の「行きたくない」という氣もちを受け止めてくれて、別の形でサポートしてくれたりして、親としても本当にありがたかった。

今は妻が「まなぶ くらす」という形で、ホームスクーリングを行っている。
(この辺のことは、また改めて書きたい)

まなぶ くらす




こういう話をすると、何と言うかちょっと「嫌がられる」ことがある。
実際、学校に行かなくなった当初、何人かに「親が行かせたくない」って思ってるからじゃないの?と言われたりもした。

子どもや親が「学校に行かない」という選択をしたからと言って、それは「学校に行っている」子や家庭への批判ではない。
もし「批判」だと感じられるとしたら、それは自分の中にその種があるからだと思う。

そういう個々の選択を、ただの「身勝手」と捉えるとすれば、社会として「人権」という意識が低いのではないか、と言わざるを得ない。

イヤなのにやらなければいけない、好きではないことにも「果敢に挑戦」すべきだ、そういう価値観の押し付けは、残念ながらむしろ逆効果だと思う。

繰り返すけれど、これは誰かに対しての批判ではない。
ただ、自分や自分の子の選択を尊重してほしい、それだけのこと。

それを尊重したからといって、その他の人の選択が阻まれるとしても、それは別の選択をした人のせいじゃない。


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長男が2歳になったばかりの頃、初めて滋賀を訪れたときの写真↑
このときはまだ、滋賀に住むことになるとは、思ってもみなかった。



書き始めたら、なぜかちょっと重たい内容になってしまった。
ついでなので、もう少し書いてみたい。


反町隆史の「POISON」という曲に、こんな歌詞があった。
「言いたいことも言えないこんな世の中じゃ」

言いたいことをすぐに言えるなら、それはとてもいいことだと思う。
後になって言うのは、ちょっと「ズルい」と思うときも、確かにある。

だけど、誰だって経験があると思うけど、その場で言い出せないことなんていっぱいある。

だから、「そのときに言える/聞ける」というシステムを構築することはとても大切なことだと思う。
それがないのに、「今になって言うな」というのは、強者の一方的な論理でしかない。


昨日は滋賀大学経済学部の公開授業で、タルマーリーの渡邉格(わたなべいたる)さんの話を聞いてきた。

「行動してから考えてきた」という格さんは、「頭の思い込みのウソを、身体で暴く」と言っていた。
まさにそれが、今日書いたことにもつながる。


子どもと関わると特に、そういう感覚に切り替わりやすい。
「親になる」という経験をさせてもらって、本当にありがたいと思う。

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                    せれんでぃっぽ☆とむやん

「わたし誌」づくり、一緒にしませんか?


氣付けば、もう6月。

今年に入って、おもしろいことがますます加速度的に膨らんでいます。
本当に月日の経つのが早く感じる。


さて、このブログで何度か書いている「わたし誌」。

わたし誌。 - とむやんの氣まぐれ雑想記


ちょっと前の記事で、「今まだ3月+4月分ができていない、もう5月後半ですけどね…」と書きました。

最初は張り切って毎月発行と思ってたけど、それも結局2号まで。
3号は苦肉の策で、1+2月の合併号としました。

もう「ふた月に一回でいいかな」と思ったものの、今は4号と5号が停滞中。
それぞれ書くことも決まっていて、一部分は書き始めているのですが。

ちょっとまとまった時間と、勢いが必要。



そんなわけで、思い付き企画。
一緒に「わたし誌」をつくりませんか~?

ぼくのを手伝ってくださいと、というのではありません。
興味あるけど、どんな感じでつくるの?とか、いろいろ情報交換したりとか。

もちろん、名前は「わたし誌」でも、別の名前でもOK!
要は、名刺代わりになる何かを、企画したり実際に書いたり、してみませんか?

その日に完成しなくても、原案づくりだけでもおもしろいはず。

そのまとまった時間を利用して、ぼくも停滞中の4号5号を完成させようという目論見です。

場所は、ぼくの自宅アパート《滋賀・栗東》。
2017年6月8日[木]の10時から14時頃まで。
(その時間帯出入り自由、好きなときに来て好きなときに帰るシステムです)

参加費はドリンク代として500えん(珈琲 or 紅茶)。
お昼にカレーをつくる予定なので(たぶん多めに)、それを食べてもらうか、もち込みで。

アパート2階は暑いかもしれないので、団扇や扇子があればおもちください。
その他文房具や紙などもご持参ください。


とまあ、そんなところでしょうか。
「わたし誌」みたいに、定期的に発行する形でなくても、2017年版をつくってみるとか、そういうのもいいかなと思います。
そこはむしろ、人それぞれのあり方を模索したり、アイデア交換できたら。

氣になった方は、とりあえず是非ご連絡ください☆
部屋は広くないので、人数が多くなったら締め切るかもしれません。

まあ、人数制限するほど参加者が集まったら、ぼくもビックリですけど(笑)

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↑写真は、5+6月用の「あんぱん」の絵。
こんなゆるい絵でも、描いていると楽しい♪


                    せれんでぃっぽ☆とむやん

ゲームという「沼」。

今週のお題「私の沼」

「なかなか抜け出せそうにない、ハマっていること(=沼)」
「かつてハマり、ようやく抜け出した沼」、ということで。

今回も、「今週」にちょっと間に合わずの投稿。



先日、友人宅にお邪魔したときのこと。

その友人夫婦には高校生の息子さんがいて、彼となぜかテレビゲームの話になり、盛り上がった。

いや、正確に言うと、盛り上がったのはぼくひとりだったかもしれない(笑)
ゲームをやらない、もしくはほとんどやったことのない友人夫婦は、それでもおもしろがってはくれたが。
25も年下の友人と、ファミコンの話をするのは、妙にエキサイティングだった。


実は何を隠そう、ぼくは相当ゲームにのめり込んでいた。
青春を棒に振ったんじゃないかと思うほどで、ちょっと後悔してたりもする。

まあ、そんなことはいい。

彼と話したことで、スイッチが入ってしまった。
せっかくなので、ぼくが好きだったゲームを思い出してみようと思う。

ゲームに興味のない人には、「なんのこっちゃ」だとは思うけど…。
たかがゲームだと、侮れないものもあったりする。



◇「魔界塔士Sa・Ga
 スクウェア(現在はスクウェア・エニックス
 ゲームボーイ
 ロールプレイングゲーム
ゲームをやり始めてすぐに出会ってしまったソフト。
音楽もとにかくよくて、今でもたまに頭の中で流れるほど。


◇「ゼルダの伝説」シリーズ
 任天堂
 アクションRPG
言わずと知れた、超名作。
ディスクシステムの一作目も好きだけど、やはり最初にやったスーパーファミコンの「神々のトライフォース」は思い入れが強い。
最初の雨のシーンが、当時のぼくには結構衝撃だったなぁ。


◇「ドラゴンクエスト」シリーズ
 エニックススクウェア・エニックス
 RPG
もう説明するまでもないでしょう。
ファミコンの一作目の、主人公は常に前向き(カニ歩き状態)なところも含めて、やっぱり一番好きかも。
一番やり込んだのは、Ⅲの「そして伝説へ…」と、Ⅳの「導かれし者たち」かなぁ。
「なかまに なりたそうに こちらをみている!」のⅤも印象深いのだけど、クリアした記憶がない…。

◇「ファイナルファンタジー」シリーズ
 スクウェアスクウェア・エニックス
 RPG
これもまた説明不要な、個人的には一番好きなシリーズかも。
Ⅲ、Ⅳ、Ⅴが好きで、音楽もとにかくいい。
特に、IVのアレンジヴァージョン、「ケルティック・ムーン」はゲーム好きじゃなくてもオススメです。


◇「アクトレイザー
 エニックス(現在はスクウェア・エニックス
 スーパーファミコン
 アクション+シミュレーションゲーム
アクションモードとクリエイションモードがあって、その融合が飽きさせないつくりだった。
アクションモードに入るときの演出(ぐるぐる回るやつ)が、当時は結構感動的だったなぁ。
音楽もよくて、そこはちょっと伝説のような逸話があったりします。


◇「ダンジョンマスター
 ビクター音楽産業
 スーパーファミコン
 リアルタイム3DダンジョンRPG
アメリカのゲームの移植版。
ダンジョン(地下迷宮)を進むと、モンスターもリアルタイムに動いてきます。
ケルトンとかが近づくと、カシャーカシャーと聞こえてくる。
行動しているとお腹が空いたり、倒したモンスターの肉が食べれたり。
当時としてはかなり画期的、革命的だったはず、その後似た作品がいくつか出ました。
そうそう、たまに流れる音楽が、結構クオリティーが高い。
それと、武器をわざわざ置いて、「ときのこえ」を上げたくなる。
あぁ、このゲームは話が止まりません(笑)


◇「スナッチャー」/「ポリスノーツ
 コナミ
 アドベンチャーゲーム
もうストーリーはほとんど憶えていないが、映画に入り込んだような感覚で、とても好きだった。
コマンドを選んでストーリーを進めるが、謎解きやシューティングのシーンもあった。
小島プロダクションとしては「メタルギア」シリーズが有名で、「メタルギアソリッド」も上げておきたいところなのだけど、実はクリアーできていない…。


◇「ゼノギアス
 スクウェア(現在はスクウェア・エニックス
 プレイステーション
 新世代サイバネティックRPG
トーリーが結構よかった氣がするのだけど、これももうすっかり忘れてる。
あまり有名ではないけど、隠れた名作。


◇「サーカディア」
 アルヴィオン
 プレイステーション
 アドベンチャープラス
これも内容は完全に忘れているけど、ストーリーがいいと思ったのは憶えている。


◇「アナザーマインド」
 スクウェア(現在はスクウェア・エニックス
 プレイステーション
 ダイアローグ・アドベンチャー
実写作品で、対話文をつくってやりとりができるという異色作。
結構どっぷりハマった氣がする。


他にも、まだいろいろあるのですが。
ウィッシュルーム
「ゴースト・トリック」
「スペースチャンネル5」
e.t.c.…

キリがないし、忘れているタイトルもまだまだありそうだなぁ。
オススメできないけど、思い出深いものも入れたら、収集が付かないでしょう。


ちなみに、ぼくはその「沼地」から抜けるのはかなり苦労したけれど。

その若い友人は、「ゲームよりリアルの方が楽しいこといっぱいある」ことを、もう経験的に知っている人なので。
まあ、どっぷりハマって抜け出せないことはないんじゃないか、と思っている。

いずれにしても、ゲームはほどほどがいいですね。

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                    せれんでぃっぽ☆とむやん

人に伝わる文章を書くための、あれこれ。


先週の金曜日(2017.5.26)は、「月のはじまりマルシェ」へ☆
ちゃたくんとのコラボ、SLOW WALKERsでの出店。

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マルシェのことを書く前に、いきなりちょっと脱線。
というより、今回はこっちが本題かな。


前々回の「月のはじまりマルシェ」。
友人が、「ブログ見てるよ」と言ってくれて、いろいろお喋りしたときのこと。

彼女が「どうして人に伝わる文章を書けるの?」と、言ってくれた。

そもそも、ぼくの文章がどれほど伝わっているのか、自分としてはわからない。
けれど、彼女は「私には伝わってくるよ」というような、嬉しいことを言ってくれる。

もしそうだとするなら、「伝えようとがんばるのをやめてから」かな、って。
逆説的な答えだけど、ぼくはそう答えた。

それに、そもそも伝えたいから書いてるのか?というのもある。
そこを氣にしなくなってからの方が、不思議と反響的なものが大きくなった。


そしてもうひとつ、日々の暮らしの中で思ったことをできるだけ口に出してみる。

これもまた、「伝えるため」に始めたわけではないのだけど。
実はそういう習慣づけが、関係しているのかもしれない、と思い当たった。

例えば、カフェを出るときに「美味しかったです」と伝える。
友人に、「会えて嬉しいよ」と言ってみる、とか。

ムリして言うんじゃなく、ただ氣恥ずかしかったりで、なかなか言えないでいること。
些細なことかもしれないけど、それを声に出してみる。

元々、ぼくはかなり引っ込み思案だったので、とっさのときなど何も言えないことがよくあった。
挨拶やお礼を言おうとしているのに、思うように声が出なかったり。

実際に言うことは、そんなに大した言葉じゃない、かもしれない。
だけど、癖や習慣にしてしまうえば、ひとつひとつは大したことでなくても、積み重なりが「層」になっていく。

「とっさのときに言葉が出ない」という習慣から、「ことあるごとに言葉を発する」という習慣に切り替えた、と言えばいいだろうか。

〈習慣〉とは、「習うより慣れよ」というよりも、「繰り返しで慣れていくこと」という感じの方が自分にしっくりくる。
(「習」という漢字には、「繰り返し」という意味合いがある)



それを踏まえて、逆のことも考えてみようと思う。

もし、自分の「本音」に氣付かず、普段からあまり向き合おうとしなかったら?
実際、自分の「本音」が何なのか、わからなくなっている人も多いように思う。

そしてもし、本音よりも「建前」ばかり言う人が周りに多かったとしたら?
自分も含めて、ますます「人の本音」というものがわからなくなるのでは?

「建前」ならいいけど、自分を誤魔化すための「ウソ」が常態化しているとしたら。

よく、「ウソ」が上手な人は、自分さえも「騙してしまう」という。
「ウソ」がいけないというよりも、それが常態化して、「人の本音」というものにアクセスができなくなるというのは、実はかなりの問題なのではないか。


たとえば、いわゆる「添加物」も、結局は食べる人のためを思ってのことではない。
自分たちの都合のため、と言っていい。

もちろん、それが両者にとってのメリットも、まったくないわけではない。
「添加物」というものが、「絶対的な悪」だなどと、ここでぼくは言うつもりもない。

ただ、そういう論理ばかり信じ込んでいると、ますます自分の「本音」が行方不明になってしまう。
それこそが大問題じゃないのか?と、ここで問いたい。

単純に「添加物」が身体にいいかどうかという問題だけではない。
悪意ではないにしても、相手により喜んでもらおうという意味合いとは、もう全然違ってしまっている。
それなのに、「あなたのことを思って」とか、そもそもそこに意識が向かないようにとか、本音をひた隠しにしているに過ぎない。

今の政権がそれを積極的にやっているのだから、誰もが「無関係」ではいられない話なのだけど。
「無関心」でいられたとしても、身体に「添加物」が蓄積されていくように、結局は何かしらを「引き受け」なくてはいけない。

「添加物」は別に平氣だと思う人でも、カロリーというものを氣にするかもしれない。
アレルギーのある人なら成分表を見るのは当たり前のことになるだろうし、好き嫌いの多い人も何が入っているか氣にするだろう。

要は、「何を食べされられているのか、わからない状態」なんて、誰だってイヤなはずなのに。
無関心でいたり、「ウソ」を鵜呑みにするというのは、その「わからない状態」なのだけど、それさえももう「なかった」ことにしてしまう。


そうやって、そういう「建前的な論理」に触れる機会を増やせば増やすほど、「本当に願うこと」から遠ざかってしまう。
何しろ、自分の本音がわからなくなるのだから、「本当に願うこと」が何なのかもわかりっこない。

相手を出し抜いたり騙したりしなくても、本音にちゃんと氣付ければ、願いというのは叶うものだとぼくは思っている。

そして、伝えたいと思うことも、極々自然に伝わるんじゃないだろうか。
(そこは、ぼくもまだまだ精進しているところ)



その点、「満月マルシェ」にしても、「月のはじまりマルシェ」にしても。
こういう雰囲氣のいい場、一緒につくりあげていく感覚の中にいると、本音と言うものが出やすくなる。

自然と笑顔に溢れ、挨拶や感謝が飛び交う。
食べものに関しても、そういう不安感や猜疑心からではなく、「好奇心」からもっと知りたいと思うようになる。

関心のスイッチが入り、心も身体もどんどん開放的になっていく。


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「月のはじまりマルシェ」は特にそうだと思うけど、その〈場〉と、そこに集まる〈人〉に会いに行くのが、一番の目的だったりする。
幸せな氣もちが連鎖する中で、「願いが叶う」ってことを実感できたりもする。

新月の日というのは、そもそも「願いごと」に打って付けの日。


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今回、ちゃたくんが出していたのは、フレンチトースト☆
ドーナツも改良を重ねて、ますます美味しくなっている。
(↓隣のさつまいもパイは、あるぴたさんで買ったもの)

 

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今回もマイアミ浜まで、自転車。

お客さんで来ていた方から、「野洲川で見かけました~」と。
まあ確かに、目立つよな(笑)

朝夕は肌寒いくらいだったけど、日中は暑過ぎず寒過ぎずで、とても氣もちがよかった。

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こういうときの相楽くんのかき氷って、身体に染みる。

お昼はキムさんのカレー(Kim'nCurry)。

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そうそう、まだブログには書いていなかったかもしれない。
今、「満月マルシェ」に関する本を、ちゃたくんたちとつくっています。

夏頃完成の予定、また改めて紹介したいと思います。


その流れで、ハレノヒカメラさんと最近ご縁がつながりました。

ハレノヒカメラ〜滋賀県で活動する小さな移動写真館〜


ハレノヒカメラさんは、「滋賀県を中心に活動する、小さな移動写真館」。
マルシェなどに出店されたり、ワークショップなどもされているそうです。

写真がステキなのはもちろんだけど、フォトグラファーのまなみさんがとってもステキなので、お願いして写真を撮らせてもらいました♪

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楽しいことがいっぱいの、「月のはじまりマルシェ」。


実は近々お引っ越しする、という方がいて。

1月の満月マルシェでお話して、そのとき「わたし誌」のことも喋ったりして。
(そのときのこと、ちょこっと書いてます↓)

歌えば響く。 - とむやんの氣まぐれ雑想記

つながったご縁なのに、また離れてしまうのは寂しいなぁと、今でも思ったりする。

けれど、たとえばタンポポの種が遠くへ飛んでいくように、お別れというのにもちゃんと意味があると、ぼくは信じている。
そして、「また遊びに来ます」というのは社交辞令じゃなく、いつかまた会えると本氣で思っている。

いろいろな意味で、ご縁はまだつながっているから。

寂しくないと言ってしまえば、それは「ウソ」かもしれない。
けれど、また会えるのを楽しみにしてるというのは、本音であり願いでもある。


「人に伝わる文章を書くための~」なんてタイトル、ちょっと煽り過ぎかもしれない。
ここまで読んで、なんだとガッカリした方も、もしかしたらいるかもしれない。

それでもぼくは、ちょっとした〈習慣〉によって、毎日が楽しいことだらけになった。
それをただ、独り善がりかもと思いつつも、あまり氣にせずに文章を書いてきた。

もし、伝えたいことがあるとしたら、それは「人生ってこんなにすばらしいよ」ってことなのかもしれない。
かといって、肩に力の入った前のめり状態かと言えば、そんなことはない。

それはちょっとした「氣のもちよう」だけで、ガラリと変わってしまうってこと。

それを信じるか、ちょっとは氣になって実験的にやってみるか、それはもちろんあなたの自由。
けれど、昔の自分がそうだったように、もしこういう話をきっかけに違う生き方にもチャレンジしてみようと思う人がいたなら、それはとても嬉しい。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん