とむやんの氣まぐれ雑想記

〈探幸王〉を目指して、さまざまな想いを綴ります☆

いうことをきかないうなぎ、から政治を考える。


政治にも関係するようなこと、よく考えたらカテゴリーつくってなかったな。

なので今回、〈politics〉というカテゴリーを増やしてみた。



どこの家でも大抵そうかもしれないけど。
子どもたちは寝る前に、ひとつかふたつお話を読んでもらっていて。

ちなみに、ぼくが読むときは、絵本のことが多い。
でも、今は図書館で絵本を借りることができないので、最近は出番が少ない。


妻が読むのは、もっぱらこれ。

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『おはなしのろうそく』という、小さなお話集。
挿絵はほとんどなく、読み聞かせに最適の本。

昨日(2020.5.19)も、この中からひとつ。

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「いうことをきかないうなぎ」という、イタリアのお話だそうで。

隣から聞こえてきたお話が、なかなかおもしろかった。


話の内容は、こんな感じ。

 漁師がウナギを売りに行くために、運河を渡ろうとする。
 ゴンドラの船頭に料金を聞くと、「ひとり頭五銭」だと言う。
 漁師はウナギの頭を数え、それでは高くつく、と。
 それならば、ウナギには川を泳いで渡ってもらおうと思い付き…。

 向こう岸で漁師がいくら待っても、ウナギは泳いで来ない。
 来ないウナギを、漁師はいつまでも待ち続けたと。

まあ、言うまでもないけど、笑い話だよね。
(イタリアの笑話と書いてあるし)

試しに、妻が子どもたちに聞いてみたらしい。
この話がわかったかどうか。

そしたら案の定?、下2人は漁師と同じで「どうして戻ってこないのかわからない」という感じだったと。
なので、この話のどこがおもしろいのか、当然わからなかったみたいで。

まあ、子どもの場合は、むしろその方が健全かもね。


ただ、これを聞いてふと思った。
もしかして、政治に対しても「いうことをきかないうなぎ」現象が起きているのか?と。

政治家の場合はもうちょっと複雑で、ウナギが「向こう岸に泳いで渡ります」ともち掛けるような感じ、なのかな。
検察庁法に関して、「恣意的な運用はない」と言っちゃえるのが、まさにそれ。

でもそれって、「信用できる/できない」という以前の問題だろうと。
ウナギを信用すること自体がナンセンス、なのと同じで。

ちょっとうまく説明できているかわからないけど。

好き勝手し放題の権力者では困る、だから憲法で縛っている。
それを、「信用しろ」という言葉を鵜呑みにして、川に放しちゃダメなわけで。

ただ、ここもウナギとはちょっと違うところだけど。

権力者の場合は、市民の声が大きければ無視するのはむずかしい。
支持率が下がったり、ハッシュタグが盛り上がれば、やはり氣にする。

ウナギと違って、多少「言うことをきかせる」ことはできる。

選挙で選ばれたからといって、「全権委任」したわけじゃない。
政治家は自分に投票した人以外の声も、当然耳を傾けなければいけない。

だけど、「知らなきゃいいんだ」とか「どうせ忘れる」という態度の政治家が多過ぎる。


今の首相も現政権も、ハッキリ言ってぼくは何にも信用していないけど。
それはもちろんこれまでのことがあるからで、個人的にキライだとか、そういうことではなく。

まあ、キライはキライ、大キライだけど(笑)

でも、他の人がやってたとしても、好き嫌いとは別で、簡単に「信用」したりしない。
信用できるできないとかじゃなく、ウナギと同じに扱う、ぐらいの感覚。

それは、その政治家の人格的なことじゃなく、〈権力〉というものについて。
「与党」だったり「政権」だったりは、絶対に「野放し」にしちゃいけない。

だから当然、民主党政権のときは民主党を批判してた。
当たり前だよね?

それが、今でも民主党を批判して、現政権を擁護する人がいるのが意味わからん。


〈権力〉をもつと、誰だって暴走してしまいがち、なんだろう。
それは、ウナギを川に放したら戻ってこないのと同じようなこと、とぼくは思う。
ある意味、自然なことというか。

だから、憲法が大事なわけで。

それがもし、漁師の下にわざわざ戻ってくるウナギしか政治家になっちゃダメ、を前提にするのだとしたら?
それは確かに、民主主義は実現しないんだろうなぁ。

「信用できる」人に政治家になってもらう、という発想自体にそもそもムリがある。
民主主義とか三権分立とか、これを機にもっと深く知っていきたい。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん