とむやんの氣まぐれ雑想記

〈探幸王〉を目指して、さまざまな想いを綴ります☆

あたらしいかたち。


一昨日(2017.1.8)、無事に滋賀に帰ってきました。
今回の帰省はいつもに比べたらちょっと短めだったけれど、嬉しいことばかりでした。

実家の喫茶店でのブックカフェイベント【ABC】と、その後の友人たちとの新年会、この日もかなりすごい一日で、機会があったら書こうと思います。


今日書くのは、その翌日(2017.1.7)に行った銀座でのこと。



と、その前に。

ぼくたちが滋賀に移住する前は、ギャラリーなどにもよく行っていて。
長男が生まれてからは、そういう機会も減ったけれど、お氣に入りの場所には子連れでよく行ったりもしました。

そんな中で一番のお氣に入り、と言っていいと思う、目黒のギャラリーが大好きで。
恵比寿駅からガーデンプレイスを抜けてさらに歩くと、第三世界ショップの直営店があって、すぐ手前にそのギャラリーがあった。

「hotsumi GALLERY」は、こじんまりとしたスペースだったけれど、ぼくたちには都会の真ん中のオアシスのように感じていたかもしれない。

hotsumi GALLERY


残念ながら、2011年の2月にギャラリーは閉店。
ぼくたちもその半年後に滋賀へ移住したので、オーナーのほつみさんともお会いする機会がなくなってしまった。

実はほつみさんはその後、「場をもって発信する形から、場をつくって発信する形に活動形態を変更」されていた。
「場所や用途に合わせたアートコーディネイト、イベントの企画を通して作品と新たなお客さまとの出会いの場をつくる」、そんなお仕事をされているという。
(「」内はブログからの引用)

そして数年後、銀座の教文館という老舗書店内のギャラリーで偶然、再会する。


そして、先日のこと。

妻と二人で月光荘という画材屋さんに行ったのだけど、お休みで。
行く予定にしていなかった教文館に行ってみることにした。

それはもう引き寄せられた、としか思えない。

なんとちょうどその日から、ほつみさん企画の帽子展が開催されていて。
ほつみさんにも、帽子の作家さんにもお会いすることができた。
しかも嬉しいことに、ほつみさんはぼくたちを憶えていてくださった。

「アートのもつ力、素晴らしさをより多くの方に伝える出会いの場をつくりたい」。
ギャラリーという場所をもたない形態での活動をしている人は、ぼくが知らないだけでもっとたくさんいるのかもしれない。
いずれにしても、ほつみさんのあり方は「あたらしいかたち」として可能性を感じた。

そして何より、元々とてもステキな方だけれど、ますます生き生きと輝いていらしたのが印象的だった。



今回銀座での目的のひとつは、森岡書店へ行くことでした。
前々から行きたいと思っていて、雑誌でこの日からオープンしていることを知って、これは行かなければ、と思った。

ちょっと道に迷いながらも、森岡書店銀座店へ。

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実はここ、世にも珍しい「一冊の本を売る書店」。

この日は沼津の「hal」という雑貨店のオーナー、後藤由紀子さんの『お母さん、旅はじめました』という本と、雑貨が販売されていた。

オーナーの森岡さんと後藤さんのお二人がいらして、少しお話することもできた。
森岡さんの著書『荒野の古本屋』を読んで、ずっと来たいと思っていたとご本人に伝えたり、いただいたという手焼きのおせんべいをいただいたり。
本も買って、サインもいただいた。

後でネットで見た記事によれば、「一冊の本を売る書店」は日本だけでなく世界でも類を見ないらしく、海外からお客さんも来るという。
そして開店一年目から黒字なんだそう。

イデアとして当たった、というよりも、森岡さんの本を売るということへの想いが結実したと言えるんじゃないかな。



ぼくの今年のテーマのひとつが、「常に変わっていく自分」。
そして「人のできることはしない」。

それを掲げたわけでもなく、ほつみさんも森岡さんも、「あたらしいかたち」を生み出している。
それは単に「奇をてらって」のことではなく、だけど「常識」には捉われない柔軟さがある。

もちろん、「人柄のよさ」というのも忘れてはいけない。


奇しくも同日、インスピレーションをかなり刺激してくれる2つの場所と、そこで出逢えた方々との嬉しいひととき。
今年のぼくの「原点」になりそうだ。



                    せれんでぃっぽ☆とむやん

雑?!エンターテインメント☆


「雑」という言葉を、今年はますます注目していきたい、と思っている。

環境運動家の辻信一さんが著書などで書かれていて、おもしろいなぁと思っていた。
作家の高橋源一郎さんとトークイベントなども開催したそうだ。

「雑」には、「とるに足りない」とか「まぜこぜ」といった意味合いもあるけれど。
こんな状況だからこそ、再評価されていいのではないか。


ちなみに、このブログのタイトルにも「雑」を入れています。
「雑想(ざっそう)」って、響き的にも結構お氣に入り。
(思い付いてすぐ検索してみたら、やはり既によく使われているみたいで、それはそれでちょっと嬉しい)

辻さんは、「生物多様性というけれど、「雑」はそれを超えて完全な調和をつくり出している」と言う。
前回書いた「調和の回復」を考える上でも、この「雑」という概念がキーワードになるかもしれない。



なぜ急に、「雑」のことを書く氣になったかというと。

ひとつには、正月には欠かせない「お雑煮」を食べたから。
「雑煮」というのは地域によっても家庭によっても本当にさまざまで、まさに「雑」そのものだと言える。

そして、この「雑煮」を食べていたら、世の中のこともより考えやすくなるような感覚があった。

ネットには、「お雑煮多様性マップ」なんてものもあって、なかなかおもしろい。

日本全国『お雑煮多様性』マップ 珍しいお雑煮がいっぱい – grape [グレイプ]




辻さんは、「ものごとを単純化しようとする今の現実」を危惧している。
純化して結論を出すことに焦る、そんな流れに対抗するのが「雑」だというわけだ。

そういえば、こんなことをふと思い出した。
珈琲を淹れるときは、できるだけ「雑味」が入らないようにする。
早く抽出すれば「雑味」は出にくい、遅過ぎれば「雑味」が多くなる。
けれど、「雑味」がない方がいいかというと、それでは深みがなくておもしろくない。

やはり、適度に時間をかけることが肝要だということか。



今日は妻と一番下の息子と、senkiyaさんへ行ってきた。

senkiya

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埼玉県川口市にある一軒家を改装したカフェで、周囲にはギャラリーや工房などが集まる。
そこは今、「KAWAGUCHI SHINMACHI」として一大拠点となっている。
(もちろん、従来の価値観の「一大拠点」と全然違うことは強調しておきたい)

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はっきり言ってしまえば「僻地」なわけだけれど。

むしろ、そこに県内外からたくさんの人が来る。
今日もカフェのみランチなしの営業にかかわらず、着いたとき(15時過ぎ)には満席だった。


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まさにここは、褒め言葉としての「雑」の、見本のような場所。

大都市では「雑味」が排除される傾向が強く、つまらなくなっている氣がする。
(東京のオリンピック関連のことは、まさにその象徴のよう)

だから余計に、こういう流れに敏感な人が増えているんじゃないだろうか。


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(↑これは妻が撮ってくれました)


「雑」に注目すれば、人生も世の中もますますおもしろくする、かもしれない。
今ぼくがやっていることもやりたいことも、そういえば「雑多」なことなんだよなぁ、とつくづく思いつつ。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん

調和の回復。


あけましておめでとうございます。

2016年もいろいろとありがとうございました。
最近は「ブログ読んでいるよ」と声をかけていただくことが多く、とても嬉しいです。


昨日(2016.12.31)は長男とちょっとお出掛け、池袋をぶらぶら。
珍しく、都会を楽しんできました。

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2017年最初の投稿は、昨日ふと浮かんだ言葉を膨らませてみたものです。
まだ荒削りではあるけれど、とりあえず残しておこうと思います。

それでは、2017年もよろしくお願いいたします☆



これからは「正しさ」よりも、「調和」がとれているかどうかを重要視したい。

たとえば、自分や家族が幸せであるということと、世界が平安であるということ。
本来であれば、そのどちらもが満たされていかなければ、本当の幸せとは言い難い。

その両方を意識しながら、どちらも成り立つようにすればいい、それだけのこと。
どちらかを優先したり、比較する必要もない。

ある意味それは、「妥協」点を探ることなのかもしれない。
よくよく考えてみれば、「妥協」という言葉も見直してみるといい。

「妥」とは穏やかなで落ち着いているさま、安らかに座る意味から生まれた漢字だそうだ。

やじろべえで言えば、左右が止まって安定している状態だけではなく、それを回復するためにゆらゆらと揺れている状態も含めたものが、ここでいう「調和」なのだと思う。


すべてのものは、「調和」を保とうとする性質が必ずある、と言っていいんじゃないだろうか?
保とうとするだけでなく、認識して回復する力までちゃんと兼ね備えているはずだ。

それが「調和」の意味を忘れ、「我を張る」ことにばかり意識が向かうと、ますます「調和」が乱れてバランスを崩していく。

「調和」を回復するためには、何かを「しない」ということが特に重要になる。
手を加えようとすればするほど、「調和」から遠退き、感覚が薄れていく。

その状態を体感的に知ることもまた、「調和」の一環だと言える。


捕鯨の問題などでも、文化や伝統などと主張するには、あまりにも現状がかけ離れ過ぎているように感じる。
ここでは是か非かを言いたいわけではない。
捕鯨が「伝統」であるのなら、それに即した現状も回復するべきだと言いたい。

先人の誰もが優れていたわけではないだろうが、現代人はその辺の感覚が薄っぺらいように思える。

そこにある木を一本、伐ったらどうなるのか。
もし伐るのなら、「調和」を回復しやすくするために何をするのか。
そして、何を「しない」のか。

現象を近視眼的に見てしまうか、逆に個々に目を配ることを面倒に感じてしまうか。
木を見るのか森を見るのか、どちらがより大切かということではない、その「調和」に意識を向けるということ。

そうなれば、安易に木を伐り倒していくことはできなくなるだろう。
「伝統」というなら、そういう感覚こそ継承していくべきでは?


つまり、「調和」を回復させていくことは、「調和」そのものを生きること。

冒頭のたとえで言うなら、自分個人が「調和」を生きることは、世界の調和の回復と同意義なんだと思う。
切り離して考える時点で、すでに意味が変わってしまっている。

木を無闇に伐ることなく、かといってただ伐らなければいいということでもなく。
「調和」のとれた状態とは、変化に常に対応していくことであり、常に変化していくということでもある。


「調和」を意識していくことで、軽々しく他者を責めたりしなくなる。
批判するべきものは批判し、けれど自分は「調和」そのものを生きる。
「不安定さ」にこそ飛び込み、常に失敗を更新していくことでもある。
2017年はそういう風にありたい。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん

2016年を振り返ってみる☆


昨日(2016.12.28)、無事に埼玉の実家に着きました。
おかげさまでみんな体調も何とかもち直しまして。
朝、子どもたちに「雪降ってる」と言われて一瞬怯んだけれども、大丈夫でした☆

最近は青春18きっぷで10時間ほどかけて帰るのですが。
息子たち3人も成長して、今回はかなり楽だったな♪



そして、今日は実家のカフェで妻の企画したイベント開催、楽しい時間となりました☆
しかも、参加してくれた方がお菓子を焼く方で、なんとケーキを差し入れしていただきました~♪

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しかもしかも、ひとつはクグロフ型のもの。
最近、友人と二人の間限定で「クグロフ・ブーム」が来てから、ますます嬉しい♡
(↓以下のブログの写真にクグロフのケーキが写っています)

キペルス・パピルスのこと。 - とむやんの氣まぐれ雑想記



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今日のイベントは、「書いて、叶って、感謝して」という、《書き留める習慣》をテーマにしたお話会。
(映画にもなった自伝的小説『食べて、祈って、恋をして』をもじったもの)

手帳のこと、降りてくるメッセージやアイデアのこと、そして「新月の願い」のこと。
そして今日は奇しくも、新月の日。


ぼくは習慣化できていないのですが。
新月の願い」は、是非やっていきたいことのひとつ。

なので、この機会にブログで今年を振り返ってみて。
2017年のお願いごと的なことも書いてみようかな、と思います。



ところで、Facebookでも何人かがシェアしていた、「しいたけ占い」なるものが、かなりいいのです。

しいたけ占い | 占い | VOGUE GIRL


それによると、蟹座の2016年は「激動」だったそうです。
確かに、かなり心当たりがある。

2016年、自分のさまざまなできごと。
*友人の結婚式の司会をさせてもらったこと。
*オリジナル曲を人生で初めてつくり、7~8曲はできたこと。
*友人たちと出版社計画を立てていて、ワクワクがどんどん拡がっていること。
*友人と出店ユニット結成、自分の淹れたコーヒーが各所で喜ばれていること。
などなど。

それぞれがまた、微妙にリンクしていて、その相乗効果がまたすごい。

ぼくの書いた『Slow Walker』という曲を友人のちゃたくんが氣に入ってくれて。
そこから、「SLOWWALKERs(スローウォーカーズ)」という出店ユニットに発展していったり。

友人の結婚式の感動と感謝を「よりそうる」という曲にして。
それをまた結婚パーティーなどで演奏して喜ばれたり。

その他には、友人から声をかけてもらってレコーディングに参加、それが映画の挿入歌になってクレジットも入れてもらえて。
その流れで先日は大阪のシアターセブンのライブにも誘ってもらい、共同監督の一人、影山あさ子さんともお会いできたり。
(ちなみに、映画は『高江ー森が泣いている2』です)



前述の「しいたけ占い」、2017年上半期の蟹座のテーマは、「自分が主役にになって周りを動かす」なんだそう。
さまざまなチャレンジをして、絶対楽しむ、そんな年になるという。

今の時点で、「まちがいなくそうなる!」と確信めいたものがあったりします。

出版社計画や出店、バンド活動や作曲などなど、ワクワクが加速度的に進んでいく。
その延長上として、今年の3月に書いた《望想プロジェクト【マジでステキ12 project】》も、一年経つ前に進化させておきたいところ。

マジでステキ 12 project 《その1》 - とむやんの氣まぐれ雑想記


それと、先日「お題」として書いた「今年中にやっておきたいこと」。

今年中にやっておきたいこと2016☆ - とむやんの氣まぐれ雑想記


8個挙げた中で、2つは達成されました。
ひとつは、わたし誌の12月号をつくることができたこと。
もうひとつは、「勝手に宣伝ソング」をつくって披露することができたこと。

何の「宣伝」かというと。
 1977年の琵琶湖での淡水赤潮発生に際して、消費者が中心となって合成洗剤ではなく「せっけん」を使おうという運動が、滋賀であったそう。
(滋賀の人にはお馴染みのことのようですが、元々滋賀県民ではないぼくは、滋賀に来て知りました)

それから40年、今また洗剤を見直そうということで、BIWACCAという名の洗濯せっけんが出るのです。

それなら今から、歌をつくってみようかと、何となく思ってたら本当にできた。
先日のプチプチアースデイしがの前日に完成させて、歌わせてもらいました☆

これ、今までの中でも結構自信作♪
サビは韻も踏んだり、言葉遊びも入っているし。
ちなみに、「洗濯」と「選択」の掛け言葉は、BIWACCAモニター用のパンフレットからの引用。

今は非公認ですが、ふなっ〇ーみたいに公認されないのも逆にありかもしれないし。
いずれにしても、来年はこれでブレイクしようかと思います(笑)

歌詞を下に載せておきます。
いつか音源の方もUPする予定。


そんな感じで、長くなってきたので今日はもうこの辺で。
2017年のこと、また改めて幾つか書きたいと思っています。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん


BIWACCA SONG

BIWACCA は ぐるぐる まわる ×2
大切にしたい 私たちのびわ

すべてを水に流しても
この先何もよくはならないから
はじめてみよう
私にもできる 小さなことを

BIWACCA は ぐるぐる まわる ×2
やさしく溶けあう きもちのいい時間
BIWACCA は ぐるぐる まわる ×2
いつものせんたく 楽しくなる予感

心に響く いつまでも
答えは今もよくわからないけど
受け継いでいく
みんなで紡いだ 大きな愛を

BIWACCA は ぐるぐる まわる ×2
身近なしあわせ 燈台下暗し
BIWACCA は ぐるぐる まわる ×2
未来のせんたく 変わる日々の暮らし

BIWACCA

私のブログ・ネット大賞2016

今週のお題「私のブログ・ネット大賞2016」


本当は今日(2016.12.27)、今頃埼玉の実家に着いてほっとしているところ、のはずだったのですが。
妻が体調不良のため、明日に延期することに。

このキャンペーンのお題、明日までということなので。
さらっと書いて、ぼくも早めに(今の時点ですでに早くないけど)寝ようと思います。


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写真は本文とは全然関係ありません。
(シアターセブンでの演奏お手伝いに行ったとき、みんなで食べた台湾まぜそば



「ブログ・ネット大賞」ということなんですが、どうしよう。

こういう場合、「この一年の振り返り」と言われても、やはり浮かぶのはごく最近のことばかり。
でも、自分も今年の夏頃からこのテーマが氣になっていたので、この記事にします☆

「自分に呪いをかけないで」みんなの”呪い”が解けた最終回が、ハッピーエンドの嵐だった - Spotlight (スポットライト)



TVを観ていないぼくでも、「逃げ恥」ブームは影響受けました。
でも、最終回どころか、ドラマ自体全然観たことがない。
(原作のマンガは、ネットの無料配信で、1巻だけ)

そんなわけで、ドラマに関してぼくは何も言えないのですが…。
(誰か、BOX買ったら呼んでください(笑))



最終回の話を友人から聞き、上の記事(Spotlight)をFacebook経由で見て。

そう、「呪い」のこと、この夏からずっと考えていたテーマ。
ナナイロつーしんに書こうとしたり、もちろんこのブログにも書こうとしたり。

(↓以下のブログ記事では書いてました、まだ消化不良ではありますが)

「ケチ」をつけない生き方☆ - とむやんの氣まぐれ雑想記


結局うまく言葉にできなくて、放置のままだったけれど。
今ならタイミング的にもいいかもしれない。



ということで、今日は導入だけ。

「呪い」という縛り、それによって「従順」な市民をつくる。
個人的な「呪い」ももちろん厄介だけれど、「国家レベル」のと言っていいのかな、そういう大掛かりな「呪詛」が長年、この国の中枢にあった。
そして今も巧妙に、それはますます日々の生活にまで浸透してきている。

そのシステムは、片棒を担がされてる状態で、氣付くことも抜け出すことも本当にむずかしいんじゃないだろうか。

あまり大袈裟にならないように、そしてわかりやすいように心がけつつ、続きはまたの機会に。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん

クリスマスに、ふと考える。


今日は12月25日、クリスマス。
(実際には日付けをまたいでしまった…)

ぼくはクリスチャンじゃないのだけど。
その辺はあまり氣にせず、楽しんだらいいんだろうと思っている。
とはいえ、今のクリスマスのあり方には辟易する部分も多い。

じゃあ、「クリスマスなんてなくていい」とか、そうは思わない。
批判的なことを言うと、そういう極論を言う人がいる、正直イジワルだなぁと感じる。

どういうスタンスであれ、それを楽しめばいい。
それにはただの文句ではなく、かといって批判的なことを避けるのも違うように思う。

単に、その世間の人の「楽しい」の感じ方のあまりの違いに、ウンザリというかザンネンというか、そんな複雑な氣もちになった。


23日に、訳あっておもちゃ売り場に行ったのだけど。
お目当ての商品を探しながら歩いて、いろいろなおもちゃを見ていく。

男の子ものは特に、武器や戦闘機などなどそういうものがあふれかえっている。
そういうものの方が売れる、たぶんそうなんだろうね。
でもだからこそ、「これは誰のためのものなんだ?」と首をひねりたくなる。

それはそのおもちゃに対してであり、クリスマスに対してであり。

お菓子売り場に行っても、同じように感じる。
子ども向けのお菓子の成分表には、明らかに食べる人のことを考えてのことではない、いわゆる添加物の名前が並んでいる。

本当に、誰のためのものなの?



いきなり小言のようなことから入ってしまったけれど。
今日は久々に大阪へ行く用事があって、眩暈がしそうな人の多さにクラクラしたから、かもしれない。


さて、話題をちょっと変えよう。

昨日のクリスマス・イヴには、妻のメイコが参鶏湯(サムゲタン)を、ぼくはスペインオムレツ風のものとケチャップライスをつくった。

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オムレツにはルッコラとジャガイモとキャベツ、スイスチャードとケールのソテーを添えて。
ルッコラが多かったせいでちょっと苦くなってしまったが、子どもたちは喜んで食べてくれた。

食後には、たまパンのシュトレン♡

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そう、世間の人はこういうシンプルで本当に美味しいものを知らないのだ。
という言い方、今度はぼくがちょっとイジワルモードかもしれないけど、まあいいや。


一番下の息子が胃腸風っぽくて、クリスマスディナーはみんなで一緒に食べれなかったのは残念だった。
それでも、こういう時間がもてたことは、やはりよかったなと思う。


クリスマスの絵本を読んであげた後、長男は「このシュトレンをサンタさんにあげたい」と言い出した。
サンタさんに手紙を書くというお話だったから、余計にそう思ったのかもしれない。
前回も来てくれたサンタさんに手紙を用意していた、今回はちょっと簡易版。

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今朝、早速プレゼントを見つけた上の二人の息子は、それぞれのおもちゃを手に、嬉しそうにしていた。

日常的にほぼおもちゃを買い与えない我が家にとって、クリスマスが単なる「おもちゃのもらえる日」になってしまうのは、特に危惧しなければいけない。
今のところ、サンタさんを氣遣ったり、ちょっとしたことでもそういう感覚はあってほしいと思う。

残念ながら、大人の大半はもう、「何のため?」や「誰のため?」という問い自体を、忘れてしまっているようにも思う。

誰もが、自分も人も幸せであってほしいと、心から願う世界であればいい。

プレゼントとは、「pre前もってsent送る」という説もあるが、「あらかじめある」という語源が有力なようだ。
子どもの頃には誰もがもっていたはずの感覚こそ、こういう日には再確認してみたい。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん

わたし誌。


今日(2016.12.23)はドコモショップ栗東店の「木育ひろばであそぼう!」へ。
妻のメイコは絵本の読み聞かせ、ぼくはウクレレ演奏をさせてもらう。

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以前演奏させていただいたときの感じを踏まえて。
今回はウクレレ演奏は歌ではなく、ウクレレソロにしてみた。

クリスマスソングをメインに、7~8曲やっただろうか。

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思惑通り、雰囲氣的にはピッタリだったみたい。
でもウクレレソロは練習の必要性を痛感…。

その辺は来年の課題だなぁ。

いちょうまつりと木育ひろば。 - とむやんの氣まぐれ雑想記

(↑ドコモショップ栗東店の木育ひろばについては、過去に何度か書いています)



木育ひろばもそうだったけど、新しいつながりが最近また広がりつつある。

思えば、滋賀に来た頃はほぼ知り合りゼロ、この5年常に新しいご縁に恵まれてきたと言える。
どこかに行けば顔見知りや友人がいて、それは本当にありがたいことだと思う。

ただ、その延長線上でここ最近、また新しい場所やご縁とつながる機会が増えている氣がしている。
今年はその辺のことを意識していたってのもある。


ぼくは今まで、「名刺」というものをもったことがない。
来年は友人のあーちゃん(Atelier ichi○ichi)につくってもらいたいと思ってもいる。

でもその前に、名刺とはちょっと違う、何かをつくりたいなぁと思っていた。

先月、ちゃたくんと何かを話していたときに、どういう流れだったか忘れたけど、超ローカルメディアがあってもいいんじゃないかと、ふと思い付いた。
それをみんながつくって、渡し合うってのもいいかも、と。

こういうとき、やはりネーミングが大事。
最近は年齢のせいかもしれないけど、ダジャレ的な要素が出てくると、俄然やる氣スイッチがガチャンと入る。

「自分個人の」ということと、「手渡しする」ということで、〈わたし誌〉と命名
A4一枚に、自分の現在氣になっていることなんかを綴ってみる。

思い立ったが吉日ってことで、先月早速20部ほど刷って、いろいろな人に渡すことができた。

そして今月、ちょっと遅くなったけど昨日刷り上がり。

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こういうものは、やはりコンスタントに続けていくのが肝要だろう。
そして、楽しくなければ、続ける意味もあやしくなる。

手渡しした反応として特に嬉しかったのは、「私もやってみようかな」と言ってもらえたこと。
それと、CDの紹介を見て「私も昔、このバンドのファンで、よく聴いてました」と言ってくれた人がいたのもよかったな。
広がる機会が増えることで、ますます楽しみになってくる。


ここまで書いて、もし読んでみたいと思ってもらえたら、それもまた嬉しい。
下に貼り付けておくので、よかったら読んでみてください。


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↑わたし誌11月号vol.1、編集前記が横になってて読みづらいですが…


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↑そして12月号vol.2。
紙版まだありますので、それがほしいという方がもしいらっしゃったら、言ってくださいね。

それともし、「私もわたし誌つくりたい」という方がいらっしゃいましたら、一言声を掛けてもらえると嬉しいです。
つくるの自体は、許可も何ももちろん必要ないです☆



                    せれんでぃっぽ☆とむやん