とむやんの氣まぐれ雑想記

〈探幸王〉を目指して、さまざまな想いを綴ります☆

「ケチ」をつけない生き方☆

選挙や政治のことに関連する話ではあるけれど、一応ちょっと目先を変えて。
今日(2016.7.8)は「生き方」の話、ってことになるかな。


参議院選挙を明後日(2016.7.10)に控え。
まあ一部とは言え、SNSなどでも盛り上がってきた、かな?

それもあってか、いわゆる「disる(ディスる)」発言等をよく見かけたりして。

昨日の投稿とも関連するかもだけど、政治のことでも他のことでも、人に「ケチ」つけるような言動、これはほんと残念に思う。


ちなみに、「ケチ」とは不吉なことを表す「怪事(けじ)」が語源だそう。
まさに、人に対して不吉なことをつけようとする、これは「呪い」と同等だとぼくは感じる。
「人を呪わば穴二つ」の言葉通り、disることは結果、自分を貶めることにつながる。

まあ、そんな遠回しに言わなくても、絶対「そういうアンタはどうなんだ?」ってことになるわけで。
人の人格をとやかく言える資格なんて、誰ももちあわせてるはずがないもの。



昔、バスに乗っていたときのこと。

年配の女性が7~8人ほど、どうやらみんなでお出かけするらしかった。
聞き耳立ててたわけじゃなく、まあでも今だったらスッとそこから離れただろうけど、会話が聞こえてきてしまった。

そしてそれは、どうやらその日来ていない人の悪口というか、「○○さんって、こうなのよね~」みたいな話が始まった。
それを聞いていて、単純に、このメンバーには入りたくないよなって。
(まあ、もちろん誘われもしないだろうけどねw)

だって、自分が参加しない別の日には、自分がその〈標的/餌食〉になるだろうことは火を見るよりも明らかだもの。
そんなグループの中では、どうしても顔色伺うだろうし、息苦しいだろうなって。
ぼくは単純に、そう思うんだけどな。

それに、もっと単純に、人の欠点を嬉々として挙げるそのこと自体、すごく「無粋」だなと思った。
たとえその内容が100%正しいとしても、ともかく全然「魅力的」じゃない。

だけどきっと、disってる人って、自分では氣付いてないってことも多いんだろうな。

もちろんぼくも、かつてそうだったし、今だって完全に抜けたわけじゃないと思う。
まあ、だからこそ、「いち抜けた」したいな、って。



最近読んだ本に、すごく揺さぶられたというか、改めて生き方を考え直したいなと思ったものがある。
有川浩さんの『レインツリーの国』という小説。
図書館戦争』のスピンオフらしいんだけど、そっちはまだ読んだことがない。

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これを読んだら、いかに自分の言い分や目線だけで考えたり語ったりしているか、その判断基準がいかに薄っぺらいか、氣付かされたように思う。
「誰かを/から、一方的にジャッジして/されて、パーソナリティまで否定する/される」、そういうことはもうやめにしたい、つくづくそう思った。


ぼくはもうテレビを見ないけど、その辺のメディアってどうも「呪」の要素が多い氣がする。
だから、これはぼくの偏見かもだけど、人や団体に「ケチ」つける人がちやほやされてる、そんな印象がある。

もうね、そっちに巻き込まれたら、簡単にエネルギーを取られちゃう。
その根っこにあるのは「怖れ」であり、そこから「やっかみ」が生じて、人の揚げ足ばかり取るようになる。



では、人から「ケチ」つけられたらどうするのか?


これは出典を忘れてしまったのだけど、お釈迦さまの話をぼくはいつも思い出す。

お釈迦さまのことを氣に喰わないある男が、貶めるための作戦を考えます。
罵り続ければきっと汚い言葉を返してくるはず、そうなれば品性を落とすだろう、と。

お釈迦さまの前に立ちはだかった男は、散々悪口を言います。
でもお釈迦さまは黙っているだけ、弟子たちはなぜ言い返さないのだ?と悔しくてしかたがない。

一方的に悪態をついた男は、疲れたのかその場にへたり込んでしまいます。
お釈迦さまは静かにこう言われました。
「もしあなたが贈りものを送ったとして、でも相手が受け取らなかったら、その贈りものは誰のものだろう?」
「それは当然、送った側が受け取るだろう」
「だから私は、悪口を受け取らなかったのだよ、それはあなたが受け取ることになる」

とまあ、そんなような話。
悪口がいいとか悪いとか、そういうことともちょっと違う。

どういうものであれ、そういう「ネガティブキャンペーン」にエネルギーを注がない、それが一番だと思う。
この場合のエネルギーとは、関心を寄せること、意識を向けること。

誰かが誰かの悪口を耳にしたら、そっとその場を立ち去るのがいい。
それに同調するのも、反論するのも、結局はエネルギーを注ぐ/加担してしまうことになる。

同じエネルギーなら、やはり「ポジティブキャンペーン」の方がいい。
みんな、自分にも人にも、祝福をする

「呪」と「祝」は漢字も似てるし同系列のものだけど、ベクトルがまるきり反対。
意識/エネルギーを「呪」に向ければ、自分も周りも不幸にしかねない。
逆に、「祝」に向けるだけで、みんながしあわせに向かう。
どちらも、誰にでもある力なんだよ、ほんとに。

ちなみに、批判的なことでも本人に伝えるのは、そしてそのときはほんとに相手のためを考えた言い方をするのは、もちろん「あり」なんだと思う。
そして、たとえば権力者への批判というのは必要なこともあるから、そのときは人格を攻撃することのないようにありたいな、と思う。
政策批判とかは、大いにやるべきじゃないかな。

ま、要はそれが「毒吐き」になってないことを、自分で判断できるようでありたいね。



ちょっと乱雑になってしまうけど、最後に。
エディさんから聞いた(しかも又聞き)話、どうもジャーナリストの方の言葉みたい。
(調べて、書けたらまた書きます)

「日本のメディアや日本人は、ウソには寛容だけどミスにはとても厳しい」
ほんとこれ、本質をついてると思う。
それをベースにdisるから、ますますイヤになっちゃうな~☆

3つ前の投稿でも書いたけど、結婚式のときのマインドみたいな、そんなつながりをつくっていきたいね♪

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                    せれんでぃっぽ☆とむやん