とむやんの氣まぐれ雑想記

〈探幸王〉を目指して、さまざまな想いを綴ります☆

もてなす、ということ。


前回、間違いや場違いについて書いた。
それに関連するのかな?本で読んだことを書き留めておく。

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『幸福の迷宮/The Maze of Happiness』

人生の意味を見失った者が来るところ、幸福の迷宮。


今回ここに書くことは、いわゆる「ネタバレ」なので、氣になる人はここからは読み進めずに、本を先に読んでほしい。
要点を抜き出しただけではやっぱり弱くて、ストーリーの流れに沿って知った方がいいと個人的には思うので。

正直言うと、謳い文句にある「心の底から涙があふれ本当の幸せが見つかる1冊」だとは思わなかった。
案外ストーリーは淡々と進んでいく印象、かな。

そもそも、こういう謳い文句自体はどちらかというとニガテ、もし知ってたら読まなかったかもしれない。
別に泣きたいわけでも、幸せを見つけたいわけでもなく、先入観なしに読んでみた。

ぼくは特に、以下に書く2つのことにぐっときた。


〈ここからネタバレ〉


ひとつは、「恐怖」について

「鳥まねき」という案山子が出てくる。
案山子は本来、鳥が農作物を食べないよう、追い払うために設置するもの。

ところが、それは逆に「案山子のいるところには食べものがある」という目印と考えることもできる、という。
なるほど、確かに。

「恐怖」は、「必要なものを見つける手段」なんだ、と。

恐怖や心配ごとはチャンスであり、そこにこそ自分が心の中で望んでいる宝がある。
間違いや場違いもきっとそう、目印なんだ。


もうひとつは、「人生の意味」について。

主人公が迷宮カフェを再び訪れたとき、3つのカップの話が出てくる。

もし粗野な態度をとったなら、相手(お客さん)は悪い氣分で帰られるでしょう。
普通に接したら、同じような氣分で帰られるはず。
では、もしちょっと親切に接したなら?
お客さんは来たときよりもいい氣分で帰ることができる。

ウェイターに限った話じゃない、毎日の出会いの中で挑戦できること。
「自分と接した後、誰かの人生がちょっとだけいいものになる」、そんな選択をする。
それが、人生の意味。


この2つのことは特に憶えておきたいと思った。
大切な氣づきを、いいタイミングで与えてくれたから。

案山子として鳥を追い払うよりも、鳥まねきのように寄ってきてもらう方がいい。
そして、それはまさに「ちょっと親切に接する」ことなわけで。



これって、「もてなす」ということじゃないのかな、とふと思った。

お正月って、歳神さまをお迎えするんだよね。

それで思い出したのが、「福の神と貧乏神」」というお話。
今調べたら、大般涅槃経の中にある話だそう。

ある家に美しい女性が訪ねてきて、福の神だと言う。
もちろん家人はよろこんで招き入れる。
するともうひとり、みすぼらしい醜い女性が入ってこようとする。
災難を招く貧乏神だ、という。
家人は当然、追い出そうとする。

ところが、福の神は姉で、姉妹はいつでも一緒に行動するのだという。
貧乏神を追い出せば、結局福の神も出ていってしまう、というお話。

貧乏神ももてなすと福の神に転じるというパターンもあるのだとか。


もてなすということ、親切に接するということ。
この辺のことは、もう少しいろいろ考えてみたい。

今回はここまでとしておこう。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん