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前回、間違いや場違いについて書いた。
それに関連するのかな?本で読んだことを書き留めておく。
『幸福の迷宮/The Maze of Happiness』
人生の意味を見失った者が来るところ、幸福の迷宮。
今回ここに書くことは、いわゆる「ネタバレ」なので、氣になる人はここからは読み進めずに、本を先に読んでほしい。
要点を抜き出しただけではやっぱり弱くて、ストーリーの流れに沿って知った方がいいと個人的には思うので。
正直言うと、謳い文句にある「心の底から涙があふれ本当の幸せが見つかる1冊」だとは思わなかった。
案外ストーリーは淡々と進んでいく印象、かな。
そもそも、こういう謳い文句自体はどちらかというとニガテ、もし知ってたら読まなかったかもしれない。
別に泣きたいわけでも、幸せを見つけたいわけでもなく、先入観なしに読んでみた。
ぼくは特に、以下に書く2つのことにぐっときた。
〈ここからネタバレ〉
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ひとつは、「恐怖」について
「鳥まねき」という案山子が出てくる。
案山子は本来、鳥が農作物を食べないよう、追い払うために設置するもの。
ところが、それは逆に「案山子のいるところには食べものがある」という目印と考えることもできる、という。
なるほど、確かに。
「恐怖」は、「必要なものを見つける手段」なんだ、と。
恐怖や心配ごとはチャンスであり、そこにこそ自分が心の中で望んでいる宝がある。
間違いや場違いもきっとそう、目印なんだ。
もうひとつは、「人生の意味」について。
主人公が迷宮カフェを再び訪れたとき、3つのカップの話が出てくる。
もし粗野な態度をとったなら、相手(お客さん)は悪い氣分で帰られるでしょう。
普通に接したら、同じような氣分で帰られるはず。
では、もしちょっと親切に接したなら?
お客さんは来たときよりもいい氣分で帰ることができる。
ウェイターに限った話じゃない、毎日の出会いの中で挑戦できること。
「自分と接した後、誰かの人生がちょっとだけいいものになる」、そんな選択をする。
それが、人生の意味。
この2つのことは特に憶えておきたいと思った。
大切な氣づきを、いいタイミングで与えてくれたから。
案山子として鳥を追い払うよりも、鳥まねきのように寄ってきてもらう方がいい。
そして、それはまさに「ちょっと親切に接する」ことなわけで。
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これって、「もてなす」ということじゃないのかな、とふと思った。
お正月って、歳神さまをお迎えするんだよね。
それで思い出したのが、「福の神と貧乏神」」というお話。
今調べたら、大般涅槃経の中にある話だそう。
ある家に美しい女性が訪ねてきて、福の神だと言う。
もちろん家人はよろこんで招き入れる。
するともうひとり、みすぼらしい醜い女性が入ってこようとする。
災難を招く貧乏神だ、という。
家人は当然、追い出そうとする。
ところが、福の神は姉で、姉妹はいつでも一緒に行動するのだという。
貧乏神を追い出せば、結局福の神も出ていってしまう、というお話。
貧乏神ももてなすと福の神に転じるというパターンもあるのだとか。
もてなすということ、親切に接するということ。
この辺のことは、もう少しいろいろ考えてみたい。
今回はここまでとしておこう。