とむやんの氣まぐれ雑想記

〈探幸王〉を目指して、さまざまな想いを綴ります☆

ぼくはいつでも迷ってる。


お題、「迷い」と「決断」について。

興味深いテーマだな、ゆっくり考えよう、と思っていたら案の定ギリギリ滑り込み。
(6月5日、今日が締め切り)



「〈決断〉のとき」というのは、ぼくにもこれまでたくさんあったはず。
けれど一方で、自分は〈決断〉というものをそんなにしてこなかった氣もします。

いつも迷って、「きっぱりとした結論」よりも「とりあえずやってみる」の連続。


例えば、結婚。

どういう流れで結婚しようということになったのか、実はあまり憶えていなくて。
何となく、そろそろ結婚かもね、って感じだったような。

元々は妻もぼくも、結婚という制度自体、自分たちに馴染まないと思っていましたし。


大きな流れが来て、乗ろうかどうしようか迷っているうちに、波に巻き込まれていく。
どちらかと言うと、そんなイメージなんです。
〈決断〉というニュアンスからは、かなりかけ離れていますね。


例えば、滋賀に移住したときもそう。

2人目の子の出産を関東で、というのはさまざまな不安要素がありました。
原発事故の影響、続く余震、計画停電、などなど。

だから当初は、「とりあえず一年、別のところで暮らす」ということにしたのです。
結果的には滋賀がとても住みやすかったので、「移住しよう」ってなったんですけど。


今回の京田辺への引っ越しだって、「寝耳に水」でした。
でもこれもまた、何か大きな流れのようなものを感じたので。


その大きな流れって、こちらに「選択の余地がない」ように思えます。
まるで、台本に書いてあるかのように、「行く」というシナリオがそこにある。

それなら、どうやってこの流れを受け入れていこうか、日々試行錯誤している最中。



別に、〈決断〉という言葉に難癖をつけるつもりはないのですが。
でもやっぱり、「断」という字が入っていることに、ぼくは違和感をもちます。

〈迷い〉を断ち切って決める!みたいなイメージ、ですよね。
確かにまあ、そういう方がかっこいいのかな、と思うときもありますけど。

退路を断って、どちらかに決めるという〈決断〉よりも。
とりあえず直感に従ってみようというような、フレキシブルな〈決断〉があってもいいのでは?
「違ったかな、じゃあやっぱりこっちで」、とやり直すことも常に意識しつつ。

迷いながら行けよ、行けばますますわからなくなるかもしれないけど。
でも、ダンジョンだって迷路だって、迷わなかったらおもしろくもなんともない。

たぶん、大抵の人は「迷って宙ぶらりん」の状態でいたくないんだと思います。
そこから抜け出そうともがくことは、大きな推進力になるのに。



今思い付いたんだけど。
〈迷う〉ことは、マイナーバージョンアップ(minor upgrade)なのかも。

逆に、大幅なバージョンアップ(major upgrade)がしたいなら。
何かしらの〈決断〉をする必要がある、のかもしれません。


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先日読んだ、『コーヒーの人 仕事と人生』。
その中で、Little Nap COFFEE STANDの濱田大介さん、こんなことを仰っています。

 暑い日に飲みたいコーヒーと寒い日に飲みたいコーヒーは違う。
 だから、豆のブレンドも少しずつ変えているし(中略)
 環境や自分の感覚が変わるから、メソッドも豆も日々変わり続けています。

 オープンしたての頃の味と今の味は変わらないね、と言ってくれる人もいるんです
 けど、きっと長い間店に来続けてくれている人にとって飽きないということは、味
 が絶えず変わり続けているっていうことなんですよね。


これと同じような言葉が、『コッペパンの本』にも書かれていて。
滋賀のつるやパンも、変わらない味のために定期的に配合率を変えたりしているんだそうです。

変わらないために変わり続ける、変わり続けるから変わらない。
禅問答のようですけど、真理だなぁと思います。



「本当にこれでよかったのかな」という迷いは、誰でも心当たりがあるはず。
それならそれで、〈迷い〉も旅のお供にしてしまおう。


ビジネスの世界ではどうなのか、ぼくはわかりませんが。
一般的には、「〈決断〉のとき」なんてしょっちゅうあるわけじゃない。

「結婚」や「転職」などの人生の大きな岐路。
それが何の前触れもなく、いきなり人生に立ちはだかったりしないでしょう。

だから、まずはリサーチしてみたり、やっぱりやめようかなと逡巡してみたり。


そういう「ゆるやかに決めていく」こと、〈決断〉とはちょっと違うニュアンス。
何かいい表現はないのかな。


ぼくはこれからも、迷いながら、そしてそれを楽しむくらいの気概で生きていけたらと思っています。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん


#「迷い」と「決断」

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MAY

今週のお題「アイドルをつづる」



今日(2019.5.27)は「対話」について、はちょっとお休み。
お題が、「アイドルをつづる」ということで。


ぼくの実家は喫茶店、というのは何度かこのブログでも書いています。

カフェ・ド・アクタのこと。 - とむやんの氣まぐれ雑想記


実は、猫のいる喫茶店として、その筋?ではちょこっと知られていたりいなかったり。



初代看板猫は、メイという雌猫でした。
ぼくが高校生のときに飼い始め、2010年3月に旅立ちました。

長い間うちのアイドル、喫茶店のお客さんにもたくさん可愛がられました。


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3枚とも、2009年の1月末に撮ったもの。
写真はたくさん撮ったはずですが、今見つけられたのはこれだけなので。


メイがうちに来るまで、実は猫ってあまり好きじゃなかったのです。

当時まだ友人だった妻のメイコが拾ってきた子猫。
とりあえずうちで預かることになり、飼える人を探していたのですが。

情が移ったこともあり、結局うちで飼うことにしたのでした。
それからは、家族みんなすっかり猫好きになりましたとさ。


子猫のメイがうちに来た日、それが5月27日。
(確か1991年、28年前のこと)

ちなみに、メイという名前について。

メイコが拾ったから、メイではないのです。
まったく考慮に入れてない、ということはないけど、でも思い付きは全然違う。

高校時代に出逢って、後に結婚した流れから、美談っぽくされるのは仕方ないのでしょうけどね。
一応釈明しておくと。

その当時、ぼくは『ナイトライダー』というアメリカのテレビドラマが大好きで。
ナイト2000のメカニックにエイプリル(April)という女性がいて。
で、5月ならメイ(May)だろう、と。

妹が「ニナ」だったか「ニーナ」という名前を候補にあげていて。
これは「27日」からとったもの。
(それを憶えているので、5月27日という日付を忘れずにいられる)



18年は、猫にしては結構長生きな方でしょう。
それでもやっぱり、ペットロス状態になったし、メイ以外の猫はもう飼わないと思っていました。

それがご縁あって、今は2代目のネロがいます。
こちらは雄で黒猫。

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これまた余談ですが、ネロの名付け親もぼくです。
ネロ(Nero)はイタリア語で黒、ありがちではありますが。

ネロに会えるのは、帰省のときの楽しみのひとつ。
子どもたちもすごく嬉しいみたいで。

なかなか会えないけど、今はネロがみんなのアイドル。


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メイの写真、もう一枚見つかりました。
これは2001年の1月1日。


とまあ、そんな感じでゆるいまま今日はこの辺で。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん

対話について、前置きのようなもの。


改めて、〈対話〉について考えてみたいと思います。

ただ、このところブログを書く時間が全然確保できていないこともあるので。
何回かに分けて、いろいろな側面からゆっくり考えていけたらいいかな。


今までも、〈対話〉については何度か書いています。

〈試行錯誤〉 - とむやんの氣まぐれ雑想記

「私は大丈夫」論。 - とむやんの氣まぐれ雑想記


などなど。

で、〈「私は大丈夫」論。〉の中でもちょこっと書いているのですが。

実は多くの人が、そもそも〈対話〉を求めていないのかも?という氣がしています。
TwitterなどのSNSを見ていると、ますますそう感じるようになって。

最近は、「コミュ力」なんて言葉を頻繁に目にします。
だから当然、「コミュニケーション」そのものに対する意識って、高まっているもんだと思っていたのですが。

結局、〈持論〉を押し通したいだけ、正しさを誇示したいだけというやりとりが多い。
だから、人の話なんて聞こうともしない。

「じろん」を「自論」と書くのは本来、間違いなのだそうですが。
この場合、あえてこっちの漢字を使った方がしっくりくるかもしれませんね。


そうは言っても、ぼく自身〈対話〉ができているかと問われると、自信はありません。
だからこそ、〈対話〉とは何なのか、考えてみたいし考えてきたのだと思います。

そんなわけで、今日(2019.5.26)はその前置き、のようなもの。



先日、Roastery DAUGHTER(ロースタリードーター)に行ってきました。

京都のカフェ、WIFE&HUSBAND(ワイフアンドハズバンド)のコーヒー豆焙煎&販売のお店です。
こちらは昨年の12月にオープンしたばかり。

残念ながら、カフェの方にはまだ行ったことがありません。
焙煎所の方は、京都駅から歩いていける範囲なので比較的行きやすい。

ぼくは今回で2度目、今年の3月に初めて行きました。

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2階はGallery SON、古道具などステキなものがいっぱいありました。
1階のインテリアもその古道具が使われていて、ラボラトリーのような雰囲氣。

ちなみに、焙煎所は販売のみでコーヒーを飲むことはできません。


初めて行ったときも、今回も感じたことなのですが。
定員さんの接客がとてもいい。

1度目は男性の方、2度目は女性が2名いらっしゃいました。


ぼくは喫茶店やカフェが大好きで、よく行きますが。
たまに、お客さんとして妙に「氣を遣う」お店があるんです。
なんなら、「来たらダメだったのか?」と少し不安になることさえあったり。

これはカフェ友のちゃたくんも言っていたので、ぼくの勝手な被害妄想ではないはず。


で、このRoastery DAUGHTERはすごくフラットにいられる場所、というのかな。
前述のパターンとは真逆、「来てよかったな~」と思えるのです。

コーヒー豆を選ぶときの会話、さりげないのだけど何だか楽しい。
業務的なやり取りだったり、逆にダラダラと話してしまったり、そういうことがない。
(ダラダラ喋ることも、それはそれで好きなんですけどね)

初めて行ったときにそのことに感動して、また買いに行こうと思っていたのです。
(もちろん、コーヒーが美味しかったってこともあります)


例えば、パッケージについて。
青い箱に入れたものと、少し簡素な紙で包んだものがあって。
紙の方がちょこっとだけ値段が安いのです。

どちらもスタイリッシュでステキなので、1度目は箱入りを買いました。
そのときに、「まずは箱がほしいから今回は箱入りを、次からは紙包みにしようかな」というようなことを言ったら。

定員さんはすかさず、「2度目のご来店のことも考えてくださって、ありがとうございます」と。

こういう氣の利いた言葉って、案外スッと出てこない。
これはマニュアルでは対応できないこと。

たぶん、Roastery DAUGHTERにもマニュアル的なものはあると思います。
コーヒー豆の袋にガス抜きの穴を開けるかどうかを尋ねる、とか。

でも、「喋らされてる感」「やらされてる感」がないんですよね。

これはバイトさんや従業員だから、とは限りません。
お店のオーナーさんでも、「イヤイヤやってるの?」と感じることは多々ありますし。



〈対話〉を考えるときに、「コーヒー」に例えて考えるとわかりやすい氣がします。
例えば料理とかもそう、提供する/されるものについて。

そして、Roastery DAUGHTERのある種の心地よさもまた、ぼくにとっては考える上でのひとつの基準になりそうです。


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ちなみに、最初に買ったのはDAUGHTERという名のブレンド

どちらかというと浅煎りブームの昨今において、これはしっかりとした深煎り。
だけど、飲み口は優しくすっきりしていて、くどくない。

お店や接客の感じとリンクする感じ、氣のせいではないでしょう。


2度目は、あえてもっと深い味のものを選びたいなと思い、そう伝えました。
(ちょうど、別のところで少し浅めの焙煎のコーヒー豆を買っていたこともあって)

かと言って、基本ブラックで飲むので、あまり苦味が強いとどうかなと。
もうひとつのブレンドSONは、ミルクと合わせる感じだと思っていたので。

いろいろ話をしてみると、やはりDAUGHTERの次はSONを試してみるのがいい、と。
言うほどは苦味も強くない、ということでしたので。

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実際飲んでみると、やはりこれはこれで美味しい。
カフェオレにしても存在感があるだろう苦味、だけどブラックでもいける。

コーヒーだけで飲むならDAUGHTER、甘いものと合わせるならSON。
個人的にはそんな印象です。

頻繁には行けないかもですが、チャンスがあればこれからも定期的に訪れたいお店。


これから「対話」について考えていく中で、「Roastery DAUGHTERのあの接客」という言い回しが出てくるかもしれません。

何はともあれ、京都に行く機会があったら、Roastery DAUGHTERにも是非寄ってみてください。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん

甘南備山に登りたい。

今週のお題「特大ゴールデンウィークSP」



せっかくなので、お題を。
でも、「特大」とか言われてもなぁ。


昨日、5月3日は憲法記念日
憲法について、今年も書きたいなと思っていたのですが。

憲法記念日に、〈ルール〉について考えてみた。 - とむやんの氣まぐれ雑想記

(↑昨年はこんな記事を書いていました)

憲法記念日。 - とむやんの氣まぐれ雑想記

(↑2017年の5月3日)

Respected as Individuals - とむやんの氣まぐれ雑想記

(↑2016年)


一昨日から熱っぽくて、今日は一日寝込んでいました。

実は明日、久々の珈琲出店と演奏もちょこっとする予定なので。
今日はさらっと書きたいと思っています。



体調を崩した理由は、何となくわかっています。
4月30日に、近くの山に子どもたちと行ってきたのです。

自転車で登山口まで行って、山頂と展望台に登って帰ってきました。

登山口までがなかなかハードだったので、山登り自体はそれほどでもなく。
ただ、自転車で汗かいて、その後冷えたのが原因だと思います。


京田辺に、甘南備山という標高221メートルの山があります。
「甘南備」は、「かんなび」と読みます。

末っ子のこども園では毎月1~2回、この山に登る日というのがあって。
このゴールデンウィーク中に、下見をしておきたいと思っていました。

最近、野鳥観察にハマっている長男も行きたがっていたし。
このタイミングで行けて、やっぱりよかった。



自転車でアップダウンの激しい道を、30分ほど。
そこから川沿いの、細い道をひたすら進みます。

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登山口に、やっと到着。
駐車場に自転車を止めて。

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(↑駐車場にあった案内板)

子ども3人と、舗装された道を登っていきます。
途中、いろいろな鳥の声や姿があって、観察しながらゆっくり歩いていきました。

コゲラやカラ類はわかるのだけど、あとはもう判別できない。

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甘南備山は「神南備」とも書き、「神の隠れるところ」という意味があるんだそう。

名前のイメージだと、奥深い秘境の地って感じがしますが。
比較的登りやすい山だと思います。

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ただ、今回はとりあえず山頂まで行っただけなので。
他にもまだ回れるコースがあるので、次はそっちにも行ってみようと思っています。

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山頂近くの階段。
こういうところは、小さい子どもにはちょっと登りづらいところ。

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末っ子はそれでも文句言わず、着実に登っていました。


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山頂に到着。
天氣がイマイチだったけど、眺めはよかったです。

家からここまで、だいたい1時間半くらい、だったかな。

右手には神社があり、左に少し進んだところには展望台があって。
今回はそれで時間切れ、山を下りました。



今後も機会をつくって、子どもたちと甘南備山に登ってみたいと思います。
まずは初めて行った記念として、このブログに残しておきます。

ということで、今日はこの辺で。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん

がんばっても克服できないこと。


はぁ、もう限界。

特に2週間前は、「身も心もボロボロ」って感じでした。

おかげさまで先週、向町カフェでのライブイベントを終えることができて。
その後、余韻に浸る暇はなかったけど、今はとにかくちょっと落ち着きました。


とは言え、今日(2019.4.29)は愚痴と弱音のオンパレードになるかもしれません。



引っ越しをして、もうすぐ3ヶ月。
新学期を迎えて、慣れないことが一氣に押し寄せてきて。


滋賀での生活に慣れ親しんでいたから、自分でもすっかり忘れていたのですが。

新しい環境に置かれての、人とのコミュニケーションが、ぼくは本当に苦手です。
「苦手」と言うか、「がんばったら克服できる」ものではないのだと思います。
少なくとも、短期間ではムリ。


これまで、ライブや司会なんかをしていたので、「ウソでしょ?」と言われます。
でも、小学生の頃はクラスでの発表さえできなかったときもありました。

だから自分でも、どうしてできるようになったのか、不思議に思ったりもします。
今はステージとかで喋ったり歌ったりしても、そんなには緊張しません。

まあ、1000人規模とかになったら、また全然違うのかもしれませんけど。


だけど一方で、ちょっとしたことができなかったりします。
たとえば、「道に迷ったときに人に尋ねる」とかも、すごく苦手。



ちゃんと診断を受けたことはないのですが。
ぼくは、「自閉症スペクトラム」やその二次的障害があるようです。

そのこと自体は、自覚的であったつもりでした。
でも、冒頭に書いたように、すっかり失念していたのです。

もう大丈夫、と思い込んでいました。


思い返せば、滋賀に移り住んでからの2~3年は、実は結構しんどかった。
それを忘れていた、というよりは、忘れようとしていたのかもしれません。

実際、「大丈夫になった」のだって、自分の力ではなかったのだろうと思います。
たくさんの助けがあったおかげだということ、そんな大切なことを忘れるなんて。


先日、東京大学入学式の上野千鶴子さんによる祝辞を読みました。
賛否両論、いろいろ話題になりましたが、ぼくは以下の部分が特に印象に残りました。


 【あなたたちはがんばれば報われる、と思ってここまで来たはずです。】
 【ですが(中略)、がんばってもそれが公正に報われない社会があなたたちを待って  います。】

 【そしてがんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの
 努力の成果ではなく、環境のおかげだったことを忘れないようにしてください。】
 【これまであなたたちの周囲の環境が、あなたたちを励まし、背中を押し、手を持っ
 てひきあげ、やりとげたことを評価してほめてくれたからこそです。】

平成31年度東京大学学部入学式 祝辞 | 東京大学



ほんと、そうだなぁとつくづく思いました。
そう、まさにそのことを忘れていたんだなぁ。

「ここまでよくがんばってきたね」と、自分に言ってあげることも大事かもしれない。
だけど、上野千鶴子さんの仰るように、【あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください】ってこと。

「自分が努力してきたからだ」という傲慢さ、それは〈ひとり勝ち〉の論理。
人を見下すか、自分を卑下するか、対等なコミュニケーションからどんどんかけ離れてしまうのかも。

自分の「克服できないこと」から目をそむけていれば、いつの間にか「人のできないこと」を貶めて見てしまう。
【自分の弱さを認め、支え合って生きる】ことの大事さを、今改めて感じています。


そういうことに氣付かされても、2週間前には全然余裕がなくて。
「ライブまであと1週間」なのに、練習ができていない。

氣もち的には、かなり追い詰められていました。



もうひとつ、この時期に読んで共感し、救われた記事があります。
鴻上尚史さんの、「ほがらか人生相談」。

「友人に絶交されました…」 鴻上尚史が指摘する原因“無意識の優越感”とは (1/7) 〈dot.〉|AERA dot. (アエラドット)


鴻上さんの人生相談、いつもすごく的確なんですよね。
的を得ているだけでなく、視点がとても優しい。
(余談ですが、「的を得る」は誤用ではない、というのが最近の通説だそう)

鴻上さんが「39歳でロンドンの演劇学校に留学」されたときのこと。

今のぼくは、言葉の通じない外国にいるわけではありません。
でも、感覚的にはかなり近いものがあるんじゃないか、と。
『Englishman in New York』の歌詞、「I'm an alien, I'm a legal alien」って氣分。


たとえば悲しみや痛み、どれだけ苦しいか、などなど。
そういったそれぞれの人の経験は数値化できるものではないし、簡単に比較することもできません。

だから、〈共感〉は諸刃の剣みたいなところがあって。
一方は「それ、すごくよくわかる」、一方は「そんな簡単にわかられてたまるか」。


ぼくにはたぶん、前述のようなハンデキャップがあります。
だからって、「人よりも大変」と言いたいわけではないのです。

でもときどき、自分は将棋でいうところの「角落ち or 飛車落ち」で世渡りをしているんじゃないか、って本氣で思ったりします。
普段の生活では、パッと見そういうことってわからないですから。

でもでも、それを言ったら他者だって同じこと。

鴻上さんの留学中の経験も、すごくわかる氣もするし。
それに比べたら自分なんか全然甘いんじゃないか、とも思います。

そういうことを言い出すと、ややこしいですね。
「誰々よりマシ」とか、相対的に捉えることがそもそもの間違いなんでしょうけど。


「無意識の優越感」。
自分も加害的にそういうことあったかもなぁと、今回改めて振り返ったりしました。

「自分だけが大変なわけじゃない」というのは救いになったりもする。
なのに、それを人に向けてしまうと、途端に攻撃的なものになってしまう。


言いたいことがだいぶ交錯して、着地点がわからなくなっていますが。

鴻上さんはこの相談で、「対等な人間関係」に敏感になることで、新たな出会いがあるはず、とアドバイスしています。

また改めて書くつもりですが、向町カフェでのイベントではみんなから温かく迎えてもらえて、すごく嬉しかった。
そういうときこそ謙虚に、「対等な人間関係」を意識したいもの。

「無意識の優越感」がベースの「居心地のよさ」では、いずれ関係性が崩れてしまう。

一方で、新しい環境での数々の出会いでは、「優越感」をもつことはむずかしい。
だからこそ、「対等な人間関係」を模索するいい機会、でもあるのかもしれません。

もうひとつ。
対等であるためには、自分軸がグラグラでは成り立ちません。

かと言って、ガッチリし過ぎて人の意見も聞き入れないのも問題ですけど。
まあ、それって実は自分軸が確立していないからこそ、なんでしょうね。

【自分の弱さを認める】というのも、自分軸になること。
弱さを否定して克服しようとすればするほど、自分軸はガチガチで脆くなる。


『Englishman in New York』には、「Be Yourself no matter what they say」という歌詞があります。
人に何を言われても、自分は自分。

そういう感覚が揺らいでいたから、このところすごくしんどかった。


あれこれ書いてみて、自分軸が取り戻せたり新しくできた部分もあったり。
おかげで、だいぶ楽になりました。


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写真は本文とは関係ありません。
家の近くの観音寺にあった、鬼瓦。


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そうそう、「鬼」つながりで。

先日、末っ子が図書館で借りた本がとてもおもしろくて。
シゲタサヤカさんの『オニじゃないよ おにぎりだよ』。

このオニたち、もしかしたら「対等な人間関係」のヒントになるかも。
何となく、関連のある話につなげたところで、今回はこの辺で。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん

観音寺と井手町の桜。

今週のお題「桜」



さあ、4月に入りましたね。
今日(2019.4.1)のブログは、今週のお題「桜」


滋賀にもたくさん、桜がキレイなスポットがありますが。
京田辺周辺にも結構あるみたいで、楽しみにしています。

昨日は、近所の観音寺までみんなで散歩しました。

まずは、その近くの「普賢寺ふれあいの駅」へ。
地元野菜や加工品などを売る、いわゆる「道の駅」。

そこにも桜が咲いていました。
河津桜、なのかな?

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買いものをしてから、観音寺へ。

観音寺の前には、この時期に合わせて菜の花がいっぱい植えられています。

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菜の花は満開、残念ながら桜はまだ3分咲きくらいでした。


3月30日から4月7日まで、スタンプラリーが開催されていたり。
期間中は花見ウォークがあったり、菜の花を無料で摘み取れたり。

スタンプラリーは子どもたちと参加、ふれあいの駅と観音寺で2つ押してきました。

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桜が満開の頃には、菜の花は終わっちゃってるかなぁ。

スタンプラリーの他のスポットを見ると、市内の桜の名所がわかります。
できたら全部廻ってみよう、と思っているのですが。

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この日は風が強くて、結構寒かった。
それでも比較的、たくさんの人でにぎわっていました。


足元にはツクシ、空にはイワツバメ
春だなぁという感じです。

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さて、桜の名所をもうひとつ。
京田辺ではなく、お隣の井手町

まだ行ったことがなかったのですが、マップを見たらそんなに遠くない。
今日、自転車でちょこっと行ってきました。

最寄り駅の三山木駅(JRと近鉄の2つがある)、その脇を通ってひたすら東へ。
橋を渡ると、早速桜が見えてきました。

「玉川の桜並木」、こちらも4月7日まで「井手町さくらまつり」が開催中。
模擬店が出ていたり、夜のライトアップもあるんだそう。

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桜は5分咲きという感じでしたが、空がどんよりとしていたのが残念。
堤の両側に桜が並んでいて、満開になるとさらに綺麗でしょうね。


井手町は失礼ながら、ちょっと地味な印象。
わるく言っているのではなく、そういう方が個人的には好きです。

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商店街と言うには廃れている雰囲氣ではありましたが、ぽつぽつと魚屋さんや肉屋さんがあったり。

今回はあまり時間がなくて、用事だけ済ませて帰りました。
帰り際には雨も降り出してきたので、いろいろ探索するのはまたの機会にするとして。


桜の他に、お目当てが2つあって。

ひとつは、「むすび家ide」というコミュニティスペース。

京都産業大学の学生さんたちが町おこしの活動拠点として、古民家をリノベーションしたのだとか。

そこは、これまでも寺子屋や講座などが開かれていたそうです。
そしてこの春、「むすび家カフェ」を新たにオープン。

井手町で採れた野菜などを使ったメニューを提供しているとのことですが。
今日のところは、珈琲だけいただいてきました。

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次はご飯も食べてみたいし、これからも注目してみたいと思っています。


もうひとつは、大西商店というお店。
たまたまInstagramで見つけたのですが、自然食品の取り扱いもしているということで。

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近くにあまりオーガニックのものを買えるところがないので、これは嬉しい。
京田辺には「なないろの空」さんがあるのですが、今春休み中だったりするし。

品揃えもそれぞれ微妙に違うし、何より寺田本家のお酒や酒粕などの取り扱いがあるのです。

冷めても美味しい珈琲の淹れ方?! - とむやんの氣まぐれ雑想記
(ちょうど、ちょっと前の記事で寺田本家のことを書きました)

井手町、なかなか侮れません。



家の近くの観音寺と、井手町と。
他にもまだいろいろあるのですが、ぼくもまだ見ていないので、2ヶ所だけご紹介。

このブログを見てくださっている人は、滋賀の方が多いかと思います。
なので、これを見てわざわざこっち方面に桜を見に来ることはないかもしれませんが。

もし、京田辺周辺に桜見に行こうかな、という方がいらっしゃいましたら。
ぼくたちの家にも是非寄ってください。
実はまだ引っ越しの片付けが途中だったりして、人をお呼びする状況ではないのかもですが。

ただ、来週以降は子どもの学校がはじまるし、今月はバタバタになりそうなので。
もし、行こうかなという場合にはメッセージ等ください。
(住所等もそのときお知らせします)

大したおもてなしはできないかもしれませんが、珈琲は淹れますよ。

ちなみに、4月5日はハクハク茶小屋へ珈琲淹れに行くので不在です。

COME BACK とむやん’sしゃべごもり in ハクハク茶小屋


あと、4月7日は次の日からの準備などで忙しくなりそう。
この日はあまり時間が取れないかもしれません。


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(↑これは井手町の桜)

直前のお誘い(?)ですが、タイミング合えば是非。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん

〈マイボイコット〉のススメ。


最近もあれこれ考えてはいるのですが。
うまくまとまらず、なかなか書けないでいます。

なんだかいろいろと、この国の状況はかなりひどいことになっていると感じています。
そのひとつひとつを検証する間もないくらい、次から次と問題が出てくる。


こういうときこそ、もっと〈BOYCOTT〉を!と思います。
以前にも、ちょこっとだけ書いたことがありました。

身体のストライキ。 - とむやんの氣まぐれ雑想記



今日(2019.3.30)も、ジョージ・クルーニーブルネイの9つのホテルをボイコットしようと呼びかけている、というニュースを見ました。
ブルネイでは、同性愛者などに鞭打ちや石打ちの処刑など、4月3日から施行される新刑法には非人道的な刑罰が含まれていて、問題視されているのだそう。

最近では、スウェーデンのグレタ・トゥーンベリさんが学校をボイコットして、国会前で座り込み、温暖化対策を訴えたことが大きな話題となりました。


けれど、日本ではまだまだ馴染みのない〈BOYCOTT〉。
何となく、〈ネガティブ〉なイメージが強いのかなぁ。

ぼくがボイコットに注目するようになったのは、環境運動家の辻信一さんの影響。
2007年の情熱大陸で、辻さんは「Bボイコット・Bブッシュ・Bビーフキャンペーンを、ひとりで勝手にやっている」みたいなことを、明るく言っていて。
それがすごく印象に残って、真似しようと思ったのでした。

そういえば、「キャンドルナイト」もボイコット運動の発展形。

ちなみに、今日は「EARTH HOUR(アースアワー)」という、世界中の人々が同じ時刻に消灯することで、地球温暖化防止と環境保全の意思を示すプロジェクトがあって。

EARTH HOUR(アースアワー) 2019 青い地球を、未来へつなぐ60分|WWFジャパン


20:30から1時間、ぼくも参加してみました。

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ハーブティーを淹れて、キャンドルを灯して。
それぞれ、20:30を迎えた地域から消灯していくので、消灯リレーが地球をぐるっと一周する、という。

こういうことも、「1時間くらいやったところで変わらない」とイチャモンつける人もいるでしょう。
これだけやって満足して、他のことを何もしないとすれば、確かに問題なのかも。

けれど、こういうことを扉として、関心をもつ人が増えるのはいいと思うけどなぁ。



さて、〈BOYCOTT〉がなぜあまり浸透しないのか。

たぶん、批判的だったり否定的だったり、そこが〈ネガティブ〉に感じられるのかな。

みうらじゅんの「マイブーム」みたいに、〈マイボイコット〉とかだったら?
そう考えたら、もっと氣楽にできるんじゃないかな。

ちなみに、〈マイボイコット〉を言い出したのはぼくではありません。
いつもウィットに富んだ発想をする、詩人のアーサー・ビナードさん。


あくまでも自分ひとり勝手にやっているだけ、それでいいと思う。
むしろ、異なる意見を否定したり批判するから、ややこしくなるのでしょう、きっと。

例えば、「ベジタリアン」の場合。
たまに、「肉を食べない」ことにすごく批判的な人がいたりして、ビックリします。

ベジタリアンの人は、「自分が肉類を食べない」と言っているだけ。
「あなたも肉を食べるべきじゃない」と批判しているのではないのです。
まあ、一部には批判的な人もいるのでしょうけど。

相手に呼び掛けたり賛同を求めたりはしても、強要したり否定したりはしない。
〈マイボイコット〉をする上で、とても重要なことだと思います。


ぼくは、そういう〈マイボイコット〉的なこと、自分なりにいろいろやっていて。

テレビは家にないので、基本テレビは見ない。
出かけるときなどはできるだけ水筒をもっていく、自販機は利用しない。
などなど。

音楽でも、「この人(グループ)のは絶対聴かない」と決めているものもあります。
ミュージシャンとして全然カッコいいと思えない主義主張を知って、この人たちの曲は一切聴かない、と。
まあ、不思議と大抵の場合、最初から興味なかったパターンが多いのですけど。

だからって、誰かが「この曲好き」とか「〇〇っていいよね」と言うのを否定したりはしません。
ひっそりと、「自分は聴かない」と心に決めているだけ。

「ぼくはあまり聴かないなぁ」とか、「実はあまり好きじゃないんだよね」ぐらいは言うかもしれません。
でも、その人がどう思うかをこっちの〈正義〉でジャッジしない、押し付けない。

それはぼくからしたら、〈マイボイコット〉の流儀に反する、というのかな。

先ほどのジョージ・クルーニーも、「私たちがボイコットしようと、法を変えるほどの影響力はないかもしれない」というコメントをしていました。
ただ、「人権侵害の手助けをしたいとは思わないよね?」と。


先日、ぼくの家にNHKの集金の方が来ました。

その人は全然イヤな感じじゃなかったんですけど。
「受信料の取り立てが以前より厳しくなりまして」みたいな説明があったので。
そういう態度のNHKに腹が立って、つい「申し訳ないけど、NHKって大嫌いなんです」と言ってしまいました。

まあ、こういうことは普段は言わないようにしています。
集金の人がしつこかったり高圧的だったら別、ですけど。

これについても同じことが言えます。
ぼくは今のNHKのあり方はおかしいと思っているし、もう見たくありません。
いっそ、なくなってしまえばいいと思ったりもします。

だけど、それは集金の人には関係のないこと。

「そもそも、受信するテレビもスマートフォンもないし、PCにもチューナーはない」ということを説明しました。

それで、じゃあNHKを見る人を批判するかというと、それはありません。
批判の対象は、あくまでもNHK(この場合)。

ただ、たまに「NHKにだっていい番組はある」とか、「その中でがんばっている人もいる」とか言う人もいます。
それこそ、こっちの知ったことじゃない。

そういう人がNHKを辞めて、別の放送媒体をつくってくれたらいいのにとは思います。

そう、「いい人」こそどんどん〈マイボイコット〉した方がいい、と思うのです。


元号もそう。
Twitterでも、「元号をボイコットしよう」というような声をよく目にします。
ぼくも元々使わないようにしていましたが、それでも役所などでは押し付けてくる。

今回、転居してからの手続きで市役所に行ったとき、やることが多過ぎてつい、ボイコットするのを忘れました。
やっぱり、正直メンドウなことではあるのです。

だから、「首相の想いの込められた」新元号を拒否しようという流れは、ぼくにとっては「渡りに船」かもしれません。


そうそう、〈マイボイコット〉のいいところはできる範囲でやる/やれるということ。

その代わり即効性はないし、効果も見込めないかもしれません。
でもそれがかえっていいんだ、と思います。

影響力が強い方がある意味キケンだったりするもの。

なので当然、ボイコットをすればすべて解決、というようなものでもありません。
ボイコットをしたという経験から、違う視点から捉えたりできるようになる。
自分自身の変化を楽しむ、そういうスタンスが大事なのかなと思います。


もうひとつ付け加えておくと。
何をボイコットするのか、当たり前だけどそこの見極めがとても大切です。

選挙に行かないというのは、〈ボイコット〉としてはあまりオススメしません。

選挙に行って、「〇〇党には絶対入れない」という〈ボイコット〉をする。
つまり、選びたくない選択肢以外に票を入れればいい、ってことですよね。

そう、〈ボイコット〉を突き詰めると、単に「選ばない」というところから、「対抗馬を選ぶ」に発展するわけで。
ボイコットや不買運動は、積極的に「これを応援したい」というものとセットに考えていくと、どんどん〈ネガティブ〉ではなくなります。


最近知った言葉「There is no alternative(TINA)」とか、「詭弁・強弁」についてもあわせて考えてみたかったのですが、今日は時間切れかな。

また何かの形で書けたらと思います。


あ、最後にもうひとつだけ。

〈ボイコット〉の語源って知ってました?
今回調べたら、なんと人名なんだそう。

しかも、そのボイコット大尉は〈ボイコット〉した側、じゃなくて排斥された側。
まさか、後世にこんなに名前を知られるとは、思ってもみなかったでしょうねぇ。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん