とむやんの氣まぐれ雑想記

〈探幸王〉を目指して、さまざまな想いを綴ります☆

遊びをせんとや


今日(2018.6.10)は長男と、栗東の歴史民俗博物館へ。

「博物館を楽しもう!
 ~人生を豊かにする博物館の活用法 鉄道模型、藤織り、骨格標本~」
という講演会。

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講師のおひとりに、大阪市立自然史博物館、なにわホネホネ団団長の西澤真樹子さんがいらっしゃるということで。
これは是非、長男と一緒に行かねばと思っていました。

西澤さんが監修・解説をされている『ホネホネたんけんたい』。
長男が大好きな本です。

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ちなみにぼくは以前、歴史民俗博物館の旧中島家住宅のかまど再生事業に、「市民コーディネーター」として関わらせていただいたことがあります。

へっついさん。 - とむやんの氣まぐれ雑想記

(これも結局、かまどのことを書けていないままですが)



講演会の内容、ざっとですがメモしておきます。

栗東歴史民俗博物館市民学芸員の会の活動について」
「鉄道関連資料整理の楽しみ」
「手仕事の伝承~丹後藤織り保存会の活動~」
「なにわホネホネ団の活動~世話役の側から・市民の側から~」
意見交換会

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こんな感じの流れなので、長男は途中で飽きるかな?と思ったのですが。

おもしろかったと言っていました。
藤織りの話は、特に興味深かったみたいで。

ぼくとしても、いろいろ響くものがあって、行ってよかったなと思いました。
そこから少し、自分の感じたことを書いておきます。



意見交換会の中で、市民学芸員の会の方がおっしゃっていたこと。
「〈ボランティア〉という言い方はあまり好きじゃない、ぼくは〈遊び〉だと思ってやっている」
「〈遊び〉だと言うと、不謹慎に思われるかもしれないが、むしろ一所懸命やる」

そうだよなぁ、と改めて深く頷いちゃいました。

〈遊び〉については以前、ちょこっと書いたこともありますが。

「D」の補足。 - とむやんの氣まぐれ雑想記


この市民学芸員さんは、かまど再生のときにもお世話になった方。
そしてそのときも、どの市民学芸員さんも、本当に楽しんでいたと思います。

すごく実感がこもっていて、すばらしい言葉だと思いました。


なにわホネホネ団(以下ホネ団)の西澤さんも、「ホネ団に来られる方は自分で満足感をつくれる、楽しめる人たち」というようなことをおっしゃっていました。
丹後藤織り保存会会長の井ノ本さんも、「双方向性」だったり、「ライブ感」という話をされていたのが印象的でした。
(ちなみに、井ノ本さんは喋り方もお話も、すごくおもしろかった)

「楽しみ」や「満足感」、「居場所」とかも、自分からつくっていく。
これからますます、そういうスタンスが重要になってくる氣がしています。


ちょっと前に、「司会業お休み」宣言をしましたが。

eclipse - とむやんの氣まぐれ雑想記


別に司会がイヤとか、キライになったわけでも何でもなくて。

でも、今日の講演会を聞いて、「あぁ、〈遊び〉の部分がなくなっていたんだな」と。
基本的には、「おもしろいね、いいね、やろうやろう」というスタンスでいるつもりなのですが。

自分の中で「ちゃんとやらなきゃ感」があると、「報われない感」がハンパない。
まだうまく言葉にできない部分ではあるのですが。


例えば先日の、日野のda-naで開催させてもらった【お産とへいわのじかん】。

いつも自宅アパートなどでやっている〈へいわのじかん〉のスペシャル版、「お産」の話も絡めて。
パートナーシップや対話について、より深く話ができたと思います。

「進行をしなきゃ」とか、「コーディネートしよう」なんて氣負いは全然なく。
元々、パートナーのメイコの付き添い的な立ち位置を意識したので、参加者のひとりとして楽しめました。

結果的には、たぶん結構喋ったし、進行っぽいこともしていましたけど(笑)
でも、最初からいい意味での〈遊び〉になっていた。

それに、こちらが流れを決めて進行したわけじゃなく、その場の雰囲氣での「双方向性」がよかったのだと思います。

【お産とへいわのじかん】については、また改めて振り返りたいなとは思いつつ。



そんな〈双方向性〉が楽しい〈へいわのじかん〉。
今週、また自宅アパートで開催します。

滋賀・栗東/へいわのじかん


今回は「耳を傾けること」をテーマに、楽しくお喋りができたらいいなと思います。
ミヒャエル・エンデの『モモ』などを参考にしたりしつつ。


日時:
6月14日[木]10~12時ごろ
時間ある方はその後、お昼ごはんを一緒に食べましょう。
ごはんと汁物は用意します、一品お持ち寄りください。

場所:
キシダ家(栗東川辺の自宅アパート1F)

参加費:
ハート❤️マネーをお願いします。



〈へいわのじかん〉という形は、今の自分にとっての〈遊び〉にうまく結びついているように思います。
ここでのスタンスは「司会業」じゃないので、だから逆に進行役をやってみたり、聞き役に徹してみたり。
(とは言いつつ、聞き役はまだ修行中な感じですが)

参加者それぞれ、「楽しめてるかな」と必要以上に氣を配ったりして、ヘンに氣疲れしてしまったり。
今日の講演会を聞いていて、そこは各々の自主性にお任せしたり、信頼性が必要なのだと思いました。

そして、その上で〈役割〉を分担していく。
そこも今、自分にとっての大きなテーマなのですが、それはまた別の機会があれば。
今日のところはこの辺にしておきます。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん

66で11。


昨日6月6日は、長男の誕生日。
11歳になりました。

長男の誕生日に思うこと。 - とむやんの氣まぐれ雑想記
(↑2016年、9歳になったとき)

十年一昔。 - とむやんの氣まぐれ雑想記
(↑昨年、10歳になったとき)



話は逸れるけど、ぼくはあまり子どものときのことを憶えていないんです。
本当にちょこっとした断片的なことぐらい。
それも、小学校5年生より前のことってほとんど記憶にない。

あの頃、出たばかりのファミコンを友だちの家で見て、羨ましくて。
一方で、ボードゲームにハマっていて、自分でもつくったりしていました。

後に、テレビゲームにどっぷりハマって、抜け出すのが大変だったり。
今でもまだ「笑い話」にはなってない、かも?

ゲームという「沼」。 - とむやんの氣まぐれ雑想記


動物が好きで、『ドリトル先生』のシリーズや『シートン動物記』を読んでいたのもこの頃だったはず。
けれど、それ以外の本はほとんど読んだことがなく、マンガも『ドラえもん』しか興味がなかった。

そう言えば、『トランスフォーマー』にハマっていたのもこの頃。
たぶん全体的に、嗜好は幼かったんじゃないかなぁ。

そして、今とは性格も全然ちがう、だいぶネガティブな子ども時代でした。



なんでこんなことを振り返ってみたかと言えば。

11歳ともなると、やはり自分の11歳の頃を投影してみてしまうところがあるから。
でも、以前が友人が言っていて、「本当にそうだなぁ」と思ったことがあって。

友人は子どもにはいつも、「親の期待を裏切れ」と言っていたんだそう。

親って、なんだかんだ〈期待〉をしてしまうもの。
〈期待〉そのものは悪いことではないのでしょうけど。
それが、自分自身の〈期待〉を子どもに押し付けているだけだとしたら。

作詞家の秋元康さんの言葉。
「子育ってって、親のリベンジになったらダメ」
例えば、親が甲子園行けなかった父親が、俺の代わりにお前が行ってくれ、とか。

言葉に長けている人だけあって、これもまた「そうだなぁ」と。

言うまでもなく、その子の人生はその子のもの。
そして、10歳ぐらいからいろいろ変わってきたなぁと思います。
長男を見ていても、そして自分を振り返っても。


自分の子ども時代は、すごく狭い世界で生きていたよな、って。
10歳まではむしろ、それでいいのかもしれません。

でも、10歳を超えてくると、親との関係も変わります。
世界との関わり方自体が激変するように思います。


だから、親の〈観念〉を超えて、多様な世界観をもってほしい。
それもある意味、「親のリベンジ」なのかもしれませんが、それとは真逆のベクトルのようにぼくは捉えています。

そう思いながらも、なんだかんだで押し付けてしまうから、友人のように「「親の期待を裏切れ」と言っておくのがいいのでしょうね。



ちなみに、今日6月7日は妻メイコの誕生日。

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長男の誕生日も、お祝いは合わせて週末に、の予定ですが。

何もないのもどうかと思って、急遽守山のWABARA caféに行ってきました。
ワンオーダーに付き、和バラが一輪もらえるのです。
(写真はもらったものではなく、テーブルの一輪挿し)

昨日も、母が送ってきてくれた「家音 -kaon-」さんのスイーツでお茶しました。

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以前、「嬉しいことがあって」と続きを書くつもりが。
前置きのまま、一年以上経ってしまいました。

カフェ・ド・アクタのこと。 - とむやんの氣まぐれ雑想記


「家音 -kaon-」さんのことは、またちゃんと改めて書きたいと思います、今度こそ。

今回、古代小麦アインコーンを使ったヒルデガルトの「喜びのビスケット」ビーガンバージョンの試作品もあって。
これ、ちょっとどう形容していいかわからないのですが、一枚でこんなに満足するビスケットってなかったかも、と。


そう言えば、先日長男がふとこんなことを言っていました。

いただいた市販のお菓子を、ぼくが食べていたときのこと。
(長男は前日に食べていたので、そのときは見ていただけ)

前後、どういう話の流れだったか、忘れましたが。
「そうか、ぼくは普段かなりいいもの、美味しいものを食べているんだな」って。
そんなようなことを言い出して。

妻と二人、「そうだよ~」と言いながら。
内心では、そこに氣付いてくれたことが妙に嬉しかったな。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん

eclipse


今日(2018.6.1)から6月。

5月はバタバタしてしまって、何だかあっという間でした。
忙しいわけじゃなく、まあ要領がわるいのでしょう。


5月13日母の日には、「マザーアースデイ2018」というイベントの司会進行をやらせていただきました。

寿長生の郷に行ってきました。 - とむやんの氣まぐれ雑想記


悪天候の中ではありましたが、とても有意義なすばらしいイベントだったと思います。
関わらせていただけて、本当によかったです。
ありがとうございました。



さて。
これで、ようやく自分としては次のステージに行けるかな、という感じです。
「マザーアースデイ2018」までやり切って、区切りを付けようと思っていました。

ひとつは、しばらくは「大きなイベントにはコミットしない」つもり、ということ。
もうひとつは、当分の間「司会業はお休み」しようかな、ということ。

「大きなイベント」と言っても定義があいまいですけど。
最近はこじんまりと小さくやることの方が、自分の性に合っているように思います。

そして、「司会業」と書きましたが。
「業」と言うよりは、単に「他にやる人がいなかった」だけだったりします。

そういうのが案外、「天職」だったりすることもありますよね。
そういう意味では、これからは「自主的にやる」かもしれない、そんな感じです。



このところ、「人から認められること」とか「報われない感」とか、そんなテーマばかり書いています。

fbにいただいたコメントに返信していて氣付いたのですが。

そういうある種のモヤモヤとした「どんより感」って、実は「次のステージへと進む」ためのきっかけ、なのかもしれない。
だから、逆に「いい兆し」として捉えて、飛躍してしまえばいい。

「いやいや、まだまだこんなもんじゃ終わらないぜ」っていう、そんな感じかな。


「人からどう見られるかを氣にし過ぎない」ということでもあるだろうし。
やっぱり結局、「自分のやりたいことを徹底的にやってみる」ということ。

その「自分のやりたいこと」って、常に上を目指して行くわけで。

例えばだけど、ウクレレとかでも難易度【低】をずっとやっていても、モチベーションは上がらない。
全然弾けなくても、難易度【高】に挑戦してみたくなるもの。

もちろん、初心を忘れちゃいけない。
だからと言って、「安全圏」に留まることじゃない。



雄のカモは、繁殖期には派手な色や飾りのついた羽をしています。
けれど、繁殖期が終わると換羽期が来て、地味な羽に変わります。
それをエクリプス、もしくはエクリプス羽と言うんだそうです。

ちなみに、このエクリプス(eclipse)は元々、「日食」や「蝕」を意味するのだとか。
そして、語源はギリシア語で「力を失う」こと。


今は何となく、「換羽期」が来ているのかもしれません。
そう言えば、6月1日と言えば「衣替えの日」だったりしますね。


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自分なりにもう一歩前へ、そんなタイミングかもしれません。

とは言っても、あくまでも自分の心理的な変化。
カモのように、地味になるわけではありませんので(笑)


                    せれんでぃっぽ☆とむやん

雨の日の雑草、もしくは雑想。

前回の記事、fbの方でいろいろとコメントをいただきました。
ありがとうございます。

そう言えば、以前にも↓こんなことを書いていました。

くれない夜叉。 - とむやんの氣まぐれ雑想記


その中で、「「くれない夜叉」歴がずいぶんと長かったぼくも、ようやく卒業できそうな感じ」と書いているのですが。

ちなみに、「くれない夜叉」とは。
あれして「くれない」これして「くれない」と、報われない感に苛まれている状態を表す造語です。

冒頭にも書いた「かけた情けは水に流し、受けた恩は石に刻む」。
言い方はさまざまですが、同じような言葉がたくさんあるようです。

〈へいわのじかん〉で「パートナーシップ」の話をしたときにも。

へいわのじかん。 - とむやんの氣まぐれ雑想記


夫婦間でもよくあることですが、自分のしたことにはすぐ「ポイント加算」するのに。
相手がしてくれたことには難癖付けて、ノーカウントにしてしまうとか。


何だか、一昔前のプロレスの「悪徳レフリー」みたいですよね(笑)
3カウントを遅らせたり、反則技を見て見ぬふりしたり。
(まあ、今の政府がまさにこの状態ですけど)


最初の時点で、「人のために」と思っているときほど、なぜか後になって「これだけやってあげたのに」となってしまいがち。
いろいろなところで既に言われていることですが、「人の為(ため)」は「偽(いつわり)」なんですよね。

だから、最初から「自分のために」やればいい。
自分が受けた恩を返すためなのだから、見返りを期待することもない。

不思議なもので、「自分さえよければいい」という考え方がどこかにあるときほど、「人のため」とか言ってしまうんでしょう。

だからなのか、人に「こうしてほしい」とか「そんなことをしないでほしい」と言う人ほど、その逆を自分はやっていたりする。


まずは、恩を受けていることを知ること。
それを心に刻んで、それを返すことに喜びを見出すこと。

返す相手は必ずしも恩を受けた相手でなくてもいい(pay it forwardなど)。
返し方も、実はそんなに難しくない(例えば、「無財の七施」など)。

「恩知らず」でいることは、実は結構つらいこと。
もしくは、だからこそますます「報われない」のでしょう。

ゲーテの名言に「忘恩はつねに一種の弱さである。わたしは有能な人たちが恩知らずであった例を知らない。」というのがあるそうです)



さて、今日(2018.5.31)書きたかったのは、別のこと。
もうすぐ梅雨入り、しかも今年はちょっと早そうです。

車も免許もないぼくにとっては、引きこもりになりがちな時期ですが。
こういうときこそ、「歩く」にはいい機会です。

walking distance。 - とむやんの氣まぐれ雑想記


先週、いつものカフェSTILLROOMに行った後。

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Cafe con Miel/ハチミツ入りのカフェラテ


帰りはちょっと寄り道しながら、家に帰りました。


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途中、工場の花壇にある草木がとても綺麗だったので、観察したり。
写真も撮らせてもらいました。


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いつも当たり前に通り過ぎる場所も、雨の日だからこその楽しみがありました。
土手のいわゆる「雑草」も、いつも以上に美しく見えます。

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「雑」って元々、多種のあつまりを表す漢字。
「多様性」の大切さって、特に最近見直されてきていると思います。

「雑」をいい意味で使いたいな、と思ったのは環境運動家の辻信一さんの著書の影響。
このブログも、「雑想記」という名前にしたのはそういう意図があってのこと。

雑?!エンターテインメント☆ - とむやんの氣まぐれ雑想記


fbでいただいたコメントに、こんなことが書かれていました。
「私は毎日お庭の草とコケと、自分時間の朝の10分を過ごしています」
雑草ったって、綺麗やん可愛いやんと、独り言発しながら」

雑草に綺麗だね可愛いねと声を掛ける。
無財の七施」の、「眼施」と「言辞施」と言ったところでしょうか。


「くれない夜叉」は本当にもう終わりにして。
「偽り」ではない恩返しを楽しんでいきたいな、と改めて肝に銘じているところです。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん

「報われない」と感じたときに、やってみること。


猛烈な〈報われない感〉に襲われるとき。


例えば、「人の評価にばかり氣にしてしまう」のが大きな原因かもしれません。

本当に自分がやりたいこと、好きなことに向かっているのかどうか。
本当にワクワクすることをしていたら、他人の評価(それが批判であっても称賛であっても)はほとんど氣にならないのだと思います。

本当はイヤなことなのに、「やらなければならない」と自分に課していたり。
いつの間にか少しずつ、目的や目的地が変わってしまっていたり。

人からどう言われるか、嫌われていないかどうかで動くのだとすれば。
それは、自分の舵から手を放してしまうようなもの。


それともうひとつは、「与えること」に不安があるから、かもしれません。

「自分はこんなにやっているのに」とか、「私ばっかりが損している」というときに限って、自分も同じように「与える」マインドになっていない。

「与えること」が充分にできていないと、その逆の「受け取ること」に躊躇してしまうもの。

「呼吸」などを例に考えると、よくわかると思います。
しっかり吐き出すと、自然と息を大きく吸える。



とまあ、分析的なことを書いてみましたが。
いわゆる「五月病」なのか、ココロもカラダも何だかアンバランス。

このブログ記事自体も、書く氣が起きずに何日も下書きのままでした(笑)


そんなとき、畑に行くとかなりリフレッシュできます。

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先週の話なので、今はもう採り切ってしまったのですが。
うちの畑でも、今年もエンドウ豆がたくさん採れました。

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風の強い日に、支柱ごと倒れてしまったりして。
それでも結構な収穫量がありました。

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植物からは、「与えること」とはどういうことか、学ぶことがたくさんあるように思います。

もちろん、植物からしたら「与えている」つもりはないのかもしれません。
でも、実はそこまでお見通しで、「与えること」によって自分たちの繫殖繁栄に協力させているんじゃないか。
そんな風に最近は感じたりします。

だからと言って当然、傲慢に「受け取って」いいわけではありません。
そこは謙虚さが必要なのだと思います。

先日も、「捧げる」ということについて改めて考える機会がありました。
(そのことはまた改めて)



今回、エンドウ豆は煮ものに使ったり、ピクルスっぽくしたり。
美味しくいただきました。

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そうそう、話はちょっと脱線しますが。
つい最近、「タイガー・ウッズ方式」というものを知りました。

プロゴルファーのタイガー・ウッズは、プレーオフのとき。
相手がそのパットを外せば自分が優勝、というときにも「入れ」と心の中で念じるんだそうです。

ライバルがパットを外して、ウッズが優勝したときの動画を見たら。
外した瞬間に、本当にガッカリした顔をしていました。


「報われない」と感じるときは。
タイガー・ウッズのように、「ライバルの成功も願う」マインドが必要なのでしょう。

そういう風に切り替えたいときにこそ、「土をいじる」とか「料理をするとか」。
そういうことが案外、〈特効薬〉になるんじゃないか、そんなことを考えている今日この頃です。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん

自分自身への、ラブレターみたいなもの。

今週のお題「あの人へラブレター」


今日(2018.5.23)は、メイコの「まなぶくらす」。
「初夏の庭のブーケを束ねる会」に参加しました。

メイコのブログ MANABUCLASS -学ぶ・暮らす-


「ちょうちょ結び」のちよちゃんに来てもらっての、ナチュラルブーケWS。

こういうのは、子どもの方が「いいもの」をつくりますね。
常識から外れるのがニガテだと、どうもありきたりになってしまう。

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(スワッグ【swag】、壁飾り)


でも、思っていた以上に楽しかった。
いい時間でした。



さて、今日5月23日は「恋文(ラブレター)の日」だそうで。

今週のお題は、「あの人へラブレター」
毎度ながら、普通に書いてもおもしろくない(自分が)ので。


話はズレますが、最近「矢沢永吉(あえて敬称略)」のエピソードを知りました。

矢沢永吉が50歳のときのバースデイスペシャルライブでのこと。

『I LOVE YOU, OK』という曲の途中で、感極まって歌えなくなる場面があって。

  I LOVE YOU, OK
  振り返れば
  長くつらい道も
  お前だけをささえに歩いた

この2番の「お前」と言った後、詰まってしまう。

後に、インタビューで矢沢永吉はこう答えたんだそうです。

「矢沢、お前ここまでよく来たな」
「そういう気持ちがふわーっと出てきて、歌えなくなっちゃった」

歌詞の解釈はいろいろあるけれど。
このときの矢沢永吉は、「お前」に自分自身を感じてしまう。


本当に、それに比べるなんておこがましいのだけど。
何十分の一、何百分の一かもわかんないけど。

自分自身へのラブレターというか、エールみたいなこと、書いてみようかな。
直前に、この矢沢永吉のエピソードを知ったから、余計にそんなことを思ったのです。



よくここまで耐えてきたよね。
もちろん、まだまだ「これから」なんだけどさ。

でも、今「本当にしあわせだなぁ」ってつくづく思う。
それは、10年前20年前には到底ムリと思っていたこと。

たくさんの小さなタネを蒔いて、まだ全然実ってないし、刈り取ったわけじゃない。
ここからひとつひとつ、できることをやっていくだけ、そしたら大丈夫だから。

そりゃ、落ち込むこともたくさんあるよ。
誰からも評価されない氣分になったり、しょっちゅう自己嫌悪にもなる。

だからこそ、それ以上にワクワクすることをどんどんやっていっていい。

せっかくなら、矢沢永吉にも負けないような50歳、60歳を目指してみようよ。
50歳になって、「だからあのとき、言っただろ?」って、言えるように。


                    せれんでぃっぽ☆とむやん

寿長生の郷に行ってきました。


今日(2018.5.12)は、叶匠壽庵の寿長生の郷(すないのさと)に行ってきました。

六万三千坪の丘陵地に、寿長生の郷はあります。
ありがたいことに、石山駅から無料のシャトルバスが出ていて。
瀬田川沿いを約30分。

そこは、自然豊かな「里山」でした。

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今日は、午前中に次男の授業参観があったり。
そして実は、シャトルバスに乗り損ねてしまったので。

無事次のバスには乗れたのですが、滞在時間が1時間ほどしかありませんでした。


そんなわけで、まずは早速お目当てのひとつ、Bakery&Café「野坐」へ。
昨年11月にオープンしたばかりで、前々から来てみたいと思っていました。

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1Fがベーカリー、2Fがカフェになっています。

席は窓際を案内してもらいました、眺めがよかった~♪
時折、鳥の鳴き声も聞こえてきたり。


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コーヒーは1杯ずつ、サイフォンで。
しかも、ハロゲンランプを使った「光サイフォン」。


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クロックムッシュ(チーズとハム、ベシャメルソースのトースト)も頼んでみました。

余談ですが、一時期クロックムッシュにハマったことがあって。
久々に食べた氣がします、野坐のはちょっと高級感があって、上品な美味しさでした。

野坐ブレンド、そして初めての光サイフォン。
こちらもやはり美味しい。


1Fもチェックしてから、散歩道を少し歩いてみました。

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ところどころに花が咲いていたりと、散策にはいい時期だったように思います。


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東屋があったり、標識もあったりで、案外迷いませんでした。
普段ならちょこっと迷いながら歩くのも楽しいのですが。

残念ながら、帰りのバスの時間というタイムリミットがあるので。


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天氣がよくて、光の差し込む雰囲氣がとてもよかったです。


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+plants(プラスプランツ)という、寄せ植えの工房も佇まいがステキ。


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池もいくつかありました。
野の花観音径という雑木林の庭園になっています。


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ゆっくり見れず、ちょっと残念。
結構広いので、次はもっと時間をかけて廻ってみたいです。

山の展望ルートというのがあって。
ちょっぴりきつい坂道を登り切れば、見晴らしのいい山頂に行けるというもの。

今回は当然、行かれませんでした。


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野坐に戻って、山羊農園もちらっと見てきました。

見たいところは他にもたくさんありましたが、今回はあっという間に時間切れ。
帰りのバスはちょうどのところで間に合いました。



思っていた以上に、寿長生の郷はいい意味での「本氣」を感じました。


明日びわ湖ホールで開催のマザーアースデイ2018というイベントに、ぼくも関わっています。
司会進行の役なのですが、もう一方司会をしてくださる人がいます。
それが、叶匠壽庵の広報の方なのです。

それで、最初の顔合わせのときに、叶匠壽庵のことや寿長生の郷のことをお聞きして。
イベント前に、是非見ておきたかった。

やはり、行ってみてよかったし、また行きたいなと思っています。


里山を残しながら、そこで和菓子をつくる。
その想いは、「本物」だろうなと思います。

基本ぼくは、個人が小さくやっているものを応援したい、と日頃から心掛けています。

でも、叶匠壽庵はこの規模でこれだけのことをやってのけるのは、かなりすごいこと。
ぼくなりに、エールを送っていきたいなと、そう思うだけの説得力がありました。


さて、明日のマザーアースデイはどんなイベントになるのか。
おもしろくなりそうです。


マザーアースデイ~森と地球のtalk session 2018~
滋賀県立芸術劇場 びわ湖ホール 小ホール(323席)
前売1,000円/当日1,300円
滋賀県三井寺への植樹チャリティーイベントです。

マザーアースデイ~森と地球のtalk session 2018~



                    せれんでぃっぽ☆とむやん